第9話 40代、女性、会社員

夫とけんかをした。

結婚してから11年、共働きで休日以外はほとんど昼間、家にいることのなかった夫と私が、コロナ禍で2人ともリモートワークとなり、ほぼ毎日顔を合わせることになった。


これまで気にならなかった夫の行動や言動の一つ一つにイライラすることが増え、私は気の休まらない日々を送っていた。


梅雨に入ると、室内に干していた洗濯物をみた夫が、私に言った。


「結婚してからずっと気になっていたんだけど、俺の靴下のペアがたびたび間違っているんだよ。あと、かたっぽが裏返しで、もう片方は表になっていたのを気付かずに会社に履いて行っちゃったことがあって、あれは結構恥ずかしかったなあ」


カチンときた私の頭の中で、夫に対する疑問と不満が次々と湧いてきた。

― 結婚してから10年以上が経過しているのになぜ今、そんなことを言うのだろうか。

― そしてなぜ、今まで言えなかったのだろうか。

― 気が付いたのなら、自分で直せばいいではないか。

― 2人とも同じ会社員生活をしているにも関わらず、そもそもなぜ私ばかりが洗濯をして干す作業を行っているのだろうか。



やがて我慢ができなくなった私は、自分では制御できない感情に振り回されて叫んでしまった。

「私は会社員としてあなたと同じように働いているのに、どうして私ばかりが掃除も洗濯も食事も、ゴミ捨ても含め家事全般を担当しなければならないの」


「いつも家の仕事は何もしてくれなかったじゃない」


「自分は管理職だから平社員の君より大変なんだよ、とあなたは私にいいますけど、じゃあ生活に関わる家での仕事をやらなく良い、ということにはならないと思うの」


「この家のローンだって2人で半分ずつ負担してきたのに」


止まらなかった、いや、

これまで口に出すことができずに胸の奥にたまったモヤモヤした思いがあふれ出し、せきを切ったように不満が口からでてしまい、しまいには涙が流れてほほを濡らした。


黙って聞いていた夫は、「今日はレンタルオフィスで仕事をする」と言って、家を出て行った。


一人残された私はやっとの思いでその日の仕事をこなし、就業時間が終わってすぐに、仲の良い幼馴染に電話をして今日の出来事を報告し、対処法について相談したいので連絡をした旨を告げた。

ひとしきり話を聞いてから、彼女は開口一番に言った。


「まず一度、お互いに落ち着いて話をするべきだと思う。一方的に気持ちをぶつけてしまった原因は、まあ、2人にしか分からないようないろいろな複合的な事情もあるだろうけど、私たちの年代だと更年期障害の影響もあるっていう話があるのよ。ついこの間、仕事でそういう特集を組んだから」


彼女は女性向け雑誌を手がける編集者だった。


「更年期障害」という言葉を耳にしたことはあったけれど、自分はまだ大丈夫だ、とたかをくくっていた。最近確かに集中力に欠けた仕事のミスをすることが増えていたが、それは単なる老化のせいだと思っていた。けれども、生理不順や、突然顔が熱くなる、などの症状が急に起こるので、体の調子がなにか変だな、という漠然とした不調を感じることはたびたびあった。


彼女は、更年期障害とはどういうものなのか、という情報をわかる範囲でひとしきり説明してくれた。そして最後に体の不調があまりにひどいようなら、一度病院へ行くように、と勧められてから、電話を切った。


「夫からは、夕飯は適当に食ってから帰る」という連絡がSNSで届いていた。


後日、私は婦人科へ行き、血中ホルモン濃度の測定や医師の診察を受け、更年期障害の可能性がある、という診断を受けた。医師から詳細な説明を受けてみれば、思い当たることが多く、分かってしまえば、漠然とした不安は少しばかり緩和された。


家に帰ると、夫には現在の体の状態や、これまでの自分の気持ち、要望の数々を率直に話すことができた。


もともと穏やかな性格の夫は、私の話を最後まで黙って聞いた後につぶやいた。


「申し訳なかった」


そして、夫もまた、これまで感じてきたことや今後どうしていくのが良いのか、状況を改善するために自身ができることを提案してくれた。


「今まで君がそんな状況だとは自分は全く分かっていなかったし、夫婦でもっと素直な気持ちを話したりする時間が足りなかったのかもしれないね」


夫の理解と協力を得られた後は、驚くほど気持ちが楽になった。

けれどもフルタイムで仕事を続けることには体力的な限界を感じていたし、しばしば体調不良で休むとなれば、周囲に迷惑をかけてしまう困難さを伴っていたので、上司と相談し、症状が落ち着くまでは、週3日のパート勤務に一時的に切り替えてもらうことで話がついた。


子供のいない我々夫婦は、これまでそれぞれの仕事にめいっぱい打ち込んで、お互いを見渡す余裕を失っていたのかもしれない。年齢を重ねるにつれ、きっかけは更年期障害だったかもしれないが、どちらにしてもお互いの胸の内を打ち明けられる機会を得られたことは本当に幸運だった。


仕事のペースを少し落とし始めてから1週間ほど経過したある日のこと、新聞の折り込み広告をみていて、ふと、あるチラシに目が留まった。

それは、近所にある市民農園の利用者募集の案内だった。

これまで畑仕事など、一切やったことはなかったが、すぐに申し込むことにした。


自分たちの畑の区画が決まり、雑草を抜き、土づくりが済むと、次の休みには夫と二人で畑に植えるための苗を買いに、近くの園芸センターまで出かけた。


畑に何を植えるのか、久しぶりの夫との共同作業に新婚時代を思い出して年甲斐もなくはしゃぎながら、どんな苗を植えようか、迷いながら売り場を探して回った。

2人が好きなものを収穫して料理を一緒に楽しみたいね、ということになり、少し考えて、ズッキーニや長ネギ、ジャガイモ、夫の大好きなメロンを植えることにした。

草むしりや水やりのために定期的に畑に行き、苗が育っている様子を見るだけで、心が躍った。

植えた野菜の苗はほとんどが順調に育っていて、いよいよ来週には、ズッキーニを収穫できそうだ。

ただし、メロンを植えたはずの場所では、なぜか「かぼちゃ」が立派な実をつけている。


畑を始めた当初、夫は気が向いた時に私についてくるだけだったが、今では、私よりも畑での土いじりにはまってしまい、また来年も畑を借りられた時に備えるのだ、と言って、植えたい野菜の栽培方法をネットで調べてはせっせとサイトをお気に入りに登録し、本屋に行っては家庭菜園の本を買ってきて読んでいる。


そんな夫をほほ笑ましく眺めながら、自分の人生のステージは30代の頃とは少し変わったのかなぁ、そんな風に感じている。


セミの声が聞こえ、青空には白い夏雲が浮かんでいる。

さあ、今日はどんな野菜が収穫できるかな。

わくわくしながら、私は今日も畑へと向かう。

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