第90話『身に余る戦場、それでも その2』

 これは異常事態だ。街のほぼ全ての人間が地下に避難しているというのに、跋扈する人の気配が多すぎる。


 重厚な足音が鳴る。一人が立てる物音に聞き間違いそうだが、それは隊列を組む数名の黒い鎧を纏った人間たちのものだった。


 巨大なビルの残骸の陰で、朱莉は体を丸めて息を止める。その腕の中には意識のない蒼を抱いていた。目を固く瞑り、暗黒の一行が去るのを待つ。


 閉じた視界で、遠くの砲声を聞く。足音が聞こえなくなるのを待って大きく息を吐き、目を開けた。


 意識が朦朧とする。頭から伝う血が頬を通って蒼の腕に落ちた。


 近くのシェルターまで行こうにも、何度も彼らの行軍に遭遇して動けない。

 FNDに保護してもらうのを待つしかない、が。



「蒼」



 この腕に抱く命が、そうなっても助かるのだろうか。力を抑制する腕輪を失った今、溢れ出す邪気が蒼の命を貪っているように見える。


 両の目尻から血が流れ落ち、顔は生気が薄いが恐ろしいほどの熱を持っていて赤い。

 朱莉にできるのは、彼が助かることを信じて、一秒でも早く彼を助けてくれる人間に預けること。


 蒼を自身の胸にもたれさせながら、彼の腕に巻かれている起動装置を自分の腕に戻す。


 懐から鍵を取り出す。いざというときは、これで戦わなければいけない。



「……」



 がたがたと震えている自分の手を見て、驚いた。

 八月の青空が燦々と照っているのに、どうして寒いのだろう。


 蒼や琴音のような人間は平気で戦っているが、高校一年生に本物の殺し合いに身を投じる準備などできているはずもない。

 死体など転がっていようものなら間違いなく発狂するはずだ。泣き喚いてその場にうずくまらないだけで殊勝なものであろう、と頼りない鼓舞をした。


 蒼を抱き、肩に彼の腕を回して立ち上がる。全身の火傷が文字通り燃えるように痛い。


 手の傷に瓦礫の粒が混じって不快だ。


 辺りを見渡し、瓦礫につまずきそうになりながら弱り切った街を進む。風が朱莉を追いかけ肌を撫ぜるたびにむき出しの傷が痛み、倒れる瓦礫の音に体をびくりと反応させてしまう。


 大きな十字路に差し掛かる。横転したり腹を見せたりしている車たちは信号待ちをすることもなく、無秩序に通りに横たわっていた。


 再びの瓦礫が崩れる音。怯えた子犬のように振り返る。杞憂に思われたその行動だったが、朱莉は目の前に人影を視認して凍り付いた。


 鎧がいる。二人だ。

 手に持った槍が艶めかしい光沢を放っていた。


 迷っている場合ではなかった。

 『煌神具』を使用する前に殺されては何の意味もない、相手に先手を取られたなら何よりもまず『煌神具』を起動させろ……教師の言葉が脳裏に蘇り、朱莉は蒼を投げ出すように壁に寄りかからせる。


 戦う準備もできておらず恐怖もあるが、そうせねば死ぬだけ。その理性だけが生きている。



「『共鳴れ』……!!」



《『発火Ignite』、Caution》

《接続》



 端から青と赤が伸び、中心部で折り重なっている文様をした鍵を迷いなく突き刺した。

 女性の電子音声が力を呼び寄せる。


 どこからともなく風が吹き荒び、朱莉の周囲を逆巻いていく。風が通り過ぎた場所を炎が足跡を残すように燃え上がった。

 そこから視界を覆うほどの炎が立ち昇り、やがて朱莉の身体に燃え移って服装を組み替えていく。


 周囲の炎が晴れる前に、朱莉は自身の激しい動悸を抑える。戦うからには、相手が自分よりも優れているとか、そんなものは関係ない。


 倒さねば、生き残れない。


 身体の変異が終わると同時、炎の残滓を踏み荒らしながら漆黒の鎧が槍を構えて疾駆してくる。

 相手は獲物も鎧も重厚、それでいてそのスピードは超常に支えられた朱莉の感覚をわずかに上回った。


 辛くも顔面目掛けて突き出された槍をかわす。吹き荒れる風に顔面を揺さぶられ、頬に裂傷が浮かんだ。

 体に被さる影、もう一人。中天に向けて振り上げられた槍が、朱莉に向かって雷霆の如く叩きつけられる。

 体を真横に動かし、槍をいなしながら飛び散る瓦礫を厭わず反撃の構えを――



「え――?」



 巨大な手が、朱莉の顔面に迫っている。それを認識したときには、朱莉はされるがまま吹き飛ばされ、地面を転がっていた。


 意識が飛びかける。恐怖が全身を巡り、痛みを堪えながら、手放した上下左右の感覚をじたばたと手繰り寄せる。


 状況がまるで分からない。

 だが、今まさにその体を槍が貫こうとしていると、本能が言っている。涙に顔が濡れるのを感じながら、体を起こした。


 火事場の馬鹿力とでも言わんばかりの力で、朱莉は足に全力を込めて距離を取る。穿たれた地面が悲鳴を上げ、朱莉の身体を怖気が伝う。


 鼻から滴る血を拭いながら足を踏み出そうとするが……できない。


 体が、鎖に縛られたように動かなかった。空気が喉元で折り返しているような短い呼吸が続く。

 日本で最も優れた教育機関の生徒でも、歯が立たない。あの地面のように易々と粉々に砕かれる自身の幻影が体に震えを呼び戻す。


 身体が戦いへ向かうことをしない。少なくとも、力の差とたった一度の恐怖体験が心に刻まれた今、自分から踏み出すことを本能が許さなかった。



(言うこと聞いてよ!!)



 太ももを拳で殴りつけるが、動けない。そんな若輩者の惑いを待つほど、彼らは優しくはなかった。


 虚空を薙ぎ払う槍。空気が淀み、うねり、漆黒の斬撃と化して視界を覆う。


 朱莉は、突風の如く押し寄せる刃を前にして、動けなかった。

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