第14話 異世界は本当にあったんだ!
ちなみに原先生は、ファン以外の女子からは「腹から香る先生」(原先生の臭いは口からのものと思われるので正確ではないが、原薫とかけているからであろう)、或いは「臭い」をアナグラムした「おいにい」と呼ばれている。
一方、男子はもっと容赦なく、公害大怪獣ヘドハラだ。また、一部マニアからはヘビースモーカー=煙とかけて毒ガス怪獣ケムラーと呼ばれている。
俺はうかつにもそのことを忘れていた。二人に遅れて原先生に近づくと、早速見えない毒の霧を思い切り吸い込んでしまった。激しく咳き込む俺。自分の咳からも強烈な臭いが漂って来るようだ。
「大丈夫?」
葉月さんが気遣ってくれるが、優紀は「それ見たことか」と勝ち誇ったような目で俺を見下ろしている。
「どうしたんだね?」
原先生も気にしてくれているが、お前のせいである。しかしそんなことは当然言えるはずもなく、
「大丈夫です……」
と、答えるのがやっとだった。しかし、その自分の一言にすら臭いがこびりついているようで、またしても咳き込んでしまう。
見かねた優紀が俺を一番窓側の位置に立たせてくれた。今日が初夏で本当に良かった。秋冬なら間違いなく窓が閉じられて理科室は密室になる。考えただけで、暑いのに悪寒が走る。
俺はこの時、窓寄りの鼻の穴だけで何とか呼吸する技を編み出した。それでも、薄っすら腐臭が漂って来る。
俺がなんとか落ち着いたのを見計らって、原先生が俺たちの訪問の理由を訪ねた。
「どうしたんだ、七瀬?」
低音の涼しい声が理科室に響く。良い声だ。FMから流れてくるDJのようだ。臭いさえなければ本当にダンディなんだけどなぁ。もったいない。
いや、そこじゃない。今、何つった?
七瀬。
確かにこの毒ガス怪獣はそう言った。
七瀬とは、もちろん葉月さんの下の名前だ。ファーストネームだ。「どうしたんだ、七瀬?」いかにも親し気なこの問いかけは二人の関係を象徴しているようではないか。教師が生徒に向ける言葉としては親密すぎやしないか?
隣の優紀を盗み見ると、俺がこんなにやきもきしてるのに、特に何の変化も見受けられない。沈着冷静だ。というより、まるで興味がなさそうだ。
そんな俺と優紀を尻目に、当のケムラーは次のような言葉を放り込んできた。
「パーティを率いてくるとは珍しい」
急にRPG用語を放り込んできた。しかも、喩えとして使ってくるあたり、なんか、「知ってる」って感じだ。我ながら節操ないと思うが、急にこのダンディ教師に親密感を抱いてしまう。
「そうね、まさにパーティね」
しかし、葉月さんは葉月さんで、これまた親密な受け答えをした。教師に向かってタメ口である。モヤモヤした気分が増し増しになった俺の気持ちをよそに、葉月さんは俺たちを紹介しつつ、俺たちの来訪の理由を語り始めた。
「なるほどなぁ」
葉月さんの話を一通り聞き終えた原先生は、そう言って手にした缶コーヒーを一口含み、息を吐いた。早速周りの空気が濁った。
「荻窪田くん、」
原先生は俺の方に顔を向けて話し始めた。マスクをしている二人と違い、俺は剥き身だ。拷問に近い。色々と洗いざらい吐いてしまいたくなる。
「は、はい……」
「異世界には、本気で行けると考えてる?」
改めて、面と向かってそう問われると、色々と苦しいが、俺は行くと決めた。行かねばならん。
「はい!」
臭いを吸い込まないように鼻呼吸を停止したため、かなり鼻にかかった声になってしまい、誰かのモノマネのようになってしまったかもしれないが、俺は俺だ。俺は本気だ。
そんな本気の俺の横で、優紀がモゴモゴと何か言ったが、マスク越しだったし、やはりあまり口を開きたくないのだろう、よく聞き取れなかった。でも、どうせ何が言いたいかは手に取るようにわかったので捨て置いた。
「そうか……」
原先生は本気の俺の返答に頷き、俯いた。そして、そのまま床を見つめたまま黙ってしまった。表情は冴えない。どう言って諦めさせるかなー、といった風情のようにも見える。
何だか急にばつが悪くなってきた。よく考えたら、大人に面と向かって異世界に行く、と言ったのは初めてだ。いや、進路面談の時に担任の先生に言ったが、あの時は(本気ではあったものの)勢いだったし、すぐに否定した。こうやって真剣に相談するのは初めてだ。腹の中では俺のこと笑ってるんだろうな。
やはり、自分のことは自分で決めた方がいいのではないか。これまで通り、独自路線を貫いた方がいいのではないか。結局、最後に信じられるのは自分だけなのだから。
「異世界自体は普通にあるんだけどね」
ぽつりと、原先生は言った。今更言う必要のない常識ででもあるような言い方だ。
「え? あるんですか?」
思わず声に出してしまった。いや、あると思ってるよ。あると思ってるけど、大の大人(臭いけど)に当たり前のように言われると、正直面食らってしまう。
「そりゃあるよ。よその宇宙には、まー、普通に考えてあるんじゃないの?」
「よそ……? 宇宙の、ですか?」
「うん」
どういうことだ? 宇宙にヨソもクソもないだろう。
「あぁ、知らない? マルチバース」
マルチバース? 確かにバースは落合と同じく、一シーズンのマルチホームラン記録を持っている。しかし、なぜに突然野球の話が出てくる? 大丈夫か? このケムラー。
「あぁ、知らないか」
俺だけでなく、優紀も葉月さんも「何のことやら?」という顔をしているのを見て、原先生はそう言った。
「ユニバースって言葉は知ってるだろ?」
「宇宙……ってことですよね?」
それくらいは知っている。ナメられたものだ。
「そう。ユニというのは、単一の、という意味で、バースというのは、変えるとか曲げるという意味のラテン語が語源だ。変えられて、もしくは曲げられて単一になる、つまり全てのものが一つになる、ということで宇宙を意味する」
それは知らなった。さすがに先生だ。臭いけど。
「で、宇宙というのは実は唯一のものではなく、幾つもあることがわかってきたから、単一のユニを複数を意味するマルチに変えて、マルチバース」
「宇宙って……、幾つもあるもんなんですか?」
「あるよ」
「え……! マジですか?」
「うん。なぜ宇宙が複数あることがわかったかというと、ダークエネルギーを計測した時の値に問題があってね、」
「ダークエネルギー!」
「そう。ダークエネルギーというのはね、宇宙全体に等しく存在しているもので、インフレーションの原動力とも言われてて……」
「あの先生、」
葉月さんが急に割って入って来た。
「何だね?」
「そういうのいいです」
「え?」
「どうやったら異世界行けるのか知りたいだけなんで、そういうのいいです。早く教えてください」
「あ……、おう……」
割と熱が入って来たところを突然、しかも割と強めに止められて、原先生は面食らった上、ちょっと寂しそうだった。俺も聞きたかったので残念だ。しかし葉月さんは原先生には遠慮がない。二人は一体どういう関係なのだろう?
それにしても、宇宙が幾つもあったり、ダークエネルギーがあったり、世界は俺が考えている以上に中二病だったようだ。俺は高校三年生である。
「まぁ、とにかく、宇宙は幾つもあるわけだから、異世界はあることはある。問題はどうやって行くか、なんだけど……」
「すごい! 異世界は本当にあったんだ!」
「ないと思ってたんだ?」
「あると思ってたよ」
優紀の冷たいツッコミは的を射ているようだが違う。なぜなら俺の発言は、異世界があるのは当り前だ、と言わんばかりの原先生の物言いに感動したから発せられたのだ。
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