第30話『一度きりの人生』
放課後の、夕暮れ時。
Fクラスの生徒たちは過酷な訓練にバテ気味で、教室から出ることすら放棄して休息に耽っている。そんな彼らを労わるように、苦笑いしながら優しい口調で担任の先生が「早く帰りなよー」と促していた。
そんな疲れ果てた教室に、今日も今日とて彼の声は冴え渡る。
「俺、小波 蒼!! よかったら一緒に帰らないか!?」
「もう!!!!!!!!! アンタの名前が夢に出てきたら訴えるわよ!!」
茜色の陽光が東の窓から差し込み、金髪の少女が髪を逆立てていた。いつもの光景である。
ルイが幼馴染のメンバーと教室を出て行き、取り残された蒼から悲愴の空気がこれでもかと溢れている。
恋愛をするなら、その相手に好きな人がいない方が成功率はぐっと高いだろうが、残念ながら恋の病はそんな打算的にはいかないものである。
「ははは、毎日毎日いいねー少年!! 頑張れ~!!」
陽気に笑いながら項垂れる蒼の肩をバシバシ叩くクラスのギャル、羽搏 ミミア。
「そだっ、アタシのライバル減らしてくれたらパフェ奢ったげる」
そんなことを耳元で呟いている。距離が近い、刹那としてはかなり不愉快だ。
対して蒼は初対面かつ苦手な属性だろうに、ミミアと分け隔てなくいくつか会話を交わしていた。
刹那は慌てて支度をして、教室を去ろうとする蒼を追いかけた。
「小波、一緒に帰ろッ」
「おっ。もちろん」
旧知の友人に話しかけるのに緊張しないといけないのは何故だろう。
遠のいていく彼に、よそよそしさを感じてしまったからだろうか。
刹那は、遠回りをして帰ろうと言った。
半刻後、二人は赤く染まる大きな河川の縁側を歩きながら、会話に花を咲かせていた。
普通の会話だ。授業で先生がこんな雑学を言ったとか、テストが嫌だとか、年頃の少年少女のありきたりな話題。刹那は、そんな会話の中で、ふとこう言った。
「小波は、すごいなぁ」
蒼は首を傾げる。刹那は頬を掻きながら、照れ臭さを隠しつつ続ける。
「何か、いつの間にか、凄い立派な人になっちゃったもん。気が付いたらCJCでもベスト8で、この前のトーナメントでも強いって噂のごろつきを一撃。もうFNDのスカウトも来たんでしょ? クラスでも練習に引っ張りだこらしいし、ほんとにすごい」
「いやぁ……」
直球で褒めすぎただろうか。蒼の顔が赤く見えるのは夕日のせいではあるまい。
「どうして小波は、そんなに頑張れるの?」
横顔を覗き込む。
蒼は少し考えながら、鳥の声と車のクラクションがいくつか鳴った後に、ゆっくりと語り始めた。
「……俺はずっと、ぼんやりと生きてきたから」
記憶を振り返る彼の瞳は、一体どこまで遡っているのだろうか。
きっと、この燃えるような赤い空よりも、遠い場所であろう。
「必死に生きている人を馬鹿にして、これまで歩んできた道に後悔をちょっとずつ残しながら。でも、あるとき気付いたんだ。人生は一度しかないんだって。自分が残してきた後悔は、最期にもっと大きなものになって返ってくるって」
そう語る蒼の表情は真剣だった。まるで、一度本当に死んだ人間が、暗闇の中で後悔を詠うような、そんな表情。
「俺はそれを痛烈に味わった。だから、自分の価値や才能を自分で決めつけて、ほんとうにやりたいことやなりたい自分から逃げて、自分の生き方を甘く位置付けてちゃいけないって思ったんだ。何事も、必死に生きているやつが一番幸せなんだ。なんて、そこらのドラマで口酸っぱく言ってることかな」
「ううん。何だか小波、すっごく大人」
ありがとう。そう笑う蒼の顔は、今すぐに体を密着させたいという劣情に駆られるほど優しかった。
それを知ってか知らずか、カップルを囃し立てるような演出をしてくる美しい夕日が憎たらしい。
「俺は、後悔を残して生きたくない。好きな人が出来たなら、絶対に諦めない。友達がたくさん欲しいなら、全員と友達になってやる。……俺は、一秒一秒を後悔のないように噛み締めて生きる。それを下らないと笑う奴は、後悔しなきゃいけないことにも気付かない腑抜けた人間なんだ、昔の俺みたいにな」
「そっか」
刹那の返事は短く簡潔であった。だが、その言葉の中には、自分の価値観を見直したり、蒼の思いを受け止めたり、多くの思いが入り混じっていた。
「私にも……」
自然と、立ち止まる。遠のいていくかに思えた蒼は、しっかりと立ち止まって刹那を振り返った。
「私にも、出来るのかな? 小波みたいな生き方」
子どもが側を走り過ぎる。遠くの橋の上を、電車が駆け足で過ぎ去っていった。
新緑の草花の香りが夕暮れの風に乗ってくる。
蒼が静かに頷いた。
「誰にだって出来ること。でも、大部分がやらないこと。皆、人生の一回目……気付かないで生きてしまうこともあると思うけど、本当に、誰にだって出来ることなんだ。だって、俺にだってできた」
刹那は蒼の笑顔を見て自分が笑ったのが分かった。
風が、また通り過ぎていく。刹那は蒼に向かって歩いた。
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