第79話『ニアミス その4』
『……刹那、どうしたの』
彼女とは仲良くなれたんだな、と今さらながら思う。 二月ほど前まで、彼女は刹那のことを火威さんと呼んでいた。
「ルイちゃん、ちょっと頼みがあるんだけど……」
『ごめん、今忙しいの』
「あー! 無理! ダメ! 他の皆にもそうやって断られちゃってもうルイちゃんしか頼める人がいない!!」
こんな会話をして、二時間ほど経ってからのことである。
「………………まったく」
ビニール袋を手に持って不貞腐れているルイ。
彼女がやってきたのは蒼がその場を立ち去って十分が経過したころだった。
彼女が手に持っているのは、本屋のロゴが刻まれた紙袋。漫画や本の調達をお願いしたのだ。
もっとも、それは彼女をここに呼ぶためのそれっぽい理由付けでしかないのだが、少し頼みすぎたかもしれないと反省している。
「そういえば、外で騒ぎ的な何かあった?」
「いえ……特にはなかったと思うけど、どうかしたの?」
問いかけに、刹那は首を横に振る。 蒼がまだ帰ってこないのだが、何かあったのだろうか。
「それより刹那、怪我の具合は大丈夫なの?」
紙袋を手渡そうと踏み出したその足が床をわずかに引き摺っているのを見て、刹那はルイが言ったことと同じことを思った。
何も、怪我は目に見えるものが全てではない。
彼女はきっと傷だらけだ。
「うん。そんなに酷い骨折じゃないから。あ、フルーツ食べる? 余りものだけど」
「大丈夫よ、ありがとう。私、もう行かなきゃ」
ルイは最近ずっとこうだ。
一時期はハヤトたちといつも以上によく一緒にいたが、最近では顔を見せたと思いきや足早に去ってしまう。
取り付く島がないというのはこういうことか。 刹那は努めて明るく言った。
「せっかくだから話そうよー」
「言ったでしょ、忙しいの……悪いけど」
いつもは溌剌として煌々と燃ゆる青色を讃える双眸も、今は深い海へと沈んでいくように暗い。
刹那は反射的に手を伸ばした。
自分でも驚くほどの力で、ドアの方へ立ち去ろうとしたルイの手首をむずと掴んでいる。
「……」
ルイは振り向かない。
刹那の薄汚い本能の部分が、思う。この手を離してしまえば、彼が靡くかもしれない。
だが、そんな下らぬ甘言には耳を貸さなかった。 目の前のこの少女も、刹那にとっては今やかけがえのない存在なのだから。
「ルイちゃんが抱えているもの、少しでも軽くできないかな」
「何言ってるの。私は何も抱えてなんか――」
「分かってるよ。ルイちゃんが何を抱えてるか」
食い気味に遮る。
それでも、ルイは頑なだった。
「私は……別に……」
「どうして? まだ友達になって日が浅い私には言えない?」
「違う!」
少し意地悪なことを言ってしまったと思う。一度語気を強めたルイだったが、次いで口を開けたときにはその勢いは完全に萎びていた。
改めて、思う。
「刹那は……私の大切な友達だから……」
彼女とは、仲良くなれたんだな、と。
ルイの手が震えている。
空いた片手を、自身の頬に当てていた。
「大切な友達に、嫌われたくない」
振り返ったルイは、必死に唇を噛み締めていた。
――あの日……夕暮れ時にハンカチを拾ったとき、勇気を出して、本当によかった。
ルイに引き合わせた蒼に感謝しなくてはいけない。そう感慨に耽りながら、刹那は掴んだ手首を引っ張った。
屈んだルイの首筋に手を伸ばし、引き寄せる。 不恰好ではあったが、刹那はルイをしっかりと抱きしめた。
「嫌いになんかならないよ。ルイちゃんは、私の大切な友達。だからね、ずっと一人で傷付いていてほしくないんだ」
きめ細かい金髪を撫でると、水を梳くように柔く手が滑る。
ルイが体重を少し預けてくれた。同姓でありながら、心臓の鼓動が高まるような柔らかい匂いがする。
「…………私は、二人の人間を好きになってしまった」
耳元でルイはそう言った。
彼女の言葉を促すように、背中をさする。この小さな背中に、どれだけのものを背負っているのだろう。
「私は、片方を選んだ。その選択が……彼を、酷く傷つけた」
刹那の病衣を掴む手に力が入る。
「それ、なのに……」
ルイは言葉に詰まった。
彼女の言葉の先は、聞かなくても分かる。
刹那は、少しおどけて言った。
「私も小学校のころ、二人のことが好きだったなぁ。菰田くんと浅田くん。二人を好きになることなんて、よくあることだよ。それでも、どっちかを選ばなきゃいけないのって、辛いよね」
腕を緩めると、体から温もりが離れていく。
名残惜しい。
「ルイちゃんは、まだ小波と一緒にいたいんだよね」
ルイはまた唇を噛む。
今度のは、自責の念だった。
病室に蝉の鳴き声が入り込む。彼らはいつだって人の気も知らずに鳴いている。
静かに立ち、金色の少女は窓の方へと歩く。その後姿は、外の熱気に……暑苦しくも心を暖める熱を、求めているようだった。
また、彼女は頬に触れた。あの日の痛みが、未だそこに張り付いているのかもしれない。
「私は――」
「最低なんかじゃない」
遮り、強く言う。
そのまま、問いかけた。
「ルイちゃん、小波と勝負してるんだよね」
いつかの日、蒼は楽しそうに語った。
ルイと勝負をするんだ、絶対に負けられない勝負なんだ、と。
「勝負の決着はついたって、自信を持って言える?」
彼女の後姿は動かない。
誰かを呼び出す放送の音が聞こえ始め、終わるまで、少しの間が空いた。
「……小波は、自分の負けだと言った。でも、本当は、私がただ降りてしまっただけだと思う」
握る拳。
悩み、揺れて、もがいて、悔いて。人生とは斯くも難しいものか。
「私には……愛される覚悟が足りなかった」
空耳かもしれないが、歯軋りの音が聞こえた気がした。
「どれだけ苦しいことがあっても、彼の愛に、最後まで向き合って、答えを出すべきだった。私は、あの痛みで、立ち止まるべきじゃなかった。覚悟が中途半端だったから、彼を傷つけた」
「あの日あったことは、二人を別つものじゃない。 乗り越えるべき壁だったんだと思うよ」
わずかに振り返ったルイの横顔は、強くもあり、弱くもあった。
強く向き合おうとする心と、それを咎め弱る心。
「そうかもしれない。でも、今になって……彼を傷つけた私がその壁を乗り越えることを望む資格は、ないのよ。そんなの、勝手すぎる」
「うん、許さないかもね」
自嘲するように、わずかにルイの口元が緩んだ。 金色のツインテールが、一段と萎れているように見える。
「でも、それって誰かから許されないといけないことなの?」
「え……?」
「小波を傷つけておいて今さら何だって、言われるかもしれない。お前から突き放したくせにって、言われるかもしれない。でも、たとえ、この世界の全てがルイちゃんのすることを否定したって、関係ないよ。資格があるとかないとか、それを決めるのは他でもない小波 蒼だけだから。ルイちゃんがそうしたいなら、すればいい。それで小波がどうするかは、また別の話だけどね」
無論、彼女の選択を咎めるような友人は、彼女の周りにはいないだろうが。
ルイがわずかに目を瞠る。
深海の底に、日の光が当たったように見えた。
「ルイちゃんは確かに間違えたのかもしれない。失ってから本当にすべきだったことに気付くこともある。だけど、後悔することがあったって、そこで終わりにさせちゃいけないんだよ。次の後悔を生まないためにも。もう一度、ちゃんと話したほうがいいと思うな」
ルイが、髪を耳に掛けて細く息を吐いた。
その目が、先ほどよりも鮮やかな青に見える。
彼女が刹那の言葉に応えるのに、さほど時間は掛からなかった。
「……そうね。これまでも、ずっと否定されて嫌われてきた人生だったし、関係ないわね」
もう、覚悟はできてるんだよね?
そんな問いが浮かんだが、止めた。その問いの答えは、彼女の目が何よりも雄弁に語っていたからだ。
バチン。
乾いた音が場違いに鳴ってから、ルイは振り返った。
頬を赤く腫れさせながら、ルイは刹那の元へ戻り、片手で刹那の頬に触れる。
ルイの顔との距離が近づいて、不覚にも心臓が跳ねた。
コン、と額が合わさった。
「ありがとう、刹那」
「飛んでくる火の粉があったら、私が守るから」
目を閉じながら、ルイは微笑んだ。
吐息がこそばゆくて、心地がいい。
「あの日、ハンカチを落として、よかった」
「ふふ、私も同じこと思ってたよ。拾ってよかった」
ルイは刹那の横に座り、二人で携帯の画面を見た。
『小波、突然ごめん。会って話がしたい。出来れば、今すぐにでも』
その文面を作るのに、時間は掛からなかった。 送信ボタンを押す手にも、迷いはなかった。
顔を見合わせ、二人で笑う。
丁度、そのときである。
街が危機を告げたのは。
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