第83話-2『ニアミス その8』

 今さら、彼の人生を邪魔しようとは思わなかった。我慢しながら、覚束ない口元を絞って、笑顔を作る。


 いつの間にかまた手放せなくなっていた首元のペンダントを握った後、震えそうな声を整えながら、茜は言った。



「あ、中原じゃん」



 花咲く過去の記憶を思い出すと、今自分が足を突っ込んでいる淀みを自覚してしまう。



「……あ、清里。ひ、ひさしぶり、だな」



 彼は少し戸惑いながらもそう言った。少したどたどしいが、あのときの会話と同じだった。



「中原、変わんないね」



 彼は、そのままだった。

 それが嬉しくて、自然と言葉になった。


 彼と歩んだこそばゆい青春の日々に戻れたら、これ以上幸せなことはないだろう、そんな風に思った。

 心が潰れてしまいそうなとき、弟の言葉と一緒に思い出すのはいつもあの日々だった。

 あのときは、楽しかった。


 そんな回想の邪魔をするように、父親の倫理や道徳を欠いた暴言、果ての暴力に曝された日々……そして、目を腫らして謝り続けた母親の姿が思い出される。


 耐え切れずに家を出たが、その後は、結局父親の財政力の庇護を受けるしかなく、繋がりを断てない自分が、不甲斐ない。



「か、彼氏?」

「……まぁ、そんなところかな。私の大切な人。って言うとなんかバカップルぽいね」



 不自然な間を開けてしまったかもしれない。彼に悟られなければいいのだが。


 茜は一つ、嘘を吐いた。

 本当のことを話せば、このろくでもない状況に彼を巻き込んでしまうかもしれない、心配をかけてしまうかもしれない、と。

彼には彼の人生があるのだ。


 話すのだとしたら、もっと早く……桜咲くよりも早く、告げるべきだった。



「電話だよ」



 腹の底が冷えるような感覚だった。

 久方ぶりで束の間の幸せに水を差す義父からの……いや、義父の皮を被った悪魔からの着信。直接的な暴力はないものの、それを手に取らなければ後で何が起こるかわからない。

 だが、今だけは。



「あ、多分家族からかな。ちょっと連絡しないとすぐこれなの。後で返事するから大丈夫」



 携帯をしまうのを口実に、重音から目を背ける。声だけは無理に明るくできたが、表情だけは上手く取り繕えそうになかった。


 涙が零れそうなのを、唇を嚙みながら必死に堪えた。



 ――あぁ、あのころに戻りたい。明日を憂うことなく、毎日をバカみたいに生きていたあのころに。



 叶うことのない望みを綴る。


 時間は、その中を生きるものに同情することはない。誰かがどれだけの後悔を背負おうが、どれだけの悲哀を抱えようが、踵を返して過去へ走ってくれることはない。



「色々やってらんないよね~」

「ああ、確かに」



 重音の相槌に、茜は細く笑う。止める間もなく、ため息を吐くように言葉が出た。


 一滴の、涙とともに。



「――――本当に、やってらんないよ」

「……え?」



 重音に気取られてしまったかもしれない。

 そんな不安に駆られた、瞬間であった。


 聞いたことのない大きな騒音が差し込まれ、恐怖が黒煙の如く湧き出でていたことを実感したときには、もう視界は滅茶苦茶になってしまっていた。


 ……暫しの暗転の後、目に入ったのは蒼天だった。


 他人事のように、静かな青い空。悠然と聳えるそれは、どれだけもがいて手を伸ばそうと届かないほどに遠い。どこか、寒々しい。


 体がほとんど言うことを聞かない。脚に何かが貫通しているような気がするが、痛みさえ、届かない。

 小さな自分の吐息が、遠くを流れる喧騒に溶けていく。


 自分の命が終わると察したとき、彼女は驚いた。あまりに意外だった。



「……どう、して」



 ――私、頑張りが足りなかったのかな……?



 心の内に生きる弟に問いかけ、赤く滲んだ手で胸元のペンダントを握る。

 最後には報われると信じて、不幸にも持てる全てで必死に立ち向かってきたつもりだった。

 いつかあの色鮮やかな日々のような、幸せの中に戻れると。

 だというのに、終わるのだろうか。まだ、苦しみの最中だというのに。



 ――これで楽になれるって、どこかで思ってしまうような弱い自分だからダメなのかな。

 ――上手く生きられなかったのかな。



 顔を傾ける。空が倒れ、中原 重音の姿が目に映る。

 動かない。信じていなかった神にも、彼だけでもどうかと、祈りを向けてしまう。


 不意に、体が軽くなった。辺りの景色がぼやけていき、穏やかな闇に沈んでいく。



 ――終わりたくない。



 意識が、沈んでいく。



 ――このまま……終わりたくないよ。



 できることなら、あのころに、戻りたい。

 幸せに、なりたい。ここが人生の果てになることなどあんまりだと、空に訴えた。


 茜は深い意識の底で涙を流す。夢を描いても、死は圧倒的で、今にも茜の意識を溶かそうとしている。


 しかし、失意のまま、意識が暗闇に溶けていくのを待っていた矢先のことだった。


 唐突に下方からせり上がる光に捕らえられ。

 自身の状況も分からぬまま、再び開かれた世界の先で――彼と出会った。


 重音を押さえつけ、茜の身体は高らかに嗤う。重音との再会を前にしまい込んだ心の慟哭は今、歪んだ形で中原 重音にぶつけられていた。

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