第82話『ニアミス その7』

 数刻前、トウカツ出現の警報が鳴った、ちょうどそのときである。総合病院の病室内で、不安を煽るサイレンに刹那は臓器を浮き上がらせた。


 ルイの瞳が冷静な戦意を纏う。流石の早乙女家と言うべきか、それとも彼女が研鑽した努力の為すものか。ひれ伏したくなるような眼光が、宿っていた。


 刹那を守るように、ルイは刹那の体に触れる。

 病院は瞬く間に混乱に陥った。入院患者の多くは自力で避難できる術を持たない。

 廊下では看護師たちが走っては消えていく。病院の地下に避難シェルターがあるとはいえ、時間は掛かるだろう。



「大丈夫、刹那は私が守るから」

「わっ」



 ルイは吊り具を外して刹那を持ち上げる。お姫様だっこというやつだ。その華奢な体に巡るギャップに驚きながら顔を赤らめている間にも、ルイは側にあった車椅子に刹那を座らせた。

 すぐに病室を出る。刹那たちは重症患者を優先し、自分たちは病院から出て別のシェルターに避難することにした。


 外は暑い。蝉がビービーとやかましく鳴いている。車椅子をルイが引いていると、地面が大きく揺れた。現界場所は遠いはずだが、遠吠えと衝撃はここまでやってくる。



「近くにAランクが出るなんて初めて……皆大丈夫かな」

「ちゃんと避難しているはずよ。私たちも急ぎましょう」



 ルイが車椅子を力強く移動させる。街の中には、まだ逃げ切れていない人がわずかに残っていた。



「な、なに!?」



 刹那は思わず声を上げる。

 轟音だ。あまり遠くない。



「別の『トウカツ』かな……?」

「いえ、それなら別の警報が出るはず……」



 もう一度、爆発音が金切り声を上げる。高々と聳えるビルを超えて、炎が立ち上る。

 悲鳴が上がり、大地がより強く揺れた。人々はうろたえ、よろめく。



「何が……!?」



 火球が爆ぜ、ビルが、中ほどからへし折れるのが遠目に見えた。ゆっくりと倒れていくビルの上部が大通りを跨ぎ、瓦礫の雨を降らせる。

 破砕音が市民たちのパニックを煽る。


 トウカツ以外に、何かいるのは間違いない。それも、強力な何かだ。

 ルイが急いで車椅子を押そうと手に力を入れた。


 その瞬間だった。


 ――火球が爆ぜた場所と同じ場所で、青色の炎が舞い上がったのが見えた。



「あれはッ……!!」



 ルイが体を凍らせ、刹那はその炎を目で追う。

 爆炎が、空へ空へと向かっていく。



「小波の、炎……」

「う、嘘!? どうして!?」



 ルイが呆然と口にし、刹那は車いすの手すりを強く握りしめた。

 とても嫌な予感がする。蒼を本気で失うかもしれないと思ったあの日の光景が、フラッシュバックした。


 もう一度あの力を使わないという断言が、刹那にはできなかった。


 連鎖する青の爆発。

 街の天井を飛び越え、空へ喰らいつく光。ビルのガラスが吹き飛び、また一棟、ビルが崩落する。体が底から熱を失っていくのが分かった。

 心臓が鼓膜の側にあるようだった。



「ルイちゃん…………私のことはいいから、あそこ行って」



 自分でも驚くほど冷え切った声だった。続く閃光から、開いた目が離せない。



「でも……」

「早くッッ!!!!」



 刹那の悲鳴に似た怒号に突き飛ばされるように、ルイは頷いた後に走り出していた。


 親切な市民が刹那の車椅子に駆け寄るが、彼らが何を言っているのか、全く理解できなかった。

 自分の足で歩けないのが、悔しい。



「ルイちゃん……!! 小波を、守って……!!」



 目をギュッと閉じる。

 締め切った現実をこじ開けるように、巨大な爆音が耳を劈いた。


 開いた視界の先で、黒煙が街の空を覆っていくのが見えた。

 心臓の音が、しきりに警鐘を鳴らしていた。





 もたげた鎌首から、黒い液体が滴り落ちた。

 逸る心臓と、怒りに急く感情。蒼は今一度その手に剣を具現化させる。歯を食いしばり、触手たちが蠢くと同時、蒼は駆ける。


 上空、真横。視界のいたるところから侵食する黒い鞭。

 蒼は身を翻し、最初の強襲をかわす。叩きつけられた触手が地面を穿ち、黒い液体を撒き散らす。


 一秒でも同じ場所に長居すれば、すぐさま毒牙に掛かって死ぬ。


 眼に全神経を注ぎ、最大限まで強化された視力で水滴の一つ一つを追う。どれほど小さかろうと、その一滴一滴が彼女の一撃必殺の攻撃なのだ。


 その身を駆り、毒牙を避け続けながら黒縄への距離を詰める。



「邪魔だッ!!」



 苛立ちと焦りが募るごとに、刃に宿る火炎はその強さを増す。迫る一本を叩き斬る。

 その血すら、猛毒。蒼は歯噛みしながら、限界まで体を加速させて飛び散る黒き毒を避けた。


 黒縄への距離が、詰まる。蒼は、彼女の足元に広がる毒沼のへりギリギリで、跳――



「その程度で、本当にリリアを満足させられたんですの?」



 シュゴウの声が聞こえたのは、真後ろからだった。

 後頭部をむずと掴む手。強引に体勢が崩され、目の前が突然真っ暗になった。


 顔面に痛みが走る。意識が遠のき、剣が手元を離れる。耳元でコンクリートが砕ける音がした。自分が顔面を地面に叩きつけられたのを知ったときには、あまりに強い腕力によって蒼は空中へと放り投げられていた。


 急速に離れていく地面と怨敵の姿。地面が煌く。

 青色の光が、近づいてくる。蒼がいるのは身動きの取れない空中、迎え撃つしかない。



「あ」



 蒼の口から、妙な音が漏れた。蒼よりさらに上空に、既に何かの気配がある。

 すぐに見上げたつもりだったが、その挙動はやけに緩慢に思えた。


 シュゴウが、いる。蒼よりも高みで、蒼に向けた手のひらの中に、青の炎を漲らせて。



「嘘だろ」



 蒼が呟いた瞬間。蒼炎の挟撃が、空中で少年を押しつぶした。


 吹き飛ぶ意識と音。痛みすら遠のき、体は意識の制御から外れる。青白い視界の中で、炎に焼き焦がされる自身の手がうっすらと見えた。


 色を取り戻す世界。反転した崩落するビル郡たち。

 中空を落ちる蒼の真横に、銀髪の女の姿が再び現れた。

――弓弦の如く引き絞った腕を構えるシュゴウを前に蒼が出来たのは、瞠目することのみだった。





 思考の制御下から完全に乖離した蒼の体は、易々とビルを突き破る。太陽が見えた。


 口元から零れ落ちた血が、空中に取り残されて舞う。

 灰色の瓦礫たちとともに、蒼の体は落ちていく。

 蒼を受け止めた車のボンネットがぐにゃりとひしゃげた。痛みはどこか遠い幻のようだ。


 清里への想いと黒縄への怒りが何とか意識と体を再接続させるが、体はぼろ雑巾のようだった。ボンネットから這い出た蒼は、立ち上がることなく地面に崩れ落ちる。


 元いた通りに戻されたのか、遠くに、朱莉の姿が見える。



「どうしても本気出したくないんだ?」



 蒼は、目の前の影を見上げる。黒縄が、蒼を見下ろしていた。その口元は、酷薄に歪んでいる。立ち上がろうとした蒼を蹴り飛ばす。空を仰いだ蒼は、悔しさに唇を噛んだ。


 やはり、強い。今の状態では、相手が一人であっても歯が立たないだろう。


 だが、彼女たちに牙を届かせようとすれば、それこそ――

 起き上がろうとした蒼の顔面を、黒縄は手を押し付けて制した。押し倒され、口元が塞がれる。

 上手く息が出来ない。



「そう。せっかく救ったんだものね……あの子のこと」



 くぐもったうめき声が漏れる。黒く焦げた手で黒縄の腕を剥がそうとするが、微塵も動かない。覗きこんだ黒縄の眼は、嗤っていた。



「この子よりも、早乙女家のお嬢さんのほうが大事? …………でも、いいのかしら」



 愉快そうな少女の顔を睨み上げる。



「ねぇ。あなた、中原……重音くんって、言うんでしょう?」



 動揺が蒼の動きを鈍らせた。黒縄は玩具を弄ぶように、蒼に折り重なって耳元で囁く。

 黒髪が蒼の頬を撫でる。血の気が引いた。



「この子の名前は清里 茜。……どうして分かるかって? 同じ体の中にいるんだもの。この子の記憶が、手に取るように、伝わってくる」



 蒼を力強く押さえつけたまま、甘い声で、少女は続ける。



「この子……死ぬその瞬間まで――あなたのことが好きだったんだって」

「え……?」



 もがく体が、止まった。くつくつと嘲る黒縄。


 嘘だ。ハッタリに決まっている。

 彼女の言っていることは明らかにおかしい。清里が蒼のことを好きでい続けたはずがない。



(だって、あのとき――)



 大切な人がはめ込まれたペンダントを持って、微笑んでいた。

 その最期のときまで、大切そうに抱きしめていた。


 黒縄は、猫撫で声で、言う。



「この子、高校を卒業する前から再婚した父親に暴力を振るわれていたんですって。あなたに助けを求めてたんじゃないかしら。……ふふ、彼女が苦しんでいる間――



 頭が、真っ白になった。

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