第29話『憧れ』

 きっかけは、彼が横浜で『トウカツ』の襲撃にあってからのことである。

 目を覚ました彼は、「聖雪に行く」、そんなことを口にした。


 夢を見る権利は誰にでもあるが、夢を見るにしても現実をわきまえるべきだ。誰しもがそう思った。だが、蒼はその一年後、FND職員の父親すらを超えて聖雪への切符を手にしていた。


 彼の努力は凄まじかった。


 部活なんて時間の無駄、青春なんかになり得はしない。

 そう吠えていた人間とは思えないほどの打ち込みようで、彼はどんどん強くなっていった。


 教室の中心にいる不良のいじめられる標的にならないでくれ、刹那がそう祈っていた日々の中で、蒼はその不良をいつしか一撃で沈めてしまった。


 教師からも、親からも、他校のスカウトからも一目を置かれるようになっていった蒼。

 そして、一年前にはかの名高い大会CJCでベスト8。


 今では、如月 ハヤトの下克上に話題を掻っ攫われているのはあれど、Sクラスの中では彼を認めているものも多いという。日本で一番の名門、聖雪のSクラスでだ。


 友人もあのイベント以降多くできたようだった。



「小波くん、少しいいですか?」



 体育館がざわついたのが分かった。

 見た目も、技術も、礼儀も、全てを兼ね備えた絶世の少女、白峰 琴音が体育館に現れたのだ、無理もなかろう。刹那自身、彼女が視界の隅にほんのわずか移るだけで、視線を吸い寄せられてしまう。


 その琴音が、なんと蒼に向かって声を掛けていた。



「私の訓練にお付き合い願えませんか?」

「……俺でよければ、喜んで」



 琴音が蒼に頭を下げ、周囲から小さな歓声が上がる。強者同士のエキシビションだ。


 自然と体育館の中心に空間が出来る。両者が距離を取り、呼吸を整えた。



「お手柔らかに頼むよ」

「ふふ、こちらこそ。では……行きます!!」



 琴音が構え、地面を強く蹴る。蒼の側まで距離を詰め、足を側頭部へ向けて振り上げた。


 生身の攻撃でありながら、パァン、と嘘のような音がした。

 蒼が腕で防いだのも束の間、琴音はその場で跳躍してもう一度蹴りを放つ。 蒼はそれを再度腕で防ぎながら、体勢を崩すことなく続く攻勢に備えた。



「すごいなぁ……」



 刹那は呆然と呟く。蒼は、本当に変わってしまった。


 刹那には、教室でも社会でも、どこにでもある光と陰が見える。蒼は今、眩い光の中にいた。

 ……ずっと、同じ陰の中にいると思っていたのに。



「えい」

「いたッ!」



 朱莉のデコピンが、刹那の額を弾いた。どうやら、完全に動きを止めていたらしい。



「もう。よそ見しちゃだめ」

「ご、ごめんね……ははは」



 咎めつつも、朱莉は刹那の視線を追った。琴音と対等に渡り合う蒼を見て、それから朱莉はまた刹那を見た。



「蒼?」

「う、うん。小波、随分変わったな~って」



 朱莉もそのことに同意のようだった。

 刹那の心中を察したのか、朱莉は問うた。


「淋しいの?」

「え、そう見える?」

「うん。私も、似たような気持ちだから、分かる」



 蒼を見る朱莉の瞳が少し揺れていた。

 同じ心の持ち主を前に、刹那の心が緩む。

 自然と言葉を口にした。


「淋しいというか、羨ましいというか。よく分からないんだけど、昔は同じ陰のグループにいて、世の中の不平等とか、色んな格差とか、そういうものに対して一緒に斜に構えてかっこつけてたのに……いつの間にか、小波は私たちが見下してるふりをしていた光の中で、とっても綺麗に輝いてるように見えて」



 蒼が琴音の徒手空拳をことごとく凌いでいく。その防御は揺るぐことはない。

 琴音の汗がきらりと軌跡を残し、目の前の強敵に対して口元が不敵に歪む。


 美しい。琴音も、蒼も、その形容に違わない。



「昔は一緒にバカやってた友達が、どんどん遠くに行ってしまったように感じて、少し淋しいかな。でも、それだけじゃなくて」

「うん」



 一撃が繰り出される度におお、と観客と化した生徒たちが盛り上がる。

 刹那は続けた。



「私は、自分の生きる場所はここって決めて、そこから抜け出せない自分を慰めてた。居心地は悪くない場所だけど、どこか空気が淀んでて、ほんとうはそこじゃない場所に行きたいって願ってた。ちょっとした勇気で変わるのに、その勇気がすごく大きな一歩で、踏み出せないまま生きてた。でも小波は、私が一生身動きが取れないと思ってたその場所から、踏み出していった。それがすごく……」



 飛びずさる蒼。ちらりと見えた腹筋に、長年の鍛錬の成果が表れていた。

 顔に熱が籠る。



「かっこよくて、憧れるんだ」



 しゅん、と訪れる沈黙。見れば、朱莉の頬がわずかに紅潮している。

 ようやく、刹那は自分がとんでもないことをぺらぺら喋っていることに気付いた。



「あ、で、でもほら!! 恋愛感情とかそそそそういうのじゃなくて!! 何か、何か! 尊敬してるっていうか!! それだけで……!!」



 必死に誤魔化す刹那。頷く朱莉。

 しかし、憧れ以上の感情を持っていることは、自分自身が一番分かっていたのである。

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