第8話 サイファー、転移前の回想

「センパイ、またカレンダー見ているんですか?」


 後ろから声を掛けられて我に返った。どうやら壁に掛けられたカレンダーを見たまま、ボーッとしていたようだ。


「今日はちょっと用事があって出かけるからな」

「それは前にも聞きましたけど、どこ行くんですか?」


 弾むような明るい声だが、どこか探るようなニュアンスを含んでいる。


「……散歩だよ。すぐに戻るって」

「はぁ、ただの散歩なら何日も前から宣言しなくても……」


 どうやら、かなり前から外出する予定を話していたらしい。相手からすれば、ほんのわずかな時間オレがいなくなるだけなので、前もって言う必要などまったくなかったのだが、自分でも気づかない内に不安を感じていたのかもしれない。


「あーいや、ついでに買い物でも行ってこようかと思ってさ、何か必要な物あるか?」

「それぐらい自分で行きますよ……運動にもなるし」

「でも、あんまり動かないほうがいいんじゃないのか?」


 先日、妻になったばかりの女性にチラリと目を向ける。


「まだ、そんなに心配するような時期じゃありませんよ」

「そうは言うけどな、オレにも何かやらせてくれよ……」

「センパイが家事を色々やってくれちゃうせいで、少し太ったんですよ私!」


 もっとぽっちゃりしているほうがカワイイというセリフは、すんでのところで飲み込んだ。


「この機会に料理の練習もしようと思っていたのに、いつの間にか勝手に作っちゃうし!」


 ほかの家事はともかく、料理に関してはオレのほうが上手い……というか、こいつの腕前が疑わしいので、やってしまうことが多いというだけだ。もちろん、この件についても面倒なことになりそうだったので黙ってスルーした。

 異性と一緒に暮らすようになって学んだことは、いかに余計なことを言わないかだと思う。


「お母さんに送ってもらったレシピを試したいから、今晩は私が作りますからね」

「わかったよ。楽しみにしてる……で、その後ご両親の様子は?」

「2人とも相変わらずですよ。昨日も電話しましたけど『仲良くやっているか?』とか『お金は大丈夫か?』とか、めっちゃ聞かれました」

「結婚の挨拶に行った時も、ものすごい顔で睨まれたからな~」

「……しょうがないですよ。両親の歳が行ってからできた子供だったせいか、私すっごく大事に育てられましたらから。いわゆる箱入り娘というヤツなのです♪」


 腰に手を当て軽くふんぞり返る様子は、お嬢様と呼ぶにはほど遠い。


「でも、お義父さんの第一声が『キミ、歳はいくつだ!?』って、想定外の質問で焦ったぞ」

「ふふっ、アレなんだったんでしょうね。事前に『大学時代の先輩を紹介するから』って言ってあったんですよ? ……センパイが思ったよりもフケてるから、ビックリしたんですかね~」

「……いや、あの顔は『こんな若造にウチの娘はやれん!』って顔だろう?」


 オレたちは笑いあった。こうして他愛のないやり取りをしていると、大学時代に戻ったような錯覚を覚える。初めて会った時から、やたらと笑いかけてくる妙なヤツだと思っていたが、その相手と結婚までしてしまうとは人生とはわからないものである。


「……なに感傷にひたっているんですか」

「いや、おまえと結婚できてよかったなと思ってさ」

「は、はぁ!? 出かける直前にヘンなこと言わないでくださいよ!」

「ははっ、なんか言いたい気分だったんだよ」


 甘い雰囲気の時しかオレの名前を呼べない、照れ屋の後輩の頭にポンと手を乗せた


「……センパイ、やっぱり買い物頼んでいいですか?」

「ああ、もちろん」

「何か甘いものがほしいです……」

「何かって、何だよ?」

「そこはセンパイの腕の見せどころですよ!」

「その辺、ブラついてくるだけだから、あんまり期待すんなよ」

「はーい♪」

「……じゃあ、そろそろ行くけど、出かける時はくれぐれも気をつけてな」

「了解です! そちらも気をつけてくださいね」

「ああ、じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい!」


 オレはマンションを出て、転移するための場所を求めて歩き出した。

昼間の住宅地なのでひと気はそれほどないが、このあたりは防犯カメラも設置されているだろうし、正直、自宅近くで目立つことは控えたい。

 少し歩くと公園の公衆トイレが目に入った。こんな場所から転移するというのもマヌケな話だが、条件としては合致しているため背に腹は代えられない。個室の利用だって一瞬なのだから、クレームをつけられることもないだろう。

 個室の入り扉に鍵を掛けた。比較的、中が清潔だったのが救いと言えるかもしれない。

 便座に座り、ポケットに入れていた指輪――マキリスを取り出して眺めてみる。うっすらと水晶が発光しているのが見えた。起動可能な証拠だ。


 本音を言えば、あの世界へ行くかどうかはギリギリまで迷っていた。

なによりも身重の妻を置いていくことに強い抵抗があった。一度、転移してしまえば自分も無傷で帰って来られるとは限らない。もし、帰って来られないようなことになったら、妻とこれから生まれてくる子供はどうなってしまうのか?

 オレ1人が行かなくても、なんとかなるんじゃないのか? そう何度も考えたが、そのたびに心細そうな少年と少女の顔が脳裏をよぎってしまう。

自分が助けに行かなければ、おそらく2人は最後までたどりつくことはできないだろう。その結果、あの世界や自分にどのような影響を及ぼすのかは、まったくわからない。

 これから先も関係なく生きていけるのなら、わざわざリスクを冒す必要もないはず――ここ一週間はそんなことを自問自答しつづける日々だった。

 ところが、愛する人との生活を重ねていくにつれて迷いは消えていった。

 オレは今、幸せに生きているのだ。

 それは過去に自分を助けてくれた人がいたからに他ならない。今度はその役目を自分が負う番なのかもしれない。自然とそう考えるようになっていた。

 朝霧才佐とフィリア・レーギスを守りに行こう。彼らがどんな選択をするかはわからないが、未来を選ぶ機会は与えられるべきだろう――。


 マキリスを右手の中指にはめると、自動的にサイズが調整されピタリと指にフィットした。

 残る気がかりは、アッシュが来てくれるかどうかだ。自分ですらこれほど悩んだのだから、もっと難しい立場にいるであろう彼は、さらに葛藤しているに違いない。


「前もって相談でもできれば、よかったんだけどな……。オレ1人じゃどうにもならないことも多いんだから、くれぐれも頼んだぜオッサン!」


 今となっては、うっすらとしか記憶に残っていないニコニコ顔を思い浮かべながら、かけ声を送ってみるが、もちろん返答はない。


「それじゃあ行くとするか……」


 オレは右手を左胸の前に置いてワードを唱えた。


「リープ・イン・ポステルム!」


 マキリスが強い光を放ち、オレの身体を包み込んだ――。

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