ハロー、お嬢様
三日後、元・魔王ザカリアスは餓死しかけていた。
このあたりを牛耳る野良猫の大親分、トラジローの要求はむごいもので、新人には一日にイワシ五尾あるいはアジ二尾という厳しい内容を取り立てた。
魔力がほとんど回復してないうえ、グロリアに見せた一発芸だけでかなり消耗していたザカリアスは、トラジローとその一派にシメられた後、完全に現世に降りたことを後悔した。
魂のみエーテルの幽界でふわふわ浮いてるだけだった時間が長すぎて、生身を得て現世に降り立ったことでちょっとテンションが上がりすぎていたのかもしれない。
魚屋から魚を盗むのは大変なことだった。
血の気の多い魚屋に追い回されるのは恐ろしいことこのうえなく、何度もたくましい腕に首根っこを掴まれそうになっては、その瞬間を夢に見てうなされた。
そんな生活も、もう限界を迎えた。
それもこれも、あの勇者がひとでなしのせいで……。
薄れゆく意識の中、ザカリアスは責任転嫁で己を慰めながら、ふらふらと歩いた。
どうせ二度目の命が尽きるなら、あのにっくき宿敵の目の前に……。
ザカリアスは、ちょうどあの門の前に来たあたりで、ぱたり、と軽い身体を地に伏せた。
(おのれ勇者……三度目の生があれば、今度こそ……)
「きゃあっ!? ね、猫ちゃんが倒れてますわ!」
屋敷の方ではなく、倒れたザカリアスの後ろから声は聞こえた。
だが、力尽きたザカリアスに、その声の主を確かめるすべはない。
空腹で気絶した身体を抱き上げ、屋敷に運ばれる間も、ザカリアスは自分に何が起きているか、知りもしなかった。
顔に当たる、温かな湯気。
ほのかに甘い香り。
ぱちん、とまばたきして目を覚ましたザカリアスは、目の前でフー、フー、とお椀を冷ます少女の姿を見た。
「あっ、猫ちゃん、よかったですわ……! 今、猫ちゃんのためにおかゆを作ったところですのっ」
ザカリアスは自分が布を敷かれたバスケットの中で寝かされていて、それはどうやら目の前の少女によるものだと知った。
「もうそろそろ冷めた頃ですわね。さっ、猫ちゃん、どうぞ」
そう言って少女はそっとザカリアスをキッチンの石の床に降ろすと、そこに白いものが入った木の浅いボウルを差し出した。
本能的にそれを鼻先で嗅いでみる。ミルクの匂い! とっさにザカリアスは鼻先をお椀の中に突っ込んだ。
がつがつ、がつがつ。
冷めたミルクの中に浮いてるのは、ミルクを吸ってしっとりやわやわになったパン。
ひと口頬張れば止まらず、何日も空腹のままだったザカリアスは急かされるようにパンがゆを喰らった。
(う、うみゃいっ! うみゃいっ! この娘、いい人間だニャ……人間滅ぼすときはこの娘とその郎党だけ生かしておくことにするにゃああ……!)
人の優しさ、温かさに魔族の身ながら猛烈に感動しつつ、おかゆを頬張る。
ミルクの一滴、パンのひとかけらまで綺麗に舐め取ると、満腹感に満たされながらザカリアスは毛づくろいを始めた。
こんな穏やかで満たされた気持ちは、この姿になってからは初めてだ。
不意にザカリアスは自分を見る視線に気づく。
「よかったですわ……猫ちゃん、元気になって」
少女は本当に嬉しそうな顔をしてザカリアスを見ている。
栗色の長い髪に、薄い黄緑色のドレスを着た少女はゆっくり屈みこむと、ザカリアスの小さな頭に手を伸ばす。
「ふふっ、私、フィリアナ=ドレミーと言いますの」
頭を撫でながら、自己紹介。
ザカリアスは自分を襲った不慣れな感触に困惑したが、それが徐々に嫌な感覚ではないことを知り、とりあえずされるに任せた。
「私、猫ちゃんが大好きなんですの……! だから、ずっとずっと、猫ちゃん、飼ってみたくて」
はい?
今、なんて?
思考停止する間に、フィリアナはザカリアスの身体を持ちあげ、むぎゅっと抱きしめる。
「大切に飼ってあげますわーっ!」
(にゃ、にゃんだってぇ~~~~~~~~!!? この我が、人間ごときに飼われるッ!?)
頬ずりされながら、ザカリアスは抗議の意味を込めて鳴き始める。
「にゃ、にゃ~お、ぅみゃ~お」
「あっ、ごめんあそばせ、最初のスキンシップはほどほどにですわよねっ」
フィリアナはそう言って、顔を離す。
すると早く降ろしてほしいと盛んに鳴くザカリアスに、フィリアナはじっと食い入り、
「マオちゃん!」
そう言って、ぱあっと花が咲いたように笑うフィリアナ。
「あなた、マオちゃんって呼ぶことにしますわ! うふふ!」
「マオちゃん!」そう呼びかけられて、面食らっていたザカリアスははっと気を取り戻す。
(
我のこの姿からも、魔王的ニュアンスを察するとは……ただ者ではにゃい!)
そして再度、胸の中でやっぱりこの娘と一族は生かしておくことを誓うのだった。
「お嬢様、キッチンをお使いになりましたか?」
そこに突如、聞き覚えのある声がやってくる。
グロリアだ。
「……………」
グロリアの静謐な瞳と、ザカリアスの眼がぶつかって、沈黙を生む。
「お嬢様、どういうことでしょうか……」
「この子はマオちゃん! お屋敷の前に倒れてたのを拾ったんですわ!
ねえグロリア、この子も今日からお屋敷に住まわせてあげたいんですのっ」
「……………」
「………ダメですの?」
フィリアナはうるっと光る瞳で自身のメイドを見上げる。
するとグロリアは、はー、とため息をついて、一言。
「
「ありがとうグロリア! マオちゃんはとーってもいい子ですの! なにも心配いりませんわー!」
完全に自分の眼を見据えながら言ったグロリアに、ザカリアスは小さな心臓をどぎまぎさせた。
(絶っっっ対、お嬢様に何かしたらコロスって眼だったニャ………!)
「グロリアも、マオちゃんをなでなでしませんこと?」
「いえ、私は大丈夫です」
「そうですの………」
こうして、ドレミー家に一匹の(珍妙な)ペットが加わった。
「フフフ……勇者グロリアよ、こうされては手も足も出まい」
「卑怯な……!」
ザカリアスは、不敵な笑みを浮かべながらグロリアを迎える。
その前足の中には、白い糸玉。
「我と手を組まんというなら……こーしてやるのニャーッ!」
ガシガシと爪をひっかけ、白い糸は見る見るうちにほつれていく。
「何やってるんですかそれはお嬢様の枕カバーを繕い直す糸なんですよ!」
「にゃーっはっはっは、我を見くびるものはこうなるのニャ」
「………、じゃあ、私を見くびったらどうなるか教えますよ」
「え?」
ぐるぐるの糸まみれになったザカリアスは、ビー玉のような眼で首を傾げた。
「……グロリア、これはちょっと、やりすぎではないですの?」
横でフィリアナが心配そうにしているが、グロリアは「大丈夫ですよ」と言う。
「二度と同じことができないようにお仕置きで教えてやるのも、人間の責任ですからね」
「そう……ですわね……?」
二人で買い物に出たときの会話だった。
両手に買い物の荷物を携えるグロリアは背中にナップザックを背負っている。その中身は買い物ではなく、黒猫――ザカリアスだ。
「みてー、ママ、猫ちゃんが赤ちゃんみたい」
「あらー、かわいいわねえー」
「うぷぷ……あれじゃ、よっぽどひどいイタズラやらかしたんだな!」
「悪い子でちゅねー」
道行く人々は好き好きに感想し、ザカリアスのプライドを辱める。
ナップザックに無理やり詰め込まれ、首だけ晒して市中引き回し。
(おにょれ、勇者~~~~……ッ!!)
「あんまり暴れるとごはん抜きですよ」
「………」
「すごい! マオちゃん、グロリアの言うことを完全に聞いてますわ!」
完全に尊敬のまなざしを向けるフィリアナ。
そこにザカリアスは、「みゃおぅ……」と力なく鳴いた。
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