第88話『どれほどの愛を持って』

「『バグれ――堕天狂化』」

《『魔女』――C-caution》



 濁っていく電子音。不気味な重低音が響く。

 火球が迫ってくるが、琴音は動けない。



《『接続』》



 瞬間、視界が奪われた。

 瘴気だ。噎せ返るような濃い白の瘴気が、街を覆い始めたのだ。


 シュゴウの火球と瘴気が混ざるのが見える。深く煙る視界の中で、青の光は最初こそ存在感を露わにしていたが、いつになっても琴音を焼き焦がすことはなく、瘴気の中で忽然と姿を消していた。


 まるで深海に放り込まれたかのような気分である。


 今にも、辺りを包む白色の闇の中から、巨大な怪物がその口腔を覗かせてきそうだ。

 上から、正面から、背後から、左右から、もしかしたら、足元から……そう思わせるほどに、漠然とした不安を孕む空間。



《W-w-welcome to F-f-fiona Serv-v-ver》



 低く歪んだ声が、力の招来が完了したことを告げる。

 瘴気が次第に晴れていく。最初に見えたのは、大通りの先に未だ悠然と佇む二つの人影。


 次いで、その手前に広がる、半円状に大きく抉れた地面。

 爆発や何かが落下してできた跡ではない。その空間自体が消し飛んでしまったかのように、一つの粗もなく美しい削り跡だった。


 琴音の隣に、深々とした気配が並ぶ。


 ため息。鼻腔を突き刺す焦げた臭いを纏う白煙も、先ほどの瘴気を思えばいささか健康的に思えた。


 女性が琴音の斧に触れると、琴音はようやく緊張から解かれて隣に並ぶ女性に顔を向ける。



「先生……」



 羽搏 冥花である。一昔前、早乙女家に対する下々の僻みや妬みを声援として一身に背負っていた最強の戦士。


 テレビで見かけることの多かった、漆黒のローブを纏い、大きなトンガリ帽子を被った、御伽噺然とした魔女の姿……だが、今は少し様子が違っていた。


 身にまとっているものは白で統一され、水色と薄紫色のオッドアイは水色一色に染まっている。


 荒々しい暴力を纏うこの女性を見て、学校の教師だと分かる人間がいようか。

 相手を畏懼いくさせ、命を踏み潰し、戦場の狂気の中で舞う、戦士の威容でしかない。



 ――この、力。



 やはり、先ほど蒼が身に纏おうとしたものと、全く同じ。琴音を守るように立っている姿にさえ恐怖を芽生えさせ、底知れぬ闇に引き込まれてしまいそうで眩暈がする……まるで、地球の中心を目の前にしているような、破滅の力。


 並び立つ勇気すら失せそうだ。



「白峰さん。今すぐここを離れなさい。そしてここで見たものはすべて忘れなさい」



 一秒のときも惜しいとでも言わんばかりに吐き捨てる。琴音は、その当人の放つ圧で動けない。


 こんな悍ましい力に手を出してまで何かを守ろうと思うほど、誰かを愛すことが、果たして自分にはできるだろうか。


 そう考えるほど、ならばなぜ、彼はこんなところで命を投げ打つような真似をしたのかという思いが過る。考えることが多すぎて頭がパンクしそうだ。


 琴音が固まっていると、冥花先生が口にする。



「まだ青い若者を追い詰めるのが、楽しいのか?」



 煙草を噛み締めながら明らかな怒気を孕んだ声で黒縄を糾弾している。その言葉に、琴音はハッと黒縄を見た。



 ――まさか。



「いいえ、そんな趣味はないの。私はただ、命が枯れるまで、心を震わせる相手と戦いたいだけだから――別に、あなたでもいいのよ」



 黒縄の目が刃物のように鋭い視線を飛ばす。


 その足元を、死という概念を液体として纏った触手が無数に這い出てくる。


 息を飲み込み、自身を鼓舞するように琴音は地面を踏み鳴らして一歩前に出た。



「……私も、手伝います」



 冥花先生の方は見れない。そんな自分がこの中で取るに足らない存在なのは分かっているが。



「先生でも、さすがに二人相手では分が悪いですよね。私でも、時間稼ぎくらいにはなります」

「…………その前に、しっかりと呼吸をしなさい」



 言われて、黒縄を睨めつける視界の端が歪んでいることに気付く。呼吸をする間にも、黒縄の触手が眼前へと迫っている。



「そして身の程をわきまえることです。あなたは今ここにいていい身分ではない」



 冥花が指をパチンと鳴らす。真正面の空間に小さな光が十個ほど明滅したと思いきや、そこから白い光が急速に肥大化していき、触手や瓦礫の山を瞬く間に飲み込んでいった。


 風すら起こさない静かなる光芒は、触手に毒液を撒き散らすことすらさせずに、身の内に含んだものを、元からなかったかのように消し飛ばした。


 光に巻き込まれたビルが、下層階の半分ほどをぽっかりと失い、揺らぎ始めている。

 琴音は、控えめながら、頑固として進言した。



「お言葉ですが、先生も、いてはいけない身分ということでは同じではないでしょうか」

「…………」



 斧を構えた琴音を制する言葉はなかった。

 代わりに冥花は煙草を手に取って煙を吐き出し、一服を終えると手の中に小さな光を現して煙草を消し去った。

 残されたビルの支柱がしわ寄せの役割に耐え切れず、徐に傾いていく。建材や粉塵、ガラスや何かの書類が両陣営の間を降っていく。


 琴音は言った。



「救援が来るまで、生きるための戦いをします。これでも、FND奥多摩支部の訓練生なんです」

「……今はそれしかない、か」



 黒縄とシュゴウ、この強大な存在と向き合っているのがFNDではなく一般市民であるという状況が、いかに切迫しているかを彼女は分かっているようだった。生徒というのは不本意だろうが、手を貸してくれるなら誰でもいいのだろう。



「私はあの鬼を抑えます。あなたは自分の命を最優先しなさい。いざとなれば、名誉も正義も、義憤も誰かを思う気持ちも、なんであれすべてをかなぐり捨てて保身すること。いいですね」



 琴音は強く頷く。ビルの上層階が通りの向かいのビルへと寄りかかり、砕けた文明の雨はより強さを増していく。

 シュゴウが薄く笑い、口の端から白煙を零れさす。



「煙を吐く者同士、仲良くしましょうよ」

「一緒にしないでいただきたい。私は人間を捨てたつもりはない」



 見るだけで気絶しそうな眼光が二つ、ぶつかる。



「あら、十分そう見えますが? ああでも、わたくしこれでもまだ人間としての理性は残っているほうですわ」



 シュゴウの戯れ言を撥ね除けるように、冥花先生は鼻で笑う。



「――笑わせる。ならば、今すぐその首を断頭台に差し出すことだ」

「お生憎様、偽りの正義に差し出す首はありませんの」



 即答と同時、CODE:Iの双璧が地面を蹴るのが分かった。

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