第8話 30代、男性、とスズメバチ

10代の頃にコロナ禍がきっかけで不登校になってから、ずっとひきこもりだった。

自分の場合は、罪悪感みたいなものがあったのは最初の1年くらいで、その後は次第に家の外へ出ること自体が怖くなっていった。

たまに風邪をひいて病院へ行くとき以外、ほとんど家からでることなく過ごしてきた。

食事は母親が用意してくれるし、洋服も買ってきてくれるから、自分で買いに行くこともない。始めは外へ連れ出そうとしていた両親も、気がつけば腫れ物に触るように自分と接するようになっていた。


一日中自分の部屋に閉じこもり、他にやることもないし、ほとんど惰性で毎日オンラインゲームをして過ごした。ゲームの中で一緒にプレイする友達もいたけれど、彼らの現実世界での名前も顔も自分は何も知らないし、これまで知る必要もなかったから、そんなことを気にしたこともなかった。


ここ数年はあまり運動をしていないせいか、夜中になってもなかなか寝付けずにオンラインゲームの画面を眺めているうちに寝落ちをしてしまう、そんな毎日を送っていた。


これから何年経っても自分は同じ日々を繰り返すのだろうか。


ゲームの中の主人公のレベルだけが上がっていき、気が付けば季節は夏になっていた。


その日は朝から「ブーン、ブーン」という妙に低い羽音が気になり、閉めっぱなしだったカーテンを全開にして自分の部屋の窓ガラス越しにベランダを見上げると、外には多くのスズメバチが飛び交っていた。飛び回るスズメバチは、雨戸の戸袋の中に次々と入っていく。知らないうちにスズメバチが巣を作っていたらしい。

みれば、戸袋からはみ出るほどの巨大なハチの巣が形成され、はみ出た巣の一部はガラス戸越しに内部を観察できるようになっていた。

巣の中には六角形の形に区画された育房が整列し、その1つ1つに幼虫が収納されていた。

白いフタがされているか所は、中で幼虫がサナギになって成虫になるのを待っている証拠だ。働きバチはせっせと幼虫やサナギの世話をしている。


自分の置かれた環境とそっくりだな。そう思った。

閉め切った部屋の中で生きている自分。

親が食事を持ってきて部屋のドアの外に置いてくれる。


多分、今の自分はこれから成虫になるためのサナギの期間を過ごしているのではないだろうか。


無事に羽化するこができれば、人間社会の中で働きバチとして働くのだろう。


自分にとって人間社会は、ハチの社会よりももっと複雑で難解そうだが。


 その日からハチの巣の観察に没頭した。

幸いにもご近所は数キロ先、という山に近い一軒家に住んでいたので、心置きなくハチの巣の中の営みを観察することができたことは幸運だった。


巣を維持するために巣を修理するハチがいることも分かってきた。人間社会で言えば「大工」のような役割になるのだろうか。


それから2週間ほど、順調に巣を拡張していたスズメバチ達の様子に数日前から異変が生じ始めた。始めは、あまり動かないハチが増えたな、という印象だったが、やがて多くのハチが業務を放棄するようになり、世話を受けられずに死んだ幼虫が散見されるようになった。


この危機的状況は、自分の生活をハチの巣に投影していた自分にも起こり得る状況であろうことは、すぐに理解できた。


自然と体が動いて、私は部屋のドアを開けて玄関へ向かった。あれだけ怖かった「自分の部屋の外にでる」ことを難なく実行することができた自分に少し驚いた。家の外にでて、庭から巣のある場所の少し手前で立ち止まる。


巣に戻れずに死んだハチも庭に落ちていたので、死骸を回収して部屋に持ち帰ってからよく観察すると、腹部の節部分に奇妙な盛り上がりがあることに気が付いた。机の引き出しから取り出したピンセットで盛り上がった部分をひっぱると、小さなイモムシ型の幼虫が引きずり出された。


ネットで調べると、スズメバチに寄生する虫らしいことが分かった。この寄生虫に寄生されるとハチは動かなくなり、ハチの集団社会が崩壊するきっかけになる、という記述が後に続いていた。


不思議と心の中が落ち着いていて、自分の中で何かが変わった様な、そんな気がした。


その日の夜、何十年かぶりに親と食卓を囲んで夕食を食べた。

親は突如としてリビングに現れた息子の姿にぎょっとした様な顔を向けたが、何も言わずに食事をテーブルの上に用意してくれた。

久しぶりに両親の姿をまともに見た気がする。父親も母親も、頭にはずいぶん白髪が増えていた。


その日をきっかけに少しずつ、家の掃除や壊れた縁側の修理なんかをするようになった。今ではホームセンターへ行って、必要な材料を買うこともできる。


あれだけ毎日使っていたゲーム機は放置され、今はホコリをかぶっている。


そして夏にあれだけ多くのハチが活動していた巣の中は、秋も終わりに近づくと、中が空っぽになってしまった。今は入居者のいなくなった空き家となっている。


そして明日、自身が頼んだ駆除業者がこの巣を撤去しにくることになっている。


こうしている間にも季節は移り変わり、自然に暮らす生き物たちは、着々と冬支度に励むのだろう。様々な生物の生活をもっと知りたい、そう思った。


今度は近くの山に行こうと思っている。

もっと多くの生き物の生活の営みを知るために。

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