第83話-1『ニアミス その8』

「あのね、あのね」



 無邪気な声。川辺に座った小さな女の子は、隣の男の子の太陽のような明るい笑顔を見つめる。男の子は言った。



「辛いことがいっぱいあっても、頑張って生きてる人は、必ず最後には幸せになれるんだって!」



 いつごろの記憶だろうか。

 子どものころの記憶は、今では順序も内容もあやふやだ。

 彼が誰からその言葉を聞いたのか、それも分からない。


 ただ、弟の颯太と笑顔で会話を交わしたその記憶の価値は、清里 茜の人生にとってかけがえのないものだった。


 どんなに辛いことがあっても、必死に、頑張って生きていればいつか報われるときが来る。

 そう思って、ずっと茜は生きてきた。……六歳になり、弟と父親が事故で死んだ後も。





 圧迫感のある意識の底。

 渦巻く意識に苛まれ、苦痛が募る。悪辣の女王……不名誉なその名を冠した女の意識が、茜の五感を塞ぎこむように締め上げてくる。


 さながら呼吸を許さない水の中。苦しくて溜まらない。茜の意識は鍵から流れ込む激情の濁流の中を攫われていく。


 ただ、紛れもない自分の手が、他人の意識によって重音の顔を押さえて付けているのだけが分かった。

 茜の意思は、体まで届かない。


 口が勝手に動く。



「ずうっと、あなたに助けを求めていたのよ? あなたが斜に構えずに踏み込んでいたら、助けられたのにねぇ。あなたを恨みもしたでしょうねぇ、どうして気付いてくれないの、って……ふふふ」

『やめてッ!!』



 茜は叫ぶ。だが、それが現実に発露することはない。

 再婚してできた義父からの虐待、それは事実ではあった。だが、この女はその事実を都合よく捻じ曲げて、重音に嘯いている。


 何故この女は、歌うように愉快に、詠うように滑らかに、人を嘲笑えるのだ。


 下劣、最低、卑怯者……茜が浮かべた非難の言葉は、膨大で強大な黒縄の情報に負けて意識の闇に沈む。


 茜が苦しみ続けたのは、重音のせいではない。まして、茜を救うのは、重音の義務でもない。あの美しい日々を思い出す度に、彼だけは巻き込むまいと決断したのだ。


 彼を恨むことなど、あるものか。彼は茜の、光だったのに。





 弟の想いが、このペンダントには篭ってる。彼はここで生きている。だから大切にしようね。


 いつかの過去に、母親が子守唄のように言いながらポケットに入れてくれたそれを、茜は大事に持ち続けていた。


 他の人よりも少し苦労の多い母娘の人生。二人は、底抜けに明るかった弟の言葉を胸に、くすんだ空の下を歩み続けた。

 いつかは、報われると信じて。

 はめ込まれた少年の写真は、いつだって太陽のように笑っていた。

 そして、若葉芽吹く新緑の季節。中原 重音と出会った。



「な、なぁ。それって……セカゲン?」

「あ、そ、そう……うん」

「俺も読んでるんだ 誰が好きなの?」



 誰かから見れば、恋なのかもしれない。茜は思い焦がれていた。

 だが、恋だけではなかっただろう。心に熱を灯す、光であった。


 楽しい学校生活は、彼と、その友人たちのおかげだった。

 冗談めかしてじゃれ合って歩いた帰り道、夕暮れの空はとても綺麗だったのを覚えている。ほどほどの距離感を離れてくっつく、そんな年頃の青くいじらしい彼との学校生活は、とても色鮮やかだった。

 いつも肌身離さず持っていたペンダントを、擦り切れて劣化しないように、想いだけを胸に机の引き出しにしまうことすらできた。


 時が経った。

大学三年のあの夏の日、唐突に、再び彼と出会った。昔と変わらない彼を見て、彼と過ごした日々が鮮やかな色彩とともに帰ってきた。


 胸が閊える。思い出に滲んだ鮮やかな色の絵の具が目の端から零れ出てしまいそうだった。

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