泣いているのは・二
小さな小さなおたまじゃくしが一匹、漆黒の水の中で泳いでいる。
「あれでしょ。中塚さんってこの前表彰されてた」
「もしかして本になるのかな」
「俺、あの作品ゴーストライターが書いたって聞いたぜ」
「我が校の期待の星」
「たかが佳作くらいで調子乗ってる」
それは、ゆらゆら泳いでいるうちに手足が生え、尻尾が縮み、だんだん大きくなって泳ぐ速さをぐんぐん上げていく。それは私の知らない姿。
「ん・・・・・・」
どうやら知らない間に眠ってしまっていたらしい。東堂の奥、いわゆるスタッフスペースと呼ばれるところで、私はパイプ椅子に座ったまま寝ていた。ゆるゆると意識を覚醒しつつ頭を上げると、ローデスクを挟んだ向かいのソファに横たわるレンさんの姿が映った。
あのあとすぐに意識を取り戻したレンさんは、「帰ろうか」と私の目を見てそう言い、よろよろと立ち上がった。嬉しいような、泣きたいような気分に駆られて、レンさんから視線を逸らして小さく「はい」と答えた。
レンさんの「帰ろうか」は私の思っているのとは違っていた。てっきりレンさんの家に、という意味だと思っていたのだがそうではなく、レンさんが向かっていたのは東堂だった。その時にふと、バイト中にレンさんが言っていたことを思い出した。
「僕にとってここはどんなところより落ち着けるところなんだ。今までいたどんなところよりね。だから、お店を始める時もここ以外はありえないと思ったんだ。」
まだここに来てバイトを始めて間もない頃、何もわかっていなかった私が不躾に聞いてもレンさんは笑って答えてくれた。その意味が今ではわかる。もちろん、ここがド田舎だという認識は変わらないけれど、それだけじゃない。ここには人の温かさがある。莉子ちゃんをはじめ、ここの人たちはみんな愛に満ちている。それが最近になってひしひしと感じられるのだった。
東堂につくと「少し休むね」と断って奥のソファに横になってしまった。そのままではよくないかと思って常備してあったブランケットをかけて、額に濡らしたタオルを置いて、と形だけの看病をしているうちに私も眠ってしまい、今に至る。
時刻は10時半を指していて、窓から差し込む光もより強くなってきた。そろそろタオルを変えようかと立ち上がった時に「すみませーん」と声がした。そういえばお店をほったらかしだったと慌てて出ていくと、そこには莉子ちゃんと鶴山さん(莉子ちゃんのおばあさん)がいた。
「中塚さん、お店今日はどうしたの?」
「実は、レンさんが体調不良で寝込んじゃってて、今日は開けられそうにないんです。」
そう伝えると鶴山さんは「まあまあ」と驚いた顔をして「ちょっと待っててね」と莉子ちゃんを置いてお店を出て行ってしまった。
「鶴山さん、どこに行ったの?」
「さあ、うちのおばあちゃん急だから。」
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