元・魔王のゆううつ
最近、ザカリアスには悩みがあった。
「マオちゃーん! ごはんですわよー! 今日は新しいレシピを試してみましたのー!」
朝も。
「マオちゃーん! ブラッシングですわよー! リボンを着けてお洒落にしてあげますわー!」
昼も。
「マオちゃーん! おやすみのキス――はグロリアが怒るから、おやすみのだっこですわよー! むぎゅー!」
夜も。
朝から晩までハイテンションなフィリアナに絡まれて、疲労困憊なことだ。
ちょっと一人になりたいなと思うときに限って彼女はやってくる。そして、むぎゅっと抱っこされたり、あちこちなでなでされたり、とにかく触られまくる羽目になる。
飼い猫の立場というのは大変らしい。
ザカリアスは猫の姿で生まれ変わったことをずっと後悔していた。だが、肉体が崩壊しても、魔力で再構築した別の肉体に魂を移し替える儀式、『
生前、儀式で身を宿せる動物が判明したときも複雑な気持ちだったものだ。『なんで猫!?』『色々ある中で猫!!?』だとか、家臣には笑われたし、プライドはずたぼろ、今となっては嫌な思い出だ。
そして実際、猫の身体には不便なことが多い。
生きても死んでもいない魂だけの状態で、意識もあやふやなまま百年も無為に過ごすのも辛かったが、こうなるとどっちがましだったことか。
勇者にはコケにされ、お嬢様には構われ倒す。
どっちも元魔王の辿るべき顛末ではない。
「マオちゃーん! どこですのー!」
ザカリアスはその声にビクッとなった。
寝坊でグロリアに置いていかれてしまい、朝ごはんの後は屋敷の庭に身を潜めていたが、フィリアナはどうやら近くにいるらしい。なるべく物陰を選びながら、ザカリアスはゆっくりと忍び足でこの場を離れる。
フィリアナの声と距離を取りつつ、花壇を通って屋敷の裏口を目指そうとすると、ザカリアスは花壇の中からちょろちょろと動くピンク色の何かが見えた。ミミズにしては太いような……と、とっさの好奇心に勝てず、そこを覗いてみる。
「フシャーーーーッ!!」
「ギャーーーーーーーーッッ!!!」
威嚇音をあげながら、とぐろを巻く大蛇。
思わず悲鳴をあげるザカリアス。
猫の天敵は蛇だ。
全身の毛をボワッと膨らませて威嚇に対抗するが、相手の蛇は大きすぎた。おまけに身体は奇抜な色のまだらな柄で、噛まれたら間違いなくヤバいと思わせるには十分の破壊的なルックス。
猫の本能が優位に働いてしまったザカリアスは恐怖でその場を動けずにいた。
「こらーっ! マオちゃんをいじめたらダメですわーっ!」
そこへ、ほうきを持ってフィリアナが走ってきた。
フィリアナはザカリアスを庇うように敢然と蛇に立ち向かうと、ほうきの先端を勢いよく突きつけた。
しゅるり、と蛇は箒に頭から巻きついていく。
「今ですわ! えいっ!」
謎の掛け声でフィリアナはほうきを上に向ける。
「はっ! それっ! はっ! えいやっ!」
ぐるぐるとほうきを回しながら、どんどん蛇を巻きつけさせていく。
大蛇はすっかりほうきに取りついて動かない。
珍妙な捕り物風景に、ザカリアスは呆気にとられていた。
とどめと言わんばかり、フィリアナはほうきを大きく振り上げ、蛇を屋敷の壁の向こうにポーンと放り投げた。
「…………」
「はーっ、はーっ、これでもう安心ですわね! お隣のペットのサムくんも、今年で脱走何度目でしたかしら……」
ザカリアスは完全に凍りついたままそこにいた。
あれほどの大きさで野生はありえないと思ったら、ペットだったのか……。
というか、放り投げて解決するものなのか?
様々な疑問に取りつかれるザカリアスは、不意に自分を抱く腕があることに気が付いた。
「よしよし、怖かったですわね、マオちゃん」
フィリアナの腕の中、ザカリアスは複雑な気分だった。
蛇ごときに後れを取るとは、猫の身体とは本当に不便なものだ。
おかげで人間の娘に助けられるとは。一度、飢えかけて倒れたときも合わせたら、これで二度目。
情けない気分でザカリアスは「みゃぅん……」とか細く鳴いた。
臣下たちに今の姿を見られたら、恥ずかしくてもう一度死んでしまうだろう。
グロリアが冒険者ギルドの仕事を受けている間、フィリアナが代わりに家事を手掛けることになった。
炊事に掃除、洗濯、家や庭の整備と、やることはたくさん。加えていつもの近所の教会の手伝いや勉強もこなしているのだから忙しい。
そんな合間を縫って、フィリアナはザカリアスを構い倒すのだからタフにもほどがある。
今日は床掃除だ。
「さーて、綺麗にしますわよー!」
やる気満々、フィリアナは柄の長いブラシを床にかけていく。
ザカリアスはそばでそれを見ていた。
フィリアナの家事の腕は、グロリアに比べたらお粗末なものだ。
普通、お嬢様が家事をするなんてありえない。フィリアナはグロリアから基本的なことは教わっているというが、生来のうっかりやな面もあって、危なっかしくて見てられない。
もはや事故が起きなければいいという気持ちで見守っている。
案の定、ブラシをかけるフィリアナは床に意識がいっていて、周りが見えていない。身体のあちこちを廊下の壁や家具に軽くぶつけていく。ついていくザカリアスは溜め息をつきたい気持ちだった。
どん。ブラシを方向転換させるとき、フィリアナのお尻が大きな棚にぶつかった。中の花瓶が揺れて宙に投げ出される。その予想される軌跡の先は、どう見てもフィリアナ。
(あッッッぶにゃい!!)
ザカリアスはわずかな魔力を奮い起こし、落ちてくる花瓶をフィリアナの頭上でぴたりと停止させた。物体を浮遊させる、魔族にとってはごく低級の魔法だ。
「~~~♪」
鼻歌まじり、掃除に夢中のフィリアナは気付いていない。
ザカリアスは意識を全集中させ、宙で浮いている花瓶を所定の位置へと戻す。
この程度の魔力が復活していてくれて助かった。でなければどうなっていたことか……。
最初は影を操る程度しかできなかった魔力が、徐々に回復傾向にあるらしい。仮初めの肉体から、本来の姿を取り戻すにはまだとんでもなく足りないが、時間の経過である程度は期待できそうだ。
(ただまた百年、二百年かかる話かもしれないニャ……)
魔族の百年なんて一瞬、だと思いたいが、ザカリアスには魂だけの百年間が苦痛だった。
今すぐにでもほしいものを何年もおあずけにされたら誰だってうんざりするだろう。
そのうちの何年かはこの家の飼い猫をやる生活が入っている。
気が遠くなった。
「ふ~~ん♪ ふん~~~♪」
(このお気楽能天気娘も、まさか魔王の手を借りて掃除をしているとは思うま……いっ!?)
驚くザカリアスの目線の先で、古びた絵の額縁がミシミシと音をたててずれていく。例によって真下にはフィリアナ。
(ああああもう世話が焼けるにゃあ!!!)
ヤケクソじみた思いでザカリアスは絵画を魔力で受け止める。
「ふ~~んふ~~ん♪ 猫ちゃんフフ~ン♪」
(いったい、誰が苦労してると……)
妙な歌を歌いながら、踊るようにブラシをかけていくフィリアナ。
その横で、ぜえぜえと大きく息をするザカリアスは、
(………こうなったら先手を打つニャ!! この娘の身の回りのもの一旦どける!!)
そう決意を燃やす。
フィリアナの背面にある家具を動かし、ブラシをかけ終えたら元に戻していく。
掃除に夢中のフィリアナは動ける範囲が広がっていることになど気付かない。それどころか、ブラシをかけられる面積が広がって、より掃除に燃えているようだ。
気が付けば。
「………あれ、すっごくキレイですわ!!?」
人の往来で埃が立つことも多い廊下は、今やぴかぴか輝いて目に眩しいほど。
普段は動かない家具の下まで埃や汚れを取っているから、廊下の空気自体が清浄になっていた。
いるだけで爽やかな気持ちになる廊下を見て、自分のやったこととは思えないフィリアナと、その横で疲れ果て今にも倒れそうなザカリアス。
フィリアナは辺りを見回し、不思議そうな顔をすると――、
「なるほど! マオちゃんのおかげですわね」
(フニャッ!!??)
などと納得したようにつぶやく。
自分が魔術を使っていたのが知られたのかと焦るザカリアスをよそに、フィリアナは「ふふっ」と笑う。
「マオちゃんが見守っててくれたから、すーっごく捗っちゃいましたの! ありがとう、マオちゃんっ」
その言葉に、疲労困憊のザカリアスは安堵しつつ、(ますます能天気な娘だニャ……)と感想を深めた。
もう駄目だ。意識がもたない。
安堵した勢いか、疲れた頭が処理を止めてしまう。
ザカリアスはぴかぴかの木の床に倒れ伏して、小さな寝息を立て始めた。
あたたかい。
陽だまりの中で蕩けているような安息に気が付いて、ザカリアスは意識を取り戻した。
とても温かく、落ち着く場所にいる。微睡みの心地よさから目を開くのが億劫すぎて、ここがどこなのかはわからないけれど、場所なんてどこだっていいような気がした。
だって、何百年も生きて、こんな安らぎを知らなかった。
ザカリアスにとって眠ることとは、この百年間、死んでいるのか生きているのかさえわからない、曖昧な感覚に己の存在を預けなければならないことで、安らぎとは無縁だった。
ただ、寝ているだけなのに。
温もりに包まれた意識は、どこまでも溶け出すように広がって、世界と自身がひとつに合わさったような、そんな悠然とした思いにさえ届き、ただ満たされた。
ずっと、戦いばっかりで。
昼寝なんか……してなかったな。
魔王になる前も、なってからも。
自分には戦いの道しかなかった。
あの勇者という存在に、足止めを喰らうまで。
こつ。
ザカリアスは自分の小さな頭蓋骨が、ほんの軽い音を立てて鳴らされるのを知った。
こちょこちょ。
狭い眉間をなぞって、何度も行き来する。
どこか楽しげな動き。愛でるように、からかうように。
ザカリアスは「フニャ……」と寝惚けながら目をゆっくりと開ける。
「あ、起こしちゃいましたの……」
少しばつが悪そうな声でフィリアナは言った。
ザカリアスは眠気のあまり、とっさに判断できなかったが、さっきのはフィリアナだったようだ。
徐々に辺りを見回してみると、自分のいるそこはフィリアナの膝の上だった。
まだ昼下がりのテラスに出て、フィリアナは読書をしている。その膝でザカリアスは寝ていたらしい。
温かいのは、日光と、この娘の体温だったらしい。
フィリアナは「ふふ」と笑った。
「今日はマオちゃんのおかげで、家事が進んじゃいましたの。だから一緒に休憩、ですわ」
そう言って、ザカリアスの頭を指先でくすぐる。
ザカリアスはそれでついさっきのことを思い出した。
あの、温かいものに包まれる感覚。
生きてきて一度も辿り着いたことがないような、深い安らぎ。
(…………)
「ふふ、マオちゃんは可愛いですわね~」
頭をぽりぽりと掻かれながら、ザカリアスはさっきまでの自分を猛烈に恥じた。
(こんな人間の娘に……無防備になってしまうとは……)
気まずさに襲われて、却って身動きが取れないでいる間にも、フィリアナは身体を撫でてきた。
いとおしさと親しみに満ちた手つきだ。それを受けるザカリアスには何よりもわかる。
触られるのが嫌なのは、この娘相手だとされるがままになってしまうからだ。
ザカリアスは顎の下をくすぐられ、思わず「ぐるる…」と喉を鳴らす。
(この娘が……こんなに撫でるの上手いにゃんてぇえ……!!)
「うふふ、マオちゃんったら、溶けちゃいましたわ♡」
笑うフィリアナの膝の上では、手足をだらーんと伸ばし、お腹を見せて寝転ぶザカリアスの姿があった。
(どこにいるかもわからにゃい臣下たちよ……我を救ってくれニャ……我は、人間の娘に堕とされそうになってるニャ……!!)
悲愴な懇願とは裏腹、猫がまんざらでもなさそうなザカリアスであった。
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