体は全部知っている
「で、思わず自分の正体を隠してしまって、それから恋人の前でずっと、まったくの別人のふりをしていたと」
「そういうわけなんです」
「竹内がどういう人間かは知っていたつもりだったんだが、それでも開いた口が塞がらないというのはこういうことを言うんだな」
「そうですね」
縁日の雑踏の中で立ち話を続ける空気では完全に無かったので、われわれは近くのファミリーレストランに場所を移していた。いや、子供がいるからね。
「密さんの高校時代。どんな風だったんですか?」
「えーと……」
神先輩に目配せをされる。何をどこまで説明してもらったものか、いろいろとアレな要素があるのだが、わたしは小さく頷く。さっき発覚した事実に比べれば今更さしたるほどの話ではない。
「天才だったよ。入部当時から」
当時『嵐の片恋娘』と学内であだ名されていて、一目惚れした相手にアプローチするためだけにその男が部長をやってる文芸部に入って、それで流れで小説書いてみたらなぜかすごく書けた、という流れの上の話なのだが、いまの恋人の前でそういう話を付け加えないこの人のデリカシーのほどは相変わらずであった。
「そういえばいちばん最初の同人誌に、神って名前の登場人物が出ていましたね」
「そんなことまで把握してたのか」
「ええまあ」
本名のまま登場させるんじゃなかった。わたしは13年越しの後悔の味を知る。言うまでもなく、同じ小説の女主人公の方はわたし自身を投影したものである。
「あ、ママー」
「ままー」
先輩のお子さん方の母親であるところの女性とはそのままそのファミレスで合流してもらった。離婚してて、親権はそっちにあるんだけど、今日は面会交流日で、子供たちとお祭りに来てたんだって。ちなみにその女性の故郷が、この町の近くの別の町。
「それじゃ。今日は色々あったけど。またな」
「はい。先輩も、ご壮健で」
さて。縁日がはけるまでにはまだ時間がある。わたしは彼とふたり、神社の隅の暗がりに腰を下ろす。似たようなポジションでよろしくやっているカップルは他にも数組あり、みんなおしあわせそうだが、わたしたちを包むのは気まずい沈黙。
「……怒ってる?」
「いや」
「失望した?」
「そういうんでもない」
「じゃあ」
「……あの人、密さんの昔の恋人だよね?」
「ううん。わたしが振られたの。なにもなかった」
「そうなの?」
「そうなの」
「……よかった」
そんなこと気にしていたのか。かわいいやつめ。
「じゃあそれはいいとして、なんで嘘をついてたの?」
「きみに拒絶されたくなかったの。それだけ」
本当にただそれだけなの。今は後悔してるけど。
「貫井潜夏というひとがそんな脆い心の持ち主だとは思ってなかった」
「きみがそんな風に思っているから、怖かったんだよ」
愛というのはそもそも憎悪に似ているらしい。或いは、憎悪が愛に似ているのか。肌を触れ合わせることはできても、心と心を本当の意味で触れ合わせることは難しい。そう、肉体的な接触だけなら、こんなにも簡単なんだけど。
「あの密さん」
「にゃに?」
「ここでそれはやめない?」
「やめない」
「せめてホテルまで待てない?」
「まてない」
大丈夫、周囲のほかのカップルの皆さんもぜんぜんこちらに関心などないから。にんげんというものは、こんな風な感じで増えたり減ったりするのだ。
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