第3話 40代、無職
また採用試験に落ちた。これで20社目だ。
19歳で就職して44歳まで働いた会社は、いわゆる中小企業だったが、人間関係もよく、居心地が良かった。
44歳をこえた時、それまで毎月1回、規則正しくきていた生理の周期が乱れるようになった。左の下腹部がコブのようにでっぱり、今まではいていたズボンのウエストが急にきつくなった。生理期間は長くなり、出血も多いため、1時間ごとに生理ナプキンを交換しないと吸収しきれなくなった血液が漏れてしまう。健康診断では貧血と診断された。仕事が忙しくてなかなか行かれなかった婦人科に慌てて行くと、「卵巣子宮内膜症性嚢胞、多発性子宮筋腫」と診断された。年齢と症状、妊娠の可能性を残す必要があるかどうか、その他様々な体の状況を総合的に考えると、医者からは患部の摘出手術をするか、薬物療法をするか、その他いくつかの選択肢を提示された。どうやら、私も寄る年波には勝てないらしい。
当時、コロナ禍で会社の業績は悪化していた。コロナ前まで業績を伸ばし続けていた会社は、前年までに従業員を大幅に増員していた。私のいる部署にも中途入社の社員が配属され、これまで皆が思いつかなかった斬新なアイディアが提案されたことで、新事業展開に向けて社内が大きく動き出していた。そんな矢先にコロナウイルス感染症の発生が会社を取りまく環境を大きく変えてしまった。社長が苦しい資金繰りの中で、何とか従業員の雇用を確保すべく、支援的融資を求めて駆けずり回っていることは、誰もが知っていた。私は、一身上の都合ということにして、何も言わず、20年以上勤めた会社を退職した。少ししか出せず、申し訳ないが生活の足しにしてほしい、そう言われて社長から受け取った退職金は金額よりもよっぽど重く感じた。
失職した後は、未婚の自分が子宮を失うことに対する決断ができないまま対症療法を選択し、婦人科へ通って薬を服用することで一時的に症状を抑えていた。20年以上働いて少しは貯えもあったので、コロナ禍ではもっと苦境に追い込まれている人がたくさんいるだろうと思い、受給資格を得た後も失業保険の申請はしなかった。無職であることで世間から切り離されたような焦燥感を感じ、次々と自宅に届く各種税金や健康保険、年金の納付書を確認し、預金通帳を開いては減り続ける貯金額を眺めながら、採用試験に応募して自宅のアパートで不採用の連絡を受け取る、そんな日々が続いた。
そんなある日、虫歯の治療のために近所の歯医者に行った帰り道、ふと、いつもは通らない道を通って帰りたくなった。たくさんの子供がグラウンドで野球をしたり、ブランコに乗ったりして遊んでいる公園の横を通り抜け、見慣れぬ住宅街に入った。閑静な住宅街の夕暮れの路地、夕飯の準備をする家からカレーのにおいが流れてくる。こんな場所が家の近くにあったんだ。ふと、幼いころに両親と過ごした日曜日の夕暮れ時を思い出した。父親がフライパンで野菜や肉を炒める音、ご飯の炊けるにおい、麦茶をコップに入れてくれる母親、そんな他愛もない日々の思い出は、胸がしめつけられるほどになつかしい。
数か月後、早くに両親を亡くし、結婚もしていない私は1人で病院へ行き、子宮と卵巣の摘出手術を受けた。術後の経過は良好で、医師には2か月ほど静養すれば体力も回復するだろうと言われた。夕暮れ時の路地でよみがえった家族の思い出は、私の背中を押してくれた。
まだ、結婚をあきらめたわけではない。子供ができなくても、今の自分をそのまま理解してくれるひとを探そう。他のひとより歩みは遅いけれど、自分のペースでゆっくり歩いて行こう。
半年後、私は小さなNPO法人を立ち上げた。一人暮らしで他に頼れる親も子供も親族もいない人が病気をしたとき、近しい他人にも迷惑をかけたくない、そんな人々に寄り添って闘病中の生活や社会復帰までの生活支援を行うことを目的とした活動団体だ。夕暮れ時の晩御飯を準備する音、カレーのにおい、そんな些細な人間生活の産物が、身近な幸せを思い出させてくれる。なにも特別でなくてもいい、おひさまのにおいのする洗濯物や布団、洗いたての白いシーツ、肉じゃがやカレー、日の当たる縁側、日向ぼっこ、そんな日常を送ることのできる幸せを様々な人と分かち合いたい、心からそう思った。
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