第13話 マッドサイエンティスト

 葉月さんの言うマッドサイエンティストがいる理科室へと向かう道すがらでの会話だ。


「でも荻窪田ほんとバカだよねー、ローエナ最後までやるなんてねー。付き合わされる方の身にもなって欲しいよ」


「荻窪田くんと一緒にやるローエナ楽しそうだったなぁ。その時同じクラスだったら、私絶対最後まで一緒にやってた!」


「そういえば、中学の時に貸した漫画、いい加減返してよね。まさか借りパク狙ってんじゃないでしょうね」


「荻窪田くんが好きそうな漫画持ってるから、今度貸してあげるね。好きな時に返してくれればいいから」


「荻窪田もいい加減ガキじゃないんだから、異世界とか言ってないでさー、進路のこと少しは考えた方がいいよ」


「いつまでも子供の心を忘れない純粋な気持ちって素敵だと思う。荻窪田くんにはそういうところ、大切にして欲しいナ」


 二人は真逆のことを話している。しかも、直接は会話していない。あくまで俺に話しかけているのだ。俺はそんな二人の問いかけに「うん」とか「あぁ」とか、うめき声のような音声を絞り出すのが精一杯だった。


 多分、これが女子特有のバトルなんだろう。非常にドス黒い空気が充満しており、率直に言うと、この場にいるのが嫌だ。


 やはり二人は水と油であった。女子同士のケンカは表には現れず、水面下でそれとわからないように進む。これなら野球部の灰色コンビにいじられている方が、わかりやすい分まだマシだ。


 女子は実は平和的なんかじゃ全然ないのかもしれない。常に刀をで握っているのではないだろうか。女子の平和は仮初めの平和でしかないのかもしれない。



 先生の前ではさすがに二人もそれなりに大人しくしているだろう、と思ったので「理科室」と書かれたプレートが見えた時は、砂漠でオアシスを見つけた時のような思いだった。理科室はなんとなく湿気が多く、じめじめした印象なので、という点でも共通している。我ながら、自らの言葉のセンスに眩暈がするようだ。


 我々がノックしようとするより早く、理科室の扉が開いた。中から出てきたのは女子三人だった。扉は開いたものの、我々に背を向け、理科室の奥に向かって、「先生、また来ますねー」などと言っているので、最初は顔が見えなかった。


 しかし振り向いた彼女らを見て、俺はギョッとした。全員マスクをしているのだ。理科室の前でマスクをした女子が三人も揃っているのはなかなかにして不気味な絵だ。


 それにしても、なぜ揃いも揃ってこの暑い最中マスクをしているのだろうか? 三人いたら、普通一人くらいはマスクをしていない者がいるだろう。それがなぜ……。


 ひょっとしたら、あのマスクの向こうには人に見せられないものがあるのかもしれない。獣のような牙が生えているとか……。三人、ということは三姉妹なのかもしれない。獣人三姉妹なのかもしれない。


 俺がそんな風に一人焦っていると、獣人三姉妹は扉を締め、そそくさとマスクを外した。俺に言われたくはないだろうが、三人とも至って普通の女子だった。顔も全然似ていない。獣人の線は完全に消えた上、三姉妹ですらなかった。


 それと入れ違えるように、優紀と葉月さんは、どこから取り出したのか(ポケットだと思うが)おもむろにマスクをかけ始めた。さっきまでの険悪な雰囲気はどこへやら、その動きは実によくシンクロしていた。そして葉月さんはドアをノックするなり、扉を開けて、


「先生、来たヨー」


 と言って、ズカズカと中に入っていった。ノックした意味ないじゃん。続いて優紀が理科室に入ろうとしたが、扉のところで振り向き、


「大丈夫なの?」


 と聞いてきた。さっきの女子三人、そして優紀と葉月さんのことを考えると、マスクをしないでも平気なのか?ということだろう。にわかに心配になってきたが、残念ながら俺には持ち合わせがない。しかし、ここまで来て購買部に行って買ってくるのも、連れてきてくれた葉月さんに悪い気がする。というわけで、


「あ、あぁ……」


 と言うしかなかった。


「ふーん……」


 と、優紀は言って理科室の中へと消えていった。


 何だ何だ? やはりこの中には何かあるのか?


 そういや、葉月さんはマッドサイエンティストって言ってたなぁ。何か危険な薬品の実験を常にやっていて、汚染物質的なものが充満しているのだろうか? 参ったなぁ。


 しかし、よく考えてみればここは高校だ。そんな危険なものは確実に教育上よくないから、たとえ何か実験をやっていたのだとしても、高が知れているだろう。


 俺は楽観的観測を自分に言い聞かせ、なるべく呼吸を少なくして理科室へ入った。



 中に入ると、先に入った二人の奥に、そのマッドサイエンティストがこちら向きに椅子に腰かけていた。


 堀の深い顔に、しばらく床屋に行っていないのか、黒い直毛の前髪が目を覆うように伸びている。前髪の奥には、精悍な太い眉毛が眉間を中心にV字型に伸びているのが見え隠れしている。顎にはうっすらと無精髭が並んでいる。


 ダンディと言って良いルックスだ。俳優、と言われても信じてしまうだろう。そういや、こんな先生がいたような気がする。名前は確か……、えーっと、何だっけな……。そうだ! 原だ! はらかおる先生だ。


 担当は物理で、職員室にいることは滅多になく、いつも理科室に入り浸っている。そのため、普段見かけることはほとんどなく、大抵の生徒にとっては影が薄い。しかし、その役者ばりのルックス故、一部の女子にはアイドル的人気を誇っている。さっき理科室から出てきた三人などはその典型だろう。


 ところが、である。


 その一部の女子以外の生徒、つまり、ほとんどの生徒にとって、さっきも言ったように影は薄いのではあるが、それと同時に疎まれてもいるのである。


 原先生のことを疎ましいと思っているその割合、肌感覚ではあるが、九割に上るだろうか。普通、とか、どうでもいい、ではない。なのである。良くても「苦手」である。


 好きと嫌いでこれほど極端に分かれるのは極めて珍しい。この人気の感じは、なんだかどこかの誰かに似ている気もするが、そう、綺羅星である。なぜウチの学校のイケメンは極端な人気分布図になるのだろうか? しかし、その綺羅星でもその割合は七対三である。原先生の場合は九対一だから尋常じゃない。


 これだけのルックスを誇っているのに、なぜそんな極端な配置図になってしまうのか? しかも、原先生を嫌いと言って憚らないのは男子よりもむしろ女子の方が多いのだ。一部女子には絶大な人気があるのに、ほとんどの女子には嫌われている。まさにミステリーである。


 答えを言うと、原先生が臭いからだ。原先生の周囲二メートルには、常に苦みと腐敗が混じったような臭いが漂っている。


 原先生の正体は実は悪の組織から送り込まれた毒ガス人間で、彼の吐く息は周囲の人に嫌悪感を催させる物質を含んでいるスカンク男である、ということではもちろんなく、おそらく、タバコとコーヒーが原因と思われる。


 原先生は理科室に入り浸っている、とさっき言ったが、それ以外はトイレか喫煙所でしか目撃例がない。喫煙所での滞在時間はブッチぎりで校内一位であろう。とんでもないヘビースモーカーであることでも生徒の間では有名である。


 また極度のコーヒー好きでも知られている。今も、原先生の手には缶コーヒーが握られているが、机の上には空になった缶が五つも置かれている。


 タバコとコーヒーのタッグは最強の口臭力を発揮する、とはウチの父ちゃんの弁であるが(職場にそういう奴がいるらしい)、だとすると原先生の口臭の原因は言わずもがなである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る