第84話『ニアミス その9』
「アハハハハ! バカよねぇ……気に食わない奴、殺しちゃえばいいのに」
「ううぅッ!! うぅ!!」
もがくが、押さえつける手は揺るがない。大地そのものが圧し掛かっているようだった。
視界の端が黒ずんでいくのが見えた。黒縄の手の端から漏れる息が、浅く、熱を帯びていく。視線が、逆光でうっすらとしか見えない黒縄の口元の手前を激しく行き来した。
考えが逸る鼓動に邪魔されて纏まらない。
蒼の心は動揺する。
頭の中の事実だと思っていたものが崩れて思考を欲しているが、呼吸が阻害されて考える力を奪う。
心臓が浮き上がるような不安と焦燥。
――黒縄の言うことは本当なのか? いや、彼女は自分が強敵と相まみえるためならなんだってする。だからきっと嘘を……。
そこまで思考を走らせて、思い出す。
事故のあったバスの中、家族の話をする清里の表情を、蒼は見ていない。都合よく解釈したが、もし、表情を見せまいとしていたのだったら。バスが揺れたときに触れた冷たい雫が、涙だったら。
――もし黒縄が言っていることが本当だったら、俺はその間――
「ずぅっと、一人で健気に耐えてたのかなぁ。あなたはその間もずっと、何もしらずに生きてきたんでしょう?」
蒼の心の言葉の続きが、黒縄の言葉に被さる。心臓に杭が打たれたかのような衝撃を受けて軋み、見開いた目が閉じない。
何もしなかった人生。それは、自分が思っていたよりずっと深刻だったのか。
自分があのとき少しでも声を掛けていたら、彼女を苦難の道から連れ出せたかもしれない。少しでも勇気を振り絞っていたら。あのとき、自分が逃げなかったら。
背中が冷たい。その思考が、押し付けられた地面の奥底から、黒々とした靄のようなものを呼び寄せているようだった。前世に置いてきた負の感情が膨らみ、その先を走り続ける蒼の足に追いつき、絡めとり、支配しようとしている。
恐ろしい。
(俺のせい、で? 俺が、のうのうと生きて、踏み出さなかったから……?)
黒縄は唇を舐めながら再び蒼を見下ろす。その姿すら、ぐりゃりと曲がっているようだった。
「ねぇ。もうすぐこの子の意識、消えちゃうよ」
後悔、次いでやってきた自己への強い憤り。中原 重音を強く蝕んだ感情が、体の外に滲み出てくる。
(今なら、この世界でなら、助けられる……? 助けなきゃ――!! 倒さないと。助けないと。時間がない。助けないと。助けないと、助けないと、早く助けないと、助けないと助けないと)
寿命を前借りするかのような不自然な力が生まれ、黒縄の拘束が、わずかに剥がれ始めた。
暴力的な感情の嵐が、体を引き裂いて外に出ようとしている。脳が熱で焼けてしまうようだ。
黒縄の柔肌に爪を立てる。口を開き、親指と人差し指の間に噛み付いた。強く噛みしめるが、しかし、皮膚が破けることはない。
「私って、優しいでしょう? 今のあなたを殺すことなんてわけないのに」
黒縄が空いている手を蒼の眼前より翳す。小指の先から猛毒の液体が一滴垂れ、蒼の首筋の真横に落ちた。
「あなたに前世の愚行を正す機会を……私を殺すチャンスをあげてるんだから。アハハハハハハハハハ!!!」
高笑いが脳裏を搔き乱し、酸素が欠乏しながらも、閉塞した思考を無理矢理加速させる。
Aランクトウカツは恐らく陽動、それでいて強固で難敵。
FNDや強力なメインキャラの大部分がそこに割かれる。いや、メインキャラのほとんどがもう地下に避難しているかもしれない。
こちらに増援が来るまで……いや黒縄を倒しきれるまで、清里の意識は保てるのか?
迅速かつ正確に、この女の喉元に届き得る刃を持っているのは、蒼だけ。
「この子……もらってもいいよね? 前みたいに、放っておいてくれるよね?」
狂気に見開かれた水色の目玉と視線が激突する。歯が砕けそうになるほど力強く噛み付いた。フー、と獣の威嚇に似た息が漏れる。
(コイツは――コイツだけは――!! 倒す――助けないと――)
右手が、黒縄の腕から離れる。手首を締め付ける腕輪を破壊すれば、蒼の刃がこの愚か者の喉元に届く――
目線をわずかに傾け、地面に転がった携帯を見た。画面が破砕され、屍のように横たわっている。
(メール――送れなかった――)
ならば、いいのではないか。メールを送っていたら、お互いに余計な思いを残してしまうかもしれない。
(俺がいなくなったら――彼女にはハヤトだけになる――それでいいじゃないか――)
この女だけは、刺し違えてでも
高速で回る思考と迫るタイムリミットが絡み、蒼は、早すぎて見えない思考の中に手を突っ込んだ。
焦りのまま、闇雲に握りしめた思考を無理矢理結論として引きずり出す。
……清里を、取り返す。
蒼は今一度塞がれた口腔から大きなうめき声を上げる。腕を振り上げた――
パキンッ
金属音が、二人の間を吹き抜ける。蒼は、右腕を地面に叩きつけていた。
砕け散る制御装置。黒縄が、悪辣に唇を歪めた。
「……ゥ」
体を水色の暴力が突き抜ける。黒縄の腕が蒼の握力に音を立てて軋む。
電流が迸る。体が昂ぶり、感情はより鋭利に尖っていく。
討ち果たす。もう一度、この女を。
筋肉がぎちぎちと音を鳴らし、体から静電気のように水色の雷火が漏れ出した。
力が湧き出し、引き留め切れなかった力が裂傷として蒼の手の甲に現れた。
裂ける肌。裂傷の内側から水色の光が零れる。
「ッ!!」
黒縄の拘束が一気に剥がれ、少女の体はあっという間に後方へ吹き飛んでいった。
蒼が曲げた膝から繰り出した蹴りを突き刺したのだ。蒼は溢れ出す力に導かれるまま立ち上がり、徐に朱莉の方へと向かった。
彼女は気絶したままだったが、都合がいい。蒼は力に魘されてよろけながら朱莉の腕の起動装置に乱雑に手を伸ばした。朱莉の眉がぴくりと動き、呻きと共に顔を上げた。
「………………え、え。あ……蒼。何してるの……?」
朱莉はすぐに事態を把握した。蒼の手を押さえる。
「ちょっと!! 何する気!? ダメッッ!!!! 蒼!!!!!」
彼女の抵抗は、必死でありながら蒼にとって赤子の抵抗に等しい。無理矢理起動装置を引き離し、迷わず自分の腕に嵌めた。
朱莉が蒼にしがみつき、絶叫を上げて止めに入るが、蒼の体にまた稲妻が奔ると、短い悲鳴を上げて体を離した。
「朱莉……ルイに会ったら、伝えておいてくれないか」
黒縄を睨みながら、蒼は背後の朱莉に言う。
「ルイの未来は開かれた。だから……その開かれた先の未来で、必ずハヤトの想いを自分のものにするんだ……って」
「蒼!!!!!!!!!!」
蒼は手に焔を生み、背後に放り投げた。蒼と朱莉を分かつように炎が爆ぜたのが分かった。
「清里を……返せよ」
「アハハハッ!! やってみせてッ!?」
起動装置に電流が奔り、鍵が一度吐き戻される。手に取りながら、懐からもう一本、青の鍵を取り出した。自然と、息に交じって強い声が漏れた。
体が疼いている。自分を造る全てがあの女を殺せと言っている。
獣の唸り声さながらに蒼の声帯が震える。蒼は、吠えた。
「『
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