第89話『身に余る戦場、それでも その1』

 冥花先生は横合いに手を伸ばし、琴音に指示を飛ばす。琴音が真横に距離を取ったときには、冥花先生の腕がシュゴウの蹴りを防いでいた。放射状に広がる衝撃に、街が悲鳴を上げる。


 黒縄は、冥花先生の頭上。風を浴びて髪を逆立てながら二振りの剣を叩きつける。

 冥花先生が大きく背後に飛びずさり、毒液が噴水の如く湧き上がる。


 シュゴウが冥花先生を追い、琴音は今一度息を吸い込んで体に力を纏わせた。


 体を赤い旋風が覆う。

 高出力の風は力強く踏み込んだ琴音の周囲から毒液を吹き飛ばし、肉薄を後押しする。体勢を立て直そうとした黒縄の横っ面に向かって、斧を地面と平行に振りかぶる。


 激しい金属音。黒縄は顔をもたげることなく琴音の渾身の一発を自身の獲物で防いでいる。黒縄の刀身から弾けた毒液は風の鎧によって琴音から逃げていく。


 柄を掴む手にいつも以上に力が籠っているのか、二つの鋼鉄は激しく鍔ぜり合った。



『救援が来るまで、生きるための戦いをします』



 ……こうは言ったものの。



「黒縄 リリア。彼に何をした?」



 腹の底から出てきた低い声は、激しい怒りを訴える。黒縄は顔を上げることなく口元を歪め、琴音の獲物を小ぶりな剣が押し返し始めた。



「助けないといけない人間がいると、教えたまでよ」



 黒縄の言う、助けないといけない人間の姿とやらは見えないが、嘘ではないのだろう。

 黒縄は細腕にさらに力を籠めた。底の見えない膂力に、拮抗が崩れていく。



「あーあ。せっかく彼が決断したのに。たとえ将来に期待してるからと言っても、私の戦いを邪魔するなら、容赦しないわよ」



 背筋が凍る。

 黒縄の足元から漆黒の沼が刹那に広がり、琴音は反射的に獲物を手放して地面を蹴った。一秒も経たぬうちに琴音のいた場所は黒く染まり、地面を転がった琴音の眼前はそこから這い出た触手で埋まっている。


 腕を振り払うと旋風が触手を切り裂き、二の矢の風が琴音の周りから毒の血を吹き飛ばした。



「……決断だと」



 長く生きるために怒りの感情は不要なのは分かっている。一つの行動による体力の消費も普段より大きい。

 だが、侮辱まがいの言い分に怒りを鎮めることができなかった。



「彼は多くの決断をしてここまで来ました。後悔をしないための決断も、悲しみを押し殺してでも相手を幸せにするための決断も。正しい決断ではないこともあったかもしれません。でも……あんな顔で何かを選択させることを、“決断した”とは言わない」



 こんなことを説いても、馬の耳に念仏だろうが。

 目を見開いて黒縄に強い眼差しを向ける。構えを取った。



「私はあなたを楽しませる力を持っていないんでしょう。ならばそれでいいです。私は一秒でも長く生きる。せいぜい楽しくない戦いに時間を割くことです。あなたはこの街から出られない。そして今度こそ、無窮の牢獄に堕ちるんです」



 琴音の力強い言葉を、黒縄は失笑に付す。



「思いのほか、諦めの悪い女ね」

「どうも。あなたの大好きな少年譲りですよ」

「そう」



 黒縄の背後で、向かいの建物に寄りかかっていたビルが中ほどから折れ、墜落する。

 大通りを広がる音と粉塵が、戦いの火蓋を切る合図になった。



「でも、教えてあげる。弱ければ、もがく間もなく死ぬの。彼がそうあり続けられるのは、強いから。あなたはどうかしら」



 白銀と漆黒の視線が火花を散らす。その一瞬後、疾駆を終えた黒縄の顔面が、琴音の鼻先と触れ合いそうなほどの距離にあった。


 醜悪な笑みが、克明に映る。



「――これ以上、この私を煩わせることができるなんて、本当に思っているの?」

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