はじまりは英雄譚
――百年後。
「――かつて、この世界アルカシオンの滅亡をもくろむ、邪悪なる竜があった。
魔族の中でも類を見ぬというほどの強大さを誇り、数多の眷属を従えるその竜の名は、『暗黒の冷血公』、またの名を『魔王ザカリアス』! 暗黒の竜にして、魔王と呼ばるる邪悪の化身は、その暗黒の息吹もて、《眠りの女神》こと創世神レアンカルナ様がお造りになられたこの世の生命をすべて蹂躙する――かに思えた!」
朗々と声を張り上げる老人が語るのは、この世界の人間なら知っていて当然の歴史。
通りを歩く人々のほとんどは、彼を怪訝そうに眺めて通り過ぎていくだけ。
だが、老人は冷ややかな世間の反応もおかまないなしに、老いた身体には見合わない声量でその先を続ける。
客が一組だけいたからだ。
「――“英雄”の出現。のちに勇者と呼ばれ、百年経った後もなお世界に勇名を轟かすその人は――」
「勇者ロバート様ですわー!」
「そう、その通り!! 勇者は仲間を従え、多くの死線をくぐり、魔王ザカリアスと対峙した!」
見物の少女は、興奮と期待が入り混じるまなざしで先を待つ。
ふわふわの栗色の長い髪に、きらめく深緑の瞳。シンプルだが品のいいドレスに身を包んで、男の用意した粗末なゴザのうえに行儀よくちょこんと座っている。
そんな少女を横から見守る、もう一人の客。彼女よりも大人びた雰囲気で、黒い髪は三つ編み、清潔なエプロンドレスを身に纏った――彼女のメイドだ。
「そして激戦! 死闘に次ぐ死闘の果て、勇者ロバートの剣が魔王ザカリアスの邪悪なる心臓を貫いた! ――怒涛の血しぶきを上げながら、邪竜は絶命した。臣下たちは散り散り、世界の彼方へと消えていき、人間の国には姿を見せなくなった。世界はこうして救われた」
盛大な拍手と、控えめな拍手が同時に響く。
「今日のお話も最高でしたわっ、
少女は興奮冷めやらぬといった様子で、男にファンコールを送る。
その熱い反応に男は気恥ずかしそうに頭をかく。
「わしみたいな素人話芸にそこまで言ってくれるのはアンタだけだよ、フィリアナお嬢さん」
男はもともと王国の兵士だが、足を怪我して引退、役者を夢見た若い頃の思いをもう一度叶えようと、週末は辻に立ち、吟遊詩人の真似事をしている。だが、持ちネタは今のところ勇者ロバートの英雄譚ひとつしかない。百年前、魔王を倒し、世界を平和に導いた勇者ロバートの逸話は大陸の人間なら誰もが知るところだ。そのせいで子供さえ寄りつかない有り様だったところに、唯一ついた常連客が彼女たち。
貴族だと言うが、ここアウロラ王国の王都ルベラの古い地域にひっそりと住み、豪華な馬車で移動しているところなど見たことがない。
「おじいさん、お代代わりに今日もこれをお受け取り下さい。教会のご奉仕で分けて頂いたパンです」
メイドは小脇に抱えていた包みを男に手渡す。ほのかな麦の香りが鼻をくすぐった。
「お、おお……! いつも悪いな……お代なんて頂けるレベルじゃあないのはわかってるんだが」
「そんなことありませんわ! それにおじいさん、お金だと受け取ってもらえないんですもの、これぐらいしませんと価値に見合いませんのよっ」
フィリアナお嬢さんは胸を張って言う。
男は不意のその言葉に、つい目頭が熱くなった。普段は生活のため港で働いているが、ほとんどそっちで生きていくのでやっとなのだ。物語を練習できる時間はほぼない。だが、それでも辻に立ってみたい気持ちに勝てなかった。拙い喋りでも、彼女らに聞いてもらえて、本当に嬉しかったのだ。
「それではおじいさん、私たちは帰りますわね。また来週聞きに来ますわ!」
フィリアナはそう言って、メイドとともに帰っていく。
勇者ロバートの英雄譚が大好きなお嬢様と、無口なメイド。どうやら女だけの暮らしをしているらしい彼女たちに、女神の幸いの加護があらんことを、と男は心の中で真摯に祈る。
――……ゥミャーーーオ……………。
そのとき、路地に響いた、低い猫の鳴き声。
不気味なその声に、男は思わず身ぶるいする。まるで思考を読まれているかのようなタイミングで、この不吉な鳴き声。
消えていったお嬢様とメイドに、いったいどんな過酷な運命が待ち受けているというのか?
そんな吟遊詩人めいた言い回しを思いついたが、縁起でもないと男は頭を横に振った。
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