第87話『煙る街』

 砂塵を巻き上げながら舞い踊る。街を盛大に破壊するに足る力を持った深紅の風だったが、敵へは届かない。


 砕け散る鋼鉄の斧を見て、琴音は冷静に自身の状況を見下ろした。


 『煌神具』を用いた演習において、琴音の力は小波 蒼に微力ながら及ばなかった。

 仔細は把握していないが、そんな彼が何かしらの禁忌に手を染めて殺した相手が一人と、それと同格以上の相手が一人。


 勝負になるかすら分からない。一方的な蹂躙にならないようにするので精一杯かもしれない。


 現に、黒縄が手に現した小振りの双剣とかち合った琴音の獲物は、健気なガラス細工のように粉砕した。『煌神具』なしの決闘ではありえない事象だ。


 それでも、あのまま彼を戦わせるよりはずっといい。琴音が生き残る確率がどれだけ低かろうと、彼が戦って生き残る確率はさらに低いのだから。



 腕を覆う袖のように赤い旋風が逆巻く。それに触れれば、強固な外殻を持つトウカツとて無傷ではいられない。

 これで徒手空拳を交わせば、生身の人間ならば四肢が離れ離れになる。


 が、琴音は本能が訴えた警鐘に気付き、即刻背後へと跳んだ。わずかに飛び散る黒の液体を視認したからだ。


 琴音は柄にもなく舌打ちをした。


 風、炎、水……『煌神具』が生み出す、何かを傷つけるための様々な色と形を持った超常の力。

 それらを小手先の悪あがきだと嗤うかのように、『死素』から生まれし毒液は今、琴音の抵抗を黒く塗り潰そうとしている。


 しかし、黒縄が毒を用いずとも、琴音は自身の刃が黒縄に届かないことを自覚する。


 積み重ねてきたものの重みが違う。この女は、人間が生きるための営みに向ける時間の大部分を、殺戮に向けてきたのだ。


 そして……悪魔は、二人。



「ッ!!」



 辛くも追えた視線が、揺れる巫女服の袖をわずかに捉える。咄嗟に、両腕が風を纏ったまま防御姿勢を取り、蹴撃を受け止めた。



(折れる……ッ!?)



 骨が軋む感覚。

 四肢のどこかが激しく損傷すれば、その後の戦闘で話にならない。


 とにかく長く生きるための選択を。琴音は衝撃を受け流し、後方へ吹き飛ばれる。


 受け身が取れない。地面を転がり、崩れたビルの瓦礫に背中を打ち付ける。


 瞬きすら惜しい。その一瞬で、悪魔は人を殺せるのだ。


 琴音が立ち上がる最中、サイレンに交じって、遠くからプロペラの駆動音が聞こえ始めた。


 一瞬だけ、筋肉の緊張が解けるのがわかった。


 恐らくFNDのものだろう。シュゴウや黒縄の存在を補足したはず……増援も、そう遠くない内に望める。



「ふふ、この街は最高ね」

「……本当に。ネズミどもの多いこと」



 更なる戦闘の気配に黒縄が体を震わせる中、シュゴウがあからさまな皮肉を返す。


 琴音のことなど眼中にないようだ。シュゴウは襟元に腕を突っ込み、小型の無線機を取り出した。



「道を開けてくださいまし」



 ざざ、とノイズが返事をするのが聞こえた。

 直後、爆発音。


 琴音が見上げると、頭上を黒煙を上げたヘリが通過していくのが見えた。降下し、ビルの壁面を削りながら、最後には機体が弾け飛ぶ。


 琴音が呼吸を止めるが、中の人間は無事のようだ。


 爆炎の内からいくつかの光芒が炸裂し、どこかを狙い撃つ牙を成した。人影がどこかへ跳ぶのが見える。


 気が付けば、戦闘の音がそこかしこから聞こえてきていた。風が不規則に蠢き、焦げ臭さがより一層強くなった。

 一体何人の伏兵がこの街に潜んでいたのか。



(随分大所帯ですね……増援は望めないか)



 手に光が宿り、そこを起点に斧が生成されていく。


 緊張に渇く唇を噛む。Aランクトウカツによる陽動、兵士の大量投入……彼らの目標は、やはり黒縄 リリアの奪還か。


 とはいえ、何故一度討たれた人間があのように地面を踏みしめているのか、皆目見当もつかない。黒縄はあの日、間違いなく小波 蒼に討たれたはずなのだ。


 琴音の疑問を他所に、シュゴウの片手に炎が宿る。禍々しく揺れるそれは際限なく膨らんでいき、すぐに見上げるほどになった。



(生き延びる……今はそれだけを考えないと)



 ここはFNDのお膝元。時間さえ稼げれば、必ず増援は来るはず。

 斧が、炎を迎え撃つべく赤色の旋風を生み出した。



「ふふ」



 黒縄がほくそ笑む。

 嘲笑ではなかった。琴音を……いや、さらにその奥を見据えて、子どものように喜んでいる。

 シュゴウが失笑し、琴音も遅れてそれに気づく。


 背後に誰かの気配があった。冷徹で重苦しい空気が辺りを漂い、頬を魔性の何かが撫ぜたように汗が伝っていく。


 こんな圧を放つ人間が、背後を取ってまで命を取らない理由はない。


 敵でないことだけは分かるが、それを理解してなお心臓が握りつぶされそうになる。


 本能的な恐怖が、後ろを向こうとする首を押さえつけていた。

 黒縄の水色の双眸が炎のように苛烈で怪しげな眼光を宿している。


 シュゴウが、露骨に気怠げなため息を吐いた。



「………………ネズミだけなら、楽だったんですがね」



 それにしても、この根源的で破壊的な力の脈動は。


 つい先ほど、琴音と朱莉が妨げた、あの力と――



「あっ」



 シュゴウが火球を投げ捨てると同時、琴音は短い音を漏らした。


 煙草の、臭いがする。

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