第85話『それだけは、許せない』
某日、一人で朱莉が病室を訪れたときのことである。
鼻を啜る情けない音が部屋の中で何度も響いていた。
どうしたの。苦笑を浮かべながら尋ねると、刹那はくしゃくしゃになった顔で手に取った本を渡してくれた。少し早口に説明してくれた刹那のことを微笑ましく思ったのを覚えている。
その本の内容が、今過るのは何故だ。
二人がこれから辿るべき道だとでもいうのか。
認められない、絶対に。
☆
蒼の瞳に、恐れを見た。
わずかに見えた蒼の横顔は、普通ではなかった。目は泳ぎ、何かから必死に逃げようとしているようにも見受けられた。
いつだって決断をした彼の顔は凛としてまっすぐだった。
それでも間違うことはあれど、今の彼が下した判断が誰かを笑顔にさせる結果を生むことが、あるだろうか。
何があったのかは分からない。だが、彼が助けようとした女が、目を丸くして蒼が宙に放った二つの鍵の行く末を追っていたのが、蒼炎の隙間から見えた。
妹の呼び声に、兄は答えない。
《『
《『
二つの鍵が女性の平坦な音を立てるが、その側からその声は低く、重い声へと変わっていく。
狂っていく。
《C-c-cation》
ノイズが走り、音が乱れる。低く不気味な女性の声が二つの鍵に水色の光を灯した。
鍵は蒼から離れて大回りに周遊し始め、開花のときを待つ。
先ほど蒼が放り投げた、朱莉と蒼の間を隔てる焔。
超常より生み出され、通ろうとするものを拒む青の壁は、しかし、朱莉を逡巡させるものではない。鍵が、動きを速めていくと同時、朱莉は駆けだした。
頬を掠める風。瞬間、冷たい灰色の森からの吹き込む空気を吹き飛ばすように、朱莉の身体が熱にぶつかった。
炎の隙間を選び、よろめきながら走る。壁の幅は二メートル強。そこを通り過ぎるわずか一秒前後で、朱莉の肌は突き刺さるような痛みを覚えた。
苦痛が時間を間延びさせる。眼球が溶け落ちそうだったが、それでも目を瞠る。
最愛の兄の周囲を舞う二本の鍵は、まるで威嚇する蜂のようだった。
熱い。炎を抜けたのに、熱が引かない。服に燃え移った青が見える。
黒縄 リリアの口元が三日月に歪み、鍵たちが納めるべき鞘を目指して蒼の前方に回る。
朱莉の身体が、蒼の隣を通り過ぎる。一対の兄妹の視線がぶつかる瞬間は、やけにスローモーションに見えた。
「朱莉――」
蒼の表情に驚きが浮かぶのがありありと見える。朱莉の目に宿った感情を、彼は読み取れただろうか。
鍵と蒼の間に立ちはだかる。両手を開き、持てる握力の全てで蒼に迫る二本の鍵を握りしめた。
「ぁぐ……!」
大型の獣に突進されたかのような衝撃に、足の裏が地面を擦って後退する。食いしばった歯から、意思に反してか弱い少女のような悲鳴が漏れた。
見えたのは、鮮血。手の甲を突き破って開いた細い稲妻が、空気に向かって枝分かれしていくのが見えた。
手持ち花火のように鍵から漏れた閃光が肌を貫き、制服に燃え移った火が勢いを強め、肌を焦がしていく。
「朱莉ッ!! やめ――」
「蒼ィィィィッッッ!!!!!」
蒼の言葉と悲鳴を遮って、怒号交じりの雄叫びを上げた。頬を引っ叩く代わりだと言わんばかりに声を張る。
「これは、あなたが本当にしたいことなの!? よく考えて!!」
一瞬、蒼の気配が気圧されたのが分かった。
だが、蒼はすぐに朱莉へ声を上げる。
「俺が、やるしかないんだ!! それを離せ!!」
ううう、と熱に苛まれながら鍵を握り続ける。火が、肩や腰へと侵食を進めている。
電気が弾けるたびに血が飛び散った。
「時間がないんだ!! 朱莉!!」
「バカ蒼!!!! あなたは、もう一度!!!! 立ち上がろうとしたんじゃないの!? 他にやり方があるはずだよ!!!」
朱莉の言葉は、蒼が踏み出そうとした一歩に釘を刺しこんだ。
数刻前、刹那の見舞いに行ったときのこと。
雑談の合間に、刹那が時折蒼のことを神妙な面持ちで見つめているのを、朱莉は何となく察していた。
だから、適当な理由をつけて席を外し、病室の外で彼らの話に耳を傾けていたのだ。
彼らの話に割って入って邪魔することもできた。だが、しなかった。刹那同様、強い意志でまっすぐと進む蒼のことが、朱莉は好きだったから。
話をあらかた聞き終えてから席を外していると、蒼が病院を飛び出してしまって、気がついたらこんなことになってしまった。
たじろぐ蒼。
そんな中、迷いのないものが一人。
「――熱そうねぇ。濡らしてあげましょうか?」
纏わりつく炎をかき消すような、冷たい殺気。上空から身一つで放り投げだされるかのような浮遊感に、大通りの先を見る。
朱莉を睨めつけるは、やはり黒縄であった。
遊びを邪魔されて不貞腐れる子どものようでありながら、その水色の瞳は死屍累々の上に立つ殺戮者のもの。
日の当たらない血の沼の底を征くものの目だった。
「ッ!? 黒縄、やめろ!!」
黒縄は、だん、と強く足踏みをする。
地面が黒く波立ち、立ち上った漆黒の触手が大通りを這いながら朱莉へと迫ってきた。
『煌神具』を起動させていない人間がどうにかできるものではない。蒼が朱莉の名を叫び、それに呼応して鍵が強く発光する。掌中で、稲妻が弾けた。
「あぁッ!!」
手が開いてしまった。一つの鍵が朱莉の制止から逃れ、蒼へと吸い寄せられていく。
朱莉と蒼が鍵へと手を伸ばす。鍵はやはり、蒼の方へ。
歯噛みする。彼の目に浮かぶのは、朱莉を守ろうとする強い意志。
迷うはずがない。まさか、自分が彼の最後の引き金を引いてしまうとは。
足を踏み出す。
しかし、それでは到底間に合わない。朱莉が、強く制止の声を上げた。
その刹那である。
《Welcome to Fiona Server》
「――え?」
場違いなほど涼とした声が、苛烈な戦場に響いた。
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