第86話『踏みとどめるものたち』

 宙を進む鍵は蒼の鞘にまだ収まっていない。一体どこから。



「!!」



 音の出どころは、上だった。


 人影が見えたのも束の間……その者の手に持った巨大な獲物が、上空から迷うことなく叩きつけられる。


 斧だ。狙いは人ではなく蒼へ向かう鍵。

 ガラスの割れるような甲高い音を上げて鍵が斧の切っ先に抵抗する。だが、鍵はあえなく粉砕し、そのまま地面に叩きつけられた斧は自己が持つ力を誇示するかのように赤色の旋風を巻き起こす。



「朱莉さん!! それを離して!!」



 聞き覚えのある声だ。うっすらと目を開ける。

 荒れ狂う深紅の風の中に銀色の御髪を認めたとき、朱莉は言われた通りにもう一つの鍵を手放した。


 蒼へ向かっていく鍵を、白銀の少女は道中で堂々と迎え撃つ。


 一陣の風が膨らむと同時、先ほどと同じ鍵が砕ける音が聞こえた。

 肌が凍るような冷たい烈風はそこで勢いを止めず、意思を持った生き物のように蠢いて、朱莉を……否、その奥から迫る黒縄の手先を迎撃する。


 生き物を切り裂くような生々しい音に、朱莉は強く目を瞑って振り向けない。

 熱を奪われた炎が、朱莉の身体から消えていくのが分かった。



「白峰さ――」



 蒼の短い呻き声。



「あなたは大バカ者です。命を投げては、誰も喜ばない。ただの自己満足ですよ。どうか冷静になってください」



 崩れ落ちる蒼の身体を支える、長い銀色の髪の少女。気絶させたのか。


 深紅のフードは外されており、普段は気品があり柔和な赤の瞳は、今は焔のように荒々しい。


 白峰 琴音。学校一、というよりこの街で一番の美少女と名高い彼女だったが、『煌神具』という暴力を纏ってなお、美しいという感情を引き出させる。


 彼女の周囲の風も、砂塵も、全てが彼女を彩る華の一つだ。蒼を床に横たえる姿すら、一枚の絵画の中の情景のようだった。


 近くにいたことはあるが、話したことはない。今も、この場にいることを畏れ多く感じてしまう。


 不意に、朱莉の足が縺れる。それを、いつの間に移動したのやら、琴音が抱き止めた。



「どうしてか、嫌な予感というのは当たるものですね。私の友を、ありがとうございます」



 彼女は力強くそう言うと、朱莉を背後に移動させる。斧の柄頭を地面に叩きつけると、柔らかな風が朱莉を押して後退りさせる。



「動けますか?」

「……う、うん」

「酷な願いとは思いますが、早く安全なところへ。できれば、彼も一緒に」



 朱莉は強く頷き、感謝を述べる。

 荘厳で流麗な王女の如き存在感を放つ絶世の美少女。


 だが、悪魔二人を前にすると、それもどこか軟風に似てひ弱に見える。



「あら、白峰 琴音。あなたはもう少し時間が経ってから摘みたいのだけど……」



 黒縄とシュゴウを見て、琴音の背中が殺気立っていくのが分かった。



「黒縄……地獄からも追い返されたんですか?」

「ふふ。そんなものなかったわよ」



 唇に手を当てて微笑む。

 だが、その瞳は仄暗い闇を抱えたままだった。



には何もなかった。だから、ここでは思う存分楽しみたいの」



 蒼は、本当にこんな相手を一度下したというのか? 朱莉は背筋を凍てつかせる。


 その状況が想像できないほど、恐ろしい双眸だった。



「――あなたに、私の相手が務まる?」



 シュゴウが呆れたように溜め息を吐く。



「彼を頼みます!!」



 琴音の声が発破をかけるように、悪魔二人が地面を蹴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る