導く薬指の鎖
人はなぜ嘘をつくのか? それは簡単なことだ。自分の全てを知られることが恐ろしいからだ。自分の全てを知って、それでも当然にその全てを受け入れてもらえると楽観できるほど、わたしはもう若くはなかった。というわけで。
「あ、密さん。待った?」
「ううん、今来たところー」
えへへ。本当は三十分前からここにいて、ずっとあなたのことを考えてソワソワしていましたが、それは君が一生知らなくていいことだから。
「浴衣。似合ってるよ」
「ありがと」
この一言のために。アウェイの町まで和服を抱えてきて、知らない美容室に予約をして着付けをする。それが女というもの。
「それじゃ、案内するね。神社はこっち」
「はい」
手を繋いで、夏の夜の匂いの中をふたり歩く。きょうは縁日。彼のふるさとの町で。
「はい、あーん」
「あーん」
露店で買ったタコ焼きに楊枝を刺して、恋人の口元へと運ぶ。なぜなら今日は祭りだから。恥ずかしくない。恥ずかしくないのだ。しかし。わたしの手が、衝撃とともに止まる。
「密さん?」
彼がわたしの目線の向かう先に気付き、後ろを振り向く。そこにいたのは。
「……
「え? ……竹内か? また随分と久しぶり……それから奇遇だな、こんなところで」
今まで名乗る機会がありませんでしたが、わたしの本名。竹内密。いや、そんなことはいいとして。なぜ、あなたがここに? ここはわたしたちの故郷ではなく、ごく最近できたわたしの彼氏の故郷であって、ぜんぜん接点がないはずなのですが。わたしたちの出身地からめがっさ遠いし。
「パパー、そのおねえさんだれー?」
「だれー?」
「パパのふるいおともだちだよ」
「へー」
「そうなんだー」
神先輩はわたしのかつての高校の先輩で、二学年年上、わたしが文芸部一年生だったときの部長なのだが、子供が二人もできていたのは初めて知った。最後に交流と言うべきものがあったのは先輩の結婚式の招待状が来たときなのだが、わたしはそれに行かなかったし。
「あ、あのね。こちらはわたしの高校時代の先輩」
「……へぇ」
「はじめまして。神と言います」
「で、先輩、こっちはわたしの、いまお付き合いをしている人で」
「はじめまして。俺は——」
通り一遍の挨拶はいいとして、わたしの視線は先輩の薬指に釘付けになっている。何故かというと、指輪がないのである。子供を二人も連れているのに、その母親の姿もない。これはつまり。
「ところで竹内。新作の小説、買って読んだけど。良かったよ」
「え?」
「あ」
やばい
「そういや、ちょうどここに持ってるんだよな。サイン会中止したって聞いたけど、せっかくの縁だし。サイン入れてもらっていいか?」
と言って先輩が取り出したのは例のこないだ出た貫井潜夏の新刊
「え? その本を? 密さんが?」
「ん? そうだよ。知ってるだろ? 名前一緒なんだし」
「……えーっと……」
彼がこちらを向きます。目が合いました。
「ごめんなさぁいーーー!!」
わたしは走って逃げた。逃げようとした。
人はなぜ嘘をつくのか。いやまったく、本当に。
「密さん。大丈夫? ほら、捕まって」
彼は、浴衣に下駄で全力ダッシュしようとしてすっ転んだ馬鹿なわたしに手を差し伸べてくれます。ああ優しい。
「うん……あのね。わたし、あなたに嘘ついてたの。本当のことを言うと実は」
意を決して言った。
「わたし本当は29歳なんです」
「それはそれでちょっとびっくりだけど、そういう話じゃないよね?」
「はい」
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