ロロロモク

山船

エピソードタイトル無し

 これが普段の夜だったなら、月の明るさに気づくなんてことはまず無かったはずだった。新月だろうと満月だろうと街灯は煌々と夜道を照らして、歩くにも自転車を転がすにもその光だけが陰影を作っているように見えていた。

 アスファルトを打つ音が、自分から見て円弧の上を動いている。やたら早い時計のようなその音が、急に間隔を短くしたと思ったら全く鳴らなくなった。は、止まった……のだろうか。夏の夜の湿気が一気に体中に充満したような気になって、それからいつもよりも家々の作る影が弱いことに気づいた。少し歪んだ月がほとんど天頂のところにあって、もう随分と遅い時間になってしまったと思った。

 膝の少し上に両手をついて、上体を腰から大きく前に折った。肩で息をしながら、やっと巻けたか、と思っていたのだろう。敏感になっていた彼の耳に、ゆったりとした遠い足音が聞こえ、首から肩全体がびくりと跳ねた。だ。足音で確信した。彼女でなければ誰だというのか。折っていた体のバネを瞬間的に解放して、体の全部が飛び上がり、ヨー軸で回転し、その振り向きざまに一発を放った。

 ブレの収まった視界には、自分が放った光球と、その奥に彼女が一直線上に見えた。

「ここで不意打ちしなければ私には当てられないだろう、と考えたことは……そうね、褒めて然るべきだと思うわ」

そのはずが、光球は彼女から腕一つ分の横をすり抜けて、情状酌量も無しにコンクリートにぶつかって消えた。まるで最初から何も起こっていなかったかのように、彼女にもコンクリートにも何の痕跡も残らなかった。

「いくつか問題点があるわ。第1に、軌道があまりにも簡単だということ。第2に、そもそも不意打ちにはなっていないこと。第3に……いえ、これは言ってしまっては意味がないわね」

彼女の足音は整然と等間隔で、一歩の音が聞こえるたびに前の一歩よりも同じだけ大きく聞こえた。彼女から逃げるために棒になった足に、もう一度鞭を打てるかというとそれは無理だ。体中からどっと汗が吹き出していて、まるで一度水に沈んだかのようになっていた。

「……待て、待ってくれ、負けは認めるから、頼むから撃たないでくれよ」

「嫌よ。なぜ?」

「俺は明日1限があるんだ、ここで撃たれたら絶対に寝過ごす」

「あら、奇遇ね。私も明日は朝から用事があるのよ」

彼女の口から、そして銃口からもけんもほろろに答えが飛び出した。光が――見え、自分に当たって戻っていった。それはおそらく自分が撃ったものとほとんど同じ光球だった。

「おやすみなさい。雨は降らない予報よ」

彼女はそう言って、銃に付いたメーターに1段階表示が増えたのを見て満足していた。視界がぼやけ、急激に眠気とともに体が動かせなくなっていく感覚。それから、自分の体が担がれた。彼女の細腕に鼻がぶつかる。腹が圧迫される。苦しいと感じるのと意識が落ちるのと、どちらが早かったかはわからなかった。


 焼かれているような感覚で目が覚めた。すぐに小さな公園のベンチに横になっていることに気が付いて、しかも体との間にじっとりと汗の層ができていることも文字通り肌で感じられた。気持ち悪い。それに暑いからか頭が痛い。喉が強烈に乾いている。夏の日差しを遮るもの無く浴びていた。

 しばらく覚醒度合いがいまいちで、そういった諸々のことが柵の向こうにあるように感じていた。

 そして、突然昨日の自分の身に起こったことが意識の目の前に飛び出してきた。跳ね起きて太陽が目に入って、すぐ顔をそむけたけれど視界の中に暗点を作ってしまった。とりあえずポケットを探るとまだスマホは入っていたが、画面を点灯させると「11:14」と書いてあるのが見えてしまった。

 優等生で通しているのになあ、とは思えど……もうこうなってしまっては、この散々な気持ちをどうにかするのが先決だろう、と思って、目に入った水飲み場までよたよたと足を運んだ。水に口を付けても乾きは収まらなかったし、頭も痛いままだった。

 今から家に帰って支度すれば、3限には間に合うだろう、きっと。……4限でもいいか?

 家の方に向かう足取りは思ったよりふらつかなかった。置き捨てられていたベンチがあったのは家から見て駅と真反対の方向の公園で、家からそう遠くは無いけれどあまり来ることもない方だった。家はおそらくこっちだったはず、とぼんやり考えるくらいが精一杯で、木陰を乗り継いで歩いていっても熱さの前では何を考えるにもモヤより具体的になることはなく、やっと家にたどり着くまで何であの場所で起きたのか、それすらも考えられなかった。

 家に着いて冷水のシャワーに飛び込んで、あまりにも冷たいから凍ってしまったかと思った。そんなことはない。ともあれ、少なくとも頭から熱が取れてほどよく締まった。それでなにを考えようと思っていたのかを、それを思い出した。なんであんなところで寝ていたのか、だった。やっと起きた頭には当然至極の疑問、それが頭に浮かぶと、次の瞬間には昨日彼女に撃たれる直前までのことがフラッシュバックして、冷水を浴びていなければ顔から火が出て壁に燃え移ってこの安アパートを全焼させてしまいそうになってしまっていた、とまで思った。そんなことはない。でも念のためもう少しだけ顔を冷やしてから着替えた。

 家のリビングに入る通路は狭い。ポートを置く場所を間違えたからだ。ポートに表示されたエネルギーは、昨日見た量と全く変わらず。つまり、計画必要量の6割強。残り日数は一つ減って11日。銃を実体化させて見たが、銃の方にはエネルギーが全く貯蔵されていなかった。それはそうだ、なにせ全部彼女に分捕られたんだから。ついうっかり癖で無意味に確認してしまったけれど、忘れて無駄にしてしまうよりはいくらか良い。

 ポートの脇をすり抜けて冷蔵庫を開けて、マグカップごと冷やしてあった水を飲んだ。普通に足りないのでいくらかぬるい水道水も飲んだ。昼飯は適当なものを掴んでいけばいいだろう。リュックにはもう今日の分の必要物を入れっぱなしにしてある。……すると、もう行く用意ができてしまったことになる。もう少しの間何もしないでいたい。実際のところ、次の電車に乗るにはまだ10分ちょっと早い。その次なら30分弱早い。どっちでも3限には間に合う。なら、と思ってスマホの中の電子書籍を開き、しかし読むでもなく、頭の中では全く関係の無いことが渦巻いていた。

 もちろん、昨日のことより他に頭の中にあるものなど無かった。

 うっかり没頭して今日を休日にしてしまうところだったが、それはなんとか避けられた。


 電車を降りてもまだ明るいことに夏を恨む。自分はいま講義後の気怠い大学生といった風貌だろうが、むしろ主観の上では今からが本番だった。駅に併設されたロッカーに荷物を降ろして、改札を抜けてから裏路地に向かう。真北に伸びる路地に建物が覆いかぶさって直射日光が当たらなくなると、急に半袖には寒すぎるように思えた。

 路地のその先、だいたい100mぐらい先に見知った背中があった。彼の着ている服の背にはでかでかと企業のロゴが描かれていて、それが二重丸の模様を堂々と示していたから、ちょうどおあつらえ向きのターゲットのように見えた。

 狙撃ごっこにはちょうどいい。銃を細長めに具現化させて、あんまり散布界が広がらないように出力は3割ぐらいを目安に。日陰だから少々生成に時間がかかったが、構えて、まず1射。……着弾。二重丸の中心から少し右上、光る弾が吸い込まれていった。待つと形容できる時間の下限よりも短い時間を待って、もう1射。今度は振り向いた相手の顎にジャストヒット。彼の体が折れて、その奥に、

「あっ、やべ」

こっちに向けて銃を構える人影が3つほど見えた。

 多勢に無勢は避けたいが、奇襲したのはこっちだ。急いで鞄を開けて目的の物を探す。あった。指向性フラッシュバン (使い切り型、3個で100円!) を1個思い切りぶん投げ、その勢いのまま室外機の陰に体を納めた。その瞬間、駅前の少し遠い雑踏を切り裂く気閃があった。さっき立っていた場所に飛んできた弾丸だった。また空気が閃いた。そしてまた。重い石同士を打ち付けたような音が等間隔に雑踏の中に浮かんでいた。けれども、それらは全部さっきの自分にしか当たらない軌道のものだった。

 この路地なら、ちょっと身を潜めるのには十分な程度の凸凹は山とある。おそらく彼らは自分を見失ったのだろう。……けれど、それが何か自分の助けになったわけではなさそうだった。きっちりとした射撃が探るように路地を飛ぶ。それに三人分の足音が追加で聞こえてくる。これでは早晩あぶり出されるに違いない。

 どうしようか。正直どうもこうもなく、近づかれすぎる前に飛び出して全員ぶっ倒すより他に無い。とはいえ、成功率の高いやりかたというものもあるだろう。手元にある実体化しっぱなしの銃を見ると、メーターには光が2つほど付いていた。さっき狙撃してやったヤツから吸ったエネルギーだった。

 それなら話は簡単だ。思ったよりだいぶ余裕ができた。

 ヤツらの射撃音が鳴ると同時に室外機の上から銃だけ出して盲撃ちをトトトッと3発。それから指向性フラッシュバンを山なりに投擲。するとすぐに霰が屋根を打つかのようにヤツらの弾が室外機の上に跳ねる音が聞こえだして、はじける音――投げたフラッシュバンの発動音だ――が一回だけ聞こえて、すぐに弾音は砕けたみたいになった。チャンスだ。

 我が身を路地に弾き出す。100均の空き容器を捨てながら、さっき買っておいたうちの最後の一個をついでとばかりに使用。閃光が路地の壁に跳ね返っても、自分は眩しくない。便利なものだ、本当に。一気に体を前に傾けて走り出す。ヤツらが体勢を立て直す前に詰ませなければならない。

 自分の前にエネルギーシールドを展開する。銃から光る点が1つ消え、身の安全に化けた。……相手からすれば自分はどうせこのシールドの真ん中あたりにいると分かりきっているのだから、その中心に向かって撃ち続ければすぐにシールドを過負荷にして役立たずにできて、シールドごと自分も撃ち抜けると思っているのだろう、傘状のシールドを支える腕に打ち付ける衝撃の間隔が明らかに短くなってきているのがわかった。

 状況は悪化したかもしれない。

 そう思わせることこそが作戦だった。

 このまま突進してシールドごと押し付けてはっ倒すか? それは無理だ。それよりも先に割れてしまう。ではどうするか?

 走るスピードを全く落とさずに、進行方向を足のハンマーで無理やり直角に曲げて左の小道に身をねじ込んだ。その小道に何か足をかけられるものは無いかと見回すと、そこに都合よくビール瓶のクレートが逆さにいくつか積んであったのが見えた。一個拝借して片足で踏んで陣取ったことにした。それからエネルギーシールドを膨らませ、この小道いっぱいまで広げた。シールドが日光を遮り、狭い路地が真夜中みたいになった。

 ヤツらが来るまで1秒ぐらいか。走る音がまっすぐ大きくなる。それが急に減り、横向きに摩擦をはたらかせる砂利の音、それを耳が捉えるのとほぼ同時。足の筋肉が体を跳ね上げ、足が伸び切った瞬間に靴と地面の間に光が走り、自分の身は身長ぐらいの高さに飛び上がった。その一瞬後に射撃音が放たれてきて、無理に大きく広げられていたシールドが弾を一発浴びて、泡が弾けるみたいに消えた。

 西日が一気に路地を満たした。ヤツらの影が壁から伸びる排気口の影と合流して、子供が描いたシマウマみたいな模様になっていた。ヤツらのうちの先頭が少しのけぞって、前を見ずに弾を撃っているのが見えた。当たらない。当たるわけがない、シールドの後ろになんかいないのだから。この近さなら狙わなくても当たる、小賢しい、ヤツらはそう思っているに違いない。

 居場所の予測さえ間違えていなければ、の話なのだ。

 足が地面に付くより先に、こちらからはきっちり一人に一発ずつ。膝が着地の衝撃を吸収するころには、銃のメーターの光点は5箇所に増えていた。

「……はーあ、なんとかなったか……」

遠い喧騒を割って路地に跳ね返る音は無くなった。ただ、自分の溜息で空気が擦れる音だけがうるさく聞こえた。

 さっき戦闘になったヤツらのうち、一番近くに倒れている男を見た。彼が着ている白に近いベージュのポロシャツの左胸には、最初に不意打ちした男の背中にあったのと同じ二重丸のロゴが付いていた。このにバイトなんかを雇って投入している無粋な会社だった。金なんかで釣っているから雑兵ばっかりになるのだ、4対1で負けるようでは商売上がったりだろう。とっとと撤退することだ。

 中華料理店の香りがしていることに気づいた。裏路地に排気を出す店があるのだろう。一戦終えてその香りを嗅ぐと、急にものすごく空腹だったように思えてきた。まあ、もう今日は引き上げてもいいか。追加で襲撃してもポータブルカートリッジの容量の都合もあるし、とか考えていた。

「あら、あなただったの」

背筋が凍った。背後から聞こえてきたのは昨日聞いたばかりの女の声だった。反射的に振り向いて銃を構えたが、

「戦闘用意の無い人を対象としてロックすることはできないわ。知らないわけではないでしょう」

「……やっと俺にもツキが回ってきたってことか?」

心底安心して、そのまま銃を下ろした。

 彼女は日傘を差して、服は昨日とは打って変わって激しく運動することなど全く考えていないようなふわふわしたものになっていた。左腕の手首に付けられた腕時計のようなものだけが妙に機械的で重々しく、彼女全体の雰囲気にそこだけ重力を生み出していた。

「で、あんたはなんでこんなところに居んだよ。俺をバカにしにきたのか?」

「まさか。あなたにそんなことをするほど私は暇ではないわ。いえ、今は暇といえば暇なのだけれど。銃、持ってくれば良かったかしら」

「……その服で?」

「あら、このくらいのハンデでも無ければあなたには勝ち目無いでしょう?」

ふざけたことを言う。銃は持ってくるものじゃなくてその場で生成するものだ。

 それはそれとして、ハンデに関しては、多分事実だ。それが気に食わなかった。

「じゃあなんだ、あんたはわざわざ俺に負ける可能性を作りに俺をストーカーしにきてくれたのか? 嬉しいこったな」

「わかったわ。これからはあなたをつけ回してあなたが戦闘に入るたびに獲物を横取りしてあなたも倒す。それでいいわね」

「待った」

良いわけが無い。笑顔は本来威嚇で云々、とかふざけている場合じゃない。

「勘弁してくれ」

「まさか、そんなことしないわ。そんなことしても面白くないもの」

「『面白くない』?」

「ええ、面白くないわ」

「じゃあその……腕時計? は何なんだよ。それはバイト用のじゃないのか」

画面の液晶を取り囲むように二重丸がデザインされたそれは、まごうこと無くさっき倒したヤツらと同じ会社に所属していることを示すものだった。戦うついでにエネルギーを上納すればちょっとした小遣い稼ぎになる……という触れ込みだったはずが、今ではいつのまにか目的が逆転して金を稼ぐために戦うやつらが大半になってしまった、その元凶にして業界最大手のあの会社のロゴだった。

「結構便利なのよ、これ。ほら」

そう言われて見せられた画面には、今いる場所の地図が映し出されていた。中央に緑色の点が1つ、すぐ脇に赤い点が4つ。そこで伸びているヤツらの位置にちょうど対応しているように見える。

「それで袋叩きにして金稼ぎ、ってわけか」

「察しが悪いわね。逆よ。なるべくがいないところを探してるのよ」

「……そりゃまたなんでだ?」

そこで彼女が大きくため息を吐いて、くるりと周ってこちらに背を向けた。かつかつとヒールが鳴る音とともに、彼女は自分から5、6歩ぐらいのところで止まった。

「……もう2ヶ月ほどになるかしら。私、しばらくあなた以外と戦ってないのよ」

自分の怪訝な目線はもう彼女の後頭部に突き刺してある。

「私を見るなり、みーんなみんな、降参でーす、ってすぐに口を揃えて言うのよ。非道いでしょう?」

「なんだ、味方の仕事を無くして回るのが気に食わないってか」

「そんなわけないじゃない」

「じゃあなんだって言うんだよ、その……」

「ウェアラブル端末」

まるで背中に目が付いてでもいるかのように、こちらが指をさした左手首を自分に見えるように掲げてくれた。

「そう、そのウェアラブル端末の二重丸それ、それはお前の雇われ先のだろ。金が欲しくて戦ってるんじゃないのか? そうだ、話が逸れたけど俺はさっきそれを……」

またくるりと彼女が回って、今度はこちらに向き直った。一瞬だけ隙間を通って日光が目に当たった。

「しつこいわね。私がそんな風に見える?」

それ以外の理由がわからなかった。だから無言で首肯した。

「……そんなことをしても面白くない、ってさっきから言っているつもりなのだけれど。はあ、どう言ったらこの愚鈍な男にも伝わるのかしら」

「金のためじゃ面白くないのに金のためになることをやってる、ってのはムジュンってやつだろうがよ」

「矛盾でも何でもないわ。楽しく相手を下すついでにお金が貰えるなら少し嬉しいってだけの話よ」

「それは始まったばっかのころの話だろ。今ん時そんな理由のヤツぁいねえよ」

「いるじゃない、ここに。他の人がどうであろうと」

そう言って彼女は彼女自身の指す手を胸の前に置くポーズを取っていた。あまりにも堂々としていたので、脱力してしまって、立っていられなくなってしまった。さっき蹴飛ばしたクレートに腰を掛けると、ようやくちょっとした思いあたりが出てきた。

「……つまりあんたはただ戦いたくて戦ってるんだ、とでも?」

「ええ。だから最初から言っているじゃない、なるべくのいないところを探して動いている、って」

「……ちょっと整理させてくれ」

「どうぞ。整理すべきものは何も無いと思うけれど」

……つまり、この女は……金を稼ぐよりも戦うことが大好きで、好きすぎるがために強くなりすぎて、この辺では誰よりも強くなって……それで自分以外は全員、戦って大やけどするよりは降伏して少しエネルギーを (すなわち金を) 渡した方が良い、という理解になって、ここ2ヶ月は自分以外と戦っていない、そういうことか?

 毎度襲い来る恐怖の女の正体はバトルジャンキー。なるほど、そういうことか。

 ……何も変わらん。

「わかった。あんた、戦闘バカだな」

「失礼ね、あなたも大概よ」

「間違っちゃいないんだろう?」

「…………ええ」

彼女は少し逡巡の様子を見せたあと、こちらの目をきっと睨みつけるように見てきた。被害妄想かもしれない。

「それなら、私はあなたにもっと強くなってもらわないと面白くない、ということもわかるかしらね」

「話を飛ばすな。俺にもわかるように説明してくれ、皆が皆あんたみたいに頭が回るわけじゃないんだよ」

「何も飛ばしてないわ。分からないかしら? 私に立ち向かってくるひとはもうあなたしかいないのよ。面白くないわ、戦えるチャンスがずいぶんと減ってしまって」

彼女は日傘を閉じて、その石突をこちらに突きつけてきた。拳一つ分の隙間だけが自分との間に作られていた。日が沈みかけて逆光が弱まって、彼女の顔は割合はっきりと見えるようになっていた。さっきよりは可愛らしい笑顔に思えた。

「私を除けば、あなたはこの辺りで一二を争うくらいの実力を持っているはずよ。でも、あなたはまだ弱すぎる。100回戦えば100回私が勝つ。これも面白くないわ。結果の分かりきった勝負では賭けにもならないもの」

「なんだよ、戦わなくても強さ自慢かよ」

「ええ。だってあなた弱いじゃない」

「そんなこた無いだろ。ほら、今日の戦果もこれだけある」

「あら、燕雀を蹂躙したら鴻鵠の力関係が示されるとは知らなかったわね」

「は?」

傘が彼女の手の下に戻されて、逆に自分は半歩後ずさった。彼女との間に何もないことが恐ろしかった。

「……なんていくらしても、私より強いことなんて示せはしないわ。あなたは弱いのよ、私よりも圧倒的に」

「それを俺にどうしろって言うんだよ」

「あなたが私にうっかり勝てることがあるくらいに強くなるか、それができずに蹂躙され続けるか。この2つの選択肢をあげるわ」

「実質一択じゃねえかよ、クソが……」

「決まりね。次に合う時はもう少し強くなっていることを期待しているわ」

彼女は満足げに自分に背を向けて、珍しく束ねられていない髪が少し浮いたのが見えた。そのまま歩き去ろうとしていたので、

「おい、待てよ。他人に何かしてほしいって言うんなら、ちょっとは協力するのが筋ってもんじゃねえのか」

ダメ元で呼び止めてしまった。彼女は背をこちらに向けたまま横顔だけ見せて立ち止まった。

「私が何かする義理も無いわ」

「俺は俺なりに努力して戦ってきた。戦闘技術には経験も自信もある。それでもあんたにゃ勝てないんだ。どうやって強くなれって言うんだよ、これで」

「そうね……アドバイスの一つくらい、なら……それも、持てる者の努め、かしら。感謝なさい、私がこんなに協力的なのは相当稀よ」

知ってる。が、わざわざ声に出して彼女の機嫌を損ねない程度の先見の明はあった。

「あなた、他のひとの戦い方を観察したことはある?」

「しばらくしてないな。俺より弱いヤツの戦い方を見たって……ああ、そうか」

「そういうこと。私の動きを観察なさい。私の劣化コピーにでもなれば、運次第では私に勝てることもあるのではないかしら?」

「心にも無いことを……」

彼女に鼻で笑われたような気がした。

「そうね、どちらかといえば、劣化コピーを相手にうっかり負けてしまう、なんていうのは負け方の中では最悪の部類に入るわね」

「そりゃあそうだろ。そんな負け方は相当ミスを重ねたときだ」

「そうではなくて……いえ、そうでもあるとは思うのだけれど」

そこで彼女は言葉を切って、また日傘を差した。遮られる光は繁華街の光だけになっていた。

「そうね、私は……私は、命を賭してもぜんぜん敵わないようなひとに、必死の抵抗をしても私を打ち破ってくるような相手に、私は討ち取られてみたい……と、思うのよ」

「……それは冗談なのか?」

傘で顔が隠れていて、その真意を掴むことができなかった。

「どちらが良いかしら?」

どっちだとしても薄気味悪い気がして、自分の口からは答えが出なかった。目線が地面に沈んでいたことに気づいたのは、去っていく彼女のヒールと地面の平たいコンクリートの間に響いた音が実態を持たないように耳に響いたあとだった。


 リビングのポートに表示された残り日数は3日。溜めてあるエネルギー量は、さっきやった暗算が間違っていなければ9割をわずかに超える程度。椅子に座ってその画面を睨みつけながら、どうしたものかと頭を抱えていた。

 このままでは間に合わないのだ。

 ここ一週間ほど、幸か不幸か彼女と遭遇することは無かった。エネルギーを集めることに関して言えば、それは良いことではあった。いつ邪魔が入るのかとびくびくしながらも結局首尾よく大量にエネルギーをかっさらえた日々が続いたのだし、残り3日もそうならちょうど最終日に必要量を集めきることができる。自分の戦闘技術からすれば、彼女の動きなんか真似せずとも負けることは滅多に無いのだ。

 彼女さえいなければ。

 動きを真似ろ、と言われても彼女と戦っているときにはなんとか彼女に一泡吹かせるか、せめて文字通り一矢報いようと必死で動きを覚える余裕など無かった。だからまあ、そもそも彼女と遭遇することがなければ、真似られもしないのだが。

 そう、彼女と遭遇することさえなければ、万事問題無い。

 そうは問屋が卸すまい。残り3日、絶対に一度ぐらいは彼女と戦うことになるだろう。直感とかではなく、彼女の性格からしてそうだろうという確信めいたものがある。一度では済まないかもしれない。もしかすると3日全部彼女に打ち倒されて、自分のこの企みは水泡に帰してしまうかもしれない。そうなれば半年の努力がパアだ。

 それだとあまりにも辛いから、3日の内1日しか遭遇しないことにしておいてみよう。そうすれば、と電卓アプリを起動した。2日分を皮算用して今の貯蔵量を足す。必要量の99.1%だった。わずかに足りない。それが意味するところは、

 彼女を倒さなければならない、ということ。

 日はもう沈んでいる、というよりはまだ昇っていないと言うべき時間帯か。何がなされなければならないかを思うと、目が冴えて眠れなかったのだ。勝てるはずがないのに勝たなければいけない、そんな不安が胃に粗いザルを押し付けたかのような苦痛になっていた。こんなときには深夜にもなって外にいる不健康野郎をはっ倒して回れば少し気持ちも上向くかもしれない、エネルギーの足しにもなるし、と思ってそそくさと動ける服に体を入れて、月明かりの下に出ていった。

 彼女と遭遇したのはそれから5分も経たないうちだった。電車なんか当然動いていない時間帯だから、適当な細めの道をほっつき歩いて不良を捕まえられればと思っていたが、想像よりも全然人がおらず、ただ自分が散歩しているだけのようになってしまっていた。夜にしては遅すぎたかな、と思っていたら人の気配がした。靴と地面が擦れる音がした方、不用意な誰かがいないかと向かってみたら、

反射的に足を止めてしまった。音の変化に気を取られたのか、そのすぐ後に彼女の顔が動き、目が合った。互いに存在を認識してしまった。

 交戦開始だ。

 手癖でアサルトライフル様に銃を生成しようとした。グリップになるだろうところのごく薄い部分だけが光りだして、生成は遅々として進まない。当たり前だ。エネルギーを人から奪っていないときに使えるエネルギー源はふつう、日光だ。月光は日光の何分の1の強度だろうか?

しかも、アサルトライフルなんていう複雑な構造のものを、うっかりと生成し始めてしまったのだ。姿かたちを得ているのはようやくグリップと銃床のあたりだけで、トリガーなんか引いても何も起こらない。この僅かな部分で彼女を殴りつけてなんとかできるか? 冗談きつい。

 生成光の残滓が彼女の右手に見える。手には短剣が握られていた。ダガーよりは長く、脇差のように見えるが諸刃だ。少し残光を保ったそれがゆっくりと正中線まで来て、正眼の位置に構えられた。数瞬前まで道の向こうにいたはずの、10mは距離があったはずの彼女がもう数歩先まで距離を詰めてきている。電灯がほぼ真上から彼女の頭を照らして、顔にくっきりと影が落ちていた。明るい半分の側の表情にはひどく上がった口角があり、背筋に共振するような悪寒が走った。

 彼女に顔を向けたまま、後ろにスキップで移動する。少し砂が乗ったコンクリートの上で、足元こそつさっ、つさっと軽快な音が鳴るものの、アタマは必死そのもので半ばパニックに陥っていた。武器ライフルの生成が完了するまで、なんとしてでも時間を稼がなければならない。短剣と銃で近接戦闘をするのは無謀だが、一旦生成が完了さえしてしまえば射程の差でこちらが圧倒的に有利なはずだ。だから逃げ切れれば勝ち、逃げ切れなければ負け。問題があるとすれば、そのタイムリミットは――まだまだ先だ、ということだった。

 アサルトライフルのような工業製品はパーツ数も多ければ組み合わせの精度も高く要求されて、それを生成しようと思えば、どの位置にどう生成するかだけで結構なエネルギーが要求されるらしい。そんな御託はどうでも良く、肝心なのはがいつになったらできあがるのか、それだけだ。ちらっと銃を見るとすでに実体を持っている部分は全体のだいたい四分の一ほど。それで? ええと、そうだ、ここまでは何秒ぐらいだ? たぶん20秒ぐらいだろう。つまりあと1分ほどか。逃げ切れるだろうか?

 いまここで自分が突然飛び蹴りを仕掛ければ、彼女は安々躱して返す刀で斬り伏せてくるだろう、その程度の距離感がある。しかし彼我の間はどんどん縮められていく。バックステップを続ける自分と、正面を向いて走る彼女、これでは分の悪さが際立つというものだろう。だから、右足を軸に体を反転させ、三十六計逃げるに如かず、彼女に背を向け駆け出した。今できることは何もない。

 さてしかし、彼女から1分逃げ切れるだろうか? 厳しかろう。彼女の霞のような身のこなしは自分が一番見てきた。まるで攻撃を当てられないのと同じように、直線スピード勝負でもなければ簡単に捕まってしまう、そう考えて、適当なところに潜んで時間稼ぎをしようと、近くにあった腰ぐらいの高さの塀へ向かう。いつものように靴底にエネルギーを寄せて、跳び、けれども膝は塀にしたたかに打ち付けられた。

「なんでだよ、クソ!」

 尻から地面に落ちた。反射的に叫んだが、理由も分かりきっていた。得物の生成で精一杯のときに靴底に寄せるエネルギーなんてものは無い。じわじわと痛みが沁みてきた。それを気にする暇もなく、彼女がすぐそこに迫ってきているのを気配で感じた。とりあえず姿をくらますよりほかに無い。痛みに引きずり落とされるかのような気持ちになりつつも、塀によじ登ってその上を早足で動いた。さっき自分がやりたかった動きをもっと洗練させたような動きを、きっと彼女はすぐ後ろでやっている。塀上の丁字路を右に曲がって、家一つ分進んでからまた右へ。元の道に出る方向に折れ、開けたところに躍り出た。身一つ分下にある道の上に、短いが濃い自分の影が落ちているのが見えた。まだ銃は半分程度、ソードオフでも短すぎる。

 彼女の息遣い、足音、そういったものが自分の音に割り込んでくる。すぐ後ろにいるに違いない。もしかするとわざと追いつかずに遊んでいるのかもしれない。なんであれ、自分の足はひたすら前に出し続けなければいけない。そうでなければ負けるから。

塀はあっという間に終端を見せ、どこに足をやるべきか、一瞬判断をし損ねてしまった。

 それが命取りだった。道に飛び降りるのが一瞬遅れた。別の路地へ駆け込もうとし、重心を道側に傾けた瞬間、両足首が一瞬熱くなり、そして力が抜けた。

 斬られた。

 足首が麻痺したような感覚を覚えて、バランスを取るなんてできるはずもなく、体は上体から道に落ちていった。受け身のようなものをした方が良いのだろうなあとは思えども、心得が無ければどうしようもない。下側になった左半身を強かに打ちつける格好になった。

「勝負あったわね」

 気付くと、仰向けになった自分の上に彼女が音もなく仁王立ちしていた。手に持った短剣の鋒が顔にまっすぐ指されていた。眠たげな眼のような歪んだ月が彼女の肩越しに見えた。

「どうだか」

 強がりでしかないことは自分でもわかっていた。視界の端では遅々として実体化が進まない銃の、その縁がちらちらと瞬いているのが見えて鬱陶しかった。彼女がいつも通りの自分の知る彼女であるのなら、万に一つも勝機はない。

「0点よ、あなたの動き。私を観察なさい、と言ったことを忘れてしまったのかしら? そんなことも忘れてしまうほど深刻な脳をしているとは思っていなかったのだけれど、認識の修正が必要かしら」

仕方しょうが無えだろ。あんたみたいな恐怖の大王と戦ってるときは俺の動き以外気にしてられないんだし、今日はずっと逃げっぱなし、これじゃ見ろって言われても見る暇が無えんだよ」

「そういうところも含めての点数よ。まあいいわ」

 突如彼女が上体を折ってきた。首でも斬られるのかと思ったが、右手に握っていたの未完成の銃がひったくられただけだった。その代わりにか、彼女の短剣が顔のすぐ脇に落とされ、音もなく跳ねた。

「持ちなさい」

 何を? この剣をか?

「ナメてんのか?」

「ええ。千載一遇のチャンスを与えてあげたのよ、あなたが無駄口叩いている暇は無いでしょう? ほらほら、が完成したら最後、あなたに勝機は無くなるわ」

 無駄口叩いてんのはどっちだ。彼女の顔と月を見据えて、体は仰向けのまま剣をしっかと握り、そして体全体を一気に跳ね上げた。彼女を、刺す。なかなかの速度が出たと思ったが、悲鳴ではなく「あら」とだけ、彼女は声を出した。

 刃が空を切った音、それがスタートの合図だと言わんばかりに彼女は駆け出した。すこし道を下ってから、自分が登ったところぴったり同じ点で彼女は塀を乗り越えた。嫌味な女だ。

 彼女の動きを追い、塀の上に手を突いて跳び越える。塀と民家の間に足を落とし、跳び越える直前に土と石を踏む音のした方向へ顔を向けた。人影が無い。なら逆だ。家の角まで走って2歩、曲がると彼女が室外機の上に立っていた。

「そう、あなたは戦うカンは鋭いのよ。あとは体動さえきちんと」

 勢いのまま剣を振り抜いて袈裟斬りにする。

「無粋ね。指摘は素直に受け入れなさい」

 室外機の天板だけが剣を受け止めた。彼女はもう視界にいない。また走る道は折れて、塀の上に彼女が跳び上がるところがちょうど見えた。自分を一瞥して、塀の上を家の影へ消えていった。自分もまた追って跳び乗ると、その先に彼女が待っているのが見える。そして元の道の側に出る。ルート自体はまるきりデジャブなのに、その動き方が全然違う。愕然とした。そこまで差があるものなのかと。彼女が傲慢にもいちいち待っているからなんとか追いつけてはいるが、これでは振り切るのも彼女の気持ち一つの問題だろうし、動くこと以外に割ける時間も彼女と自分とでは大違いになってしまっているのだろう。

 ……しかし、あの銃はとうに完成しきっているはずだ。自分の時間間隔がすっかり狂ってしまったのでもなければ。それを撃たずに教官気取り、シンプルに腹が立つ。そんなことを考えていたから、何も考えずに塀を蹴って空中に飛び出してから、その道に彼女の姿が見えないことに気づいてしまった。

 落ち行く体は制御できない。だから、剣を勢いのまま背後に向かって突き出した。次の瞬間、左足首に外から衝撃が加わったのを感じた。それから一瞬遅れて剣を持つその手に分厚いゴムを割くような感覚が帰ってきた。次の瞬間、剣への抵抗は無くなり、なにやら蹴る地面は無く、三半規管は体勢が不可思議になっていることを一瞬のうちに教えてくれたが――それを活かす間も無く、無様に倒れ込んでしまった。足払いを受けたのだと気づいたのは、背中にぬるい痛みを覚えてからだった。

 空の端が少しだけ明るくなっているような気がした。後頭部の熱が地面に吸われているのを感じて、その冷たく感じるところを通してやる気というものがするすると溶け出していって、だから自分の思考もすっかり形を失ってしまっている、様に感じた。急に視界に彼女の顔が現れたので頭も顔も凍りついた。なんとか不定形の動物にはならずに済んだ。

「本当に……久々ね、この感じは」

彼女は左の二の腕を抑えて、墨のような声でそれを言っていた。顔は、声とはまったく対照的に、狐のような笑顔をしていた。

「……一発、当てたよな、俺は」

「ええ。私の記憶違いでなければ、おおよそ7年ぶりよ。私が攻撃を貰うなんて」

「そうなのか。今まで一度も食らったこと無かった、って言われても俺は信じるけどな」

「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

「……早く撃てよ。それとも敗者を煽る趣味か?」

 彼女の手の銃は、煮崩されたみたいにだらんと地面を向き続けていた。すぐにでも撃たれて灼熱の中に意識が戻るとばかり思っていたのに、なかなか銃口と目が合わずに苛立ってきていた。

「あら、勝者が敗者をどうしようとも勝手でしょう? それとも、あなたは完膚なきまでにやられるまでは負けてない、とでも主張するつもりかしら」

「今さら勝負はまだ着いてない、つって恥の上塗りをする気は無えよ」

「それは良かったわ」

体の熱が地面を温めきってしまった。風が少し寒く感じるようになってきた。彼女がまだ何もしないことに苛立つ秒数は、どれくらいあっただろうか。

「でも、そうね……特にすることも無いわ。帰っていいわよ」

「なんでだよ、撃てよ。何が目的だ?」

「目的も何も、ほら」

 そう言って彼女が生成させて見せた、ポリゴンの荒い球のようなもの――見覚えのあるポート用のカートリッジだ――は、恐ろしくまばゆい光をその隙間から放っていた。自分のそれも生成してみれば、今さっき彼女を刺した分の光だろう、ごく僅かな光が、それがあると思って手をかざしてみればなんとか見つけられる、その程度に出ていた。

「すげえな。何日ポートに入れてないんだ?」

「今日1日の分よ」

「1日! 女物はなんでもかんでも小さすぎて不便だと思ってたが、カートリッジですらそうとはな」

「あら、ざっと50人分よ? おそらくあなたのと同じサイズだと思うけれど」

「……そうか、すげえな。分けてほしいぐらいだ」

 彼女の目がこちらを睨んだように見えた。迂闊なことを言ってしまった、しまった。撃たれずとも蹴りつけられるぐらいは、

「……そうね、いいわ。ただし」

覚悟する必要があるか、と思う必要はなかった。

「もったいぶらないでくれ」

「無粋ね。ちょっとした質問に答えてくれれば……それともう一つ、ちょっとした条件を考えてくれればいいわ」

そんなことでいいのか。

いや、全然そんなことではない。どんなに恐ろしい約束をさせられるのやらわかったものではない。

「……早く質問を言え。俺が恐怖で吐く前に」

「ずいぶんと綺麗で小さな心臓をしていたのね、あなたって。良いわ、まず1つ」

 太陽はもう地平線の上にあるのだろうか、白んできた空の雲の形ははっきり見える。だから彼女の顔もはっきり見ることができた。素晴らしい笑顔をしていた。その奥に恐ろしい戦闘技術があって、かならず自分を叩き潰してくることを知っていたから、その笑顔が般若面を糊塗したもののように見えて、なんとなくバニラエッセンスのことを連想した。

「ここ最近、私以外に負けたことは?」

「……一昨年の11月30日以降には、確実にない。その少し前から負け無しのはずだが」

「やけに具体的ね。何か印象に残ることでもあったのかしら?」

「まあ……そうだが、話してもわからんだろ」

 右の脇腹にちょっと鈍痛が来た。舐めるな、と。

「……OOHオー・オー・エイチがピアリー・クレーターにアプローチした日だ」

「ピアリー・クレーター、というのは月の地名だったわね。OOH、は……知らないけれど、私が知らないということは日本語圏では報道がゼロだったか、ほとんど無かったかでしょう。ということは日本語圏とは関係の薄い国が出した、そうね、無人探査機でしょうね。あなた、宇宙が好きだったの? ああ、思い出したわ。ピアリー・クレーターと言ったらがあるところじゃない。月面上受光設備建設のための調査……だとしたらNASAかESAあたりが手を出して日本も一枚噛んでいてもおかしくないわね。報道が無いあたり、中露が何かしようとしていたのかしら? でもそれにしては名前がそれらしくないわね。……こんなところでいいかしら? そろそろ答え合わせをお願いしたいのだけれど」

「……8割は合ってる。ヌビアの無人探査機だ」

「ヌビア! ずいぶんとマイナーな国名が出てくるのね。勿論単独での打ち上げ能力は無いでしょうから、なにかの打ち上げに便乗してペイロードの余りに積んでもらったものでしょう。なるほど、それを見て自分の探査機を打ち上げてみたい、と。そういうことね」

「……なんだ、その、もしかしてエスパーだったのか?」

「いいえ。まだわかっていないことだってあるわ。無人機を作るにも余ったペイロードに積んでもらうにも先立つものが必要、ということはわかるけれど、その程度のお金を稼ぐのなら、いくら戦闘が上手いとはいえもっと良い稼ぎ口があるはずよ。それに私に遭遇して稼ぎがパーになる可能性も、そんなに少ないわけでは無かったはずよ。その上……あら」

 滔々と語っていた彼女の口が止まって、ふと目が合った。逆光の中で、正気を月にすっかり吸い取り去られてしまった後のように見えた。

 早朝の明るさが彼女以外の全てをよく見えるようにしてしまっていた。向こうの陽の中に家々の壁の白さがあり、一方ですぐそこの影の中にある彼女の、そのいきなり釣り上がった口角の暗さと大きく欠けた月の形が重なって見え、日光の中に月があったように見えた。

「わかったわ。?」

「……天王星だ」

大それた目標だと言われるだろう、もし普通の人相手にこれを話せば。天王星軌道までに必要なΔVがどれだけあるか、計算しなくても予想は付く。ただ、彼女は違った。

「やっぱり。やっぱりそうね、そんな遠くまで飛ばすのね。だからこんなにエネルギーを求めていて、お金ではなくて、だからそんなに戦いたがっていたのね」

 満月のような静けさは彼女の顔から消え去って、当たる日光とともに黄金の蝶のようなきらめきが現れていた。

「どうやって届かせるのかしら? 小惑星帯よりさらに外よね。となれば便乗するサイズではイオンエンジンでも難しいはず。いえ、そもそも素人にイオンエンジンは無理ね。化学エンジンはなおのこと無理……太陽帆かしら? けれど、それではエネルギーを用意した意味が……いえ、そこまで詮索する必要は無いわね」

「すげえな。これも8割は合ってる。もう大気圏内には無いってことまでは読めなかったみたいだがな」

 満足したか、という気持ちを込めて彼女のことを睨んだ。もう朝になってしまって眠気がぶり返してきたし、なによりずっと彼女に倒されたままでいるということがじわじわと気持ちを苛んできた。初めて彼女に一撃を加えられた、それが何だというのだ。負けているのだから何も嬉しくない。

 ……「負けているのだから」、「何も嬉しくない」?

 素朴な感情として、勝てば嬉しい、負ければ悔しい、そんな気持ちは持ち合わせていた。ただ、それは大目的たるエネルギー集めのためには実際些事だったし、

「あと1つだけ質問するわ」

 思索は彼女の声で打ち切られた。

「あなたの前には2つの選択肢があるわ。どちらを選ぶのか教えなさい。明日、午前2時にここへ来て私と戦うかどうか。もしあなたが戦うことを選んで、私に打ち勝ったのなら……そのときこそ、の中身を必要なだけあげるわ」

「もし、俺が要らねえっつったらどうするつもりだったんだ?」

「あら、あなたはまだ必要なエネルギー……か、それかお金のどちらかを集めきってはいないはずよ。いないからこそ、まだ戦いに来ている。違うかしら?」

「……嫌だ、っつったら?」

 彼女の言うことは、憎たらしいほど正鵠を射ている。その一方で、一を聞いて十を知るような彼女であっても情報が不足していれば当然理解しきれない部分がある。すなわち、必要なエネルギー量と許容される残り日数の両方がごく僅かだ、ということを。ギャンブルはできない。すっぽかせば万事――

「私がいる限り、あなたはもう二度とエネルギーを回収できないと思いなさい。あなたが会敵する、そのたびに私はあなたとその敵の間に割り込んで、あなたとその敵、両方とも私が倒すわ」

「……おいおい、ずいぶんと熱心なストーカー予告があったもんだな」

「あら、冗談に決まっているじゃない」

「なんだ、俺に美少女の追っかけができることは無いのか?」

「ある程度信頼しているのよ、私はあなたのことを。興醒めするようなことはせず、ちゃんと戦ってくれる、そうでしょう?」

 ――解決。そのはずだった。

 普通に考えれば、明日わざわざ彼女と戦う必要は無い。そもそも彼女にこれまで一度として勝てたことなんて無い。分の悪い賭けどころの話ではない。

「一応聞いといても良いだろ。あんたは……なんで、こんな勝負を俺に持ちかけたんだ?」

「あら、そんなこと? 聞くまでもないことよ。一度自分で考えてみてもいいんじゃないかしら?」

「……あんたは勝っても得るもの無しで、負けたら大損だろ? ……そのカートリッジで俺を釣って、それをめたくそに倒して笑う、そういう趣味か?」

「……20点よ。100点満点中」

彼女の顔からは遥か右に目線をそらしっぱなしで、表情は見なかった。

「はあ……前に言わなかったかしら? 私は戦いたいのよ」

「……それで?」

「それだけよ」

 舌打ちをして、首を回るだけ左に回した。明るさが瞼を引っ張って閉じた。

 いつも超越的で、何もかも分かっているように振る舞って、その上毎度毎度遭遇するたびにボコボコにされて、説明の言葉は足りないなんてものではない。

「いいわね、明日の午前2時にここに。また戦えること、楽しみにしておくわ」

 勝手で、こっちの事情も考えずに一方的に決めてくる。こんなのをまともに取り合う必要が、むしろあると主張するほうが難しいだろう。明日は彼女を無視して別のヤツを狩る。そうするのが一番賢いに決まっていて、

 ……そんな風にしてしまえば、彼女とは戦えない。

 こちらが何も言わないのをなんと見たかは知らないが、運動靴がアスファルトの砂を挽く音が彼女がいたはずの方向から聞こえてきて、それがわからなくなるまでずっと目線は陽と影の間に吸い寄せられていた。


 そしてまた、地球の反対側が自分に代わって陽射しを受け止めてくれる時間になった。時計を見ると、表示される文字はコロンの左より右の方が多くなっていて、それが少しアンバランスに見えた。

 ポートには、残り2日、と表示されている。その表示を見て、もうかれこれ10分ほど動けずにいるのだろうか、時間を覚えることもしていないのでどれくらい経ったのかはわからないが、ともあれ、『理性的』な選択を取る方が『正しい』のに、おそらく取らないだろうことがわかっていて、それが自分の行動原理と背反であるように思えて、しかしながら実際のところ取るべき行動と取るだろう行動が乖離してしまっているのは目に見えていて、それだったらやっぱり『正しい』行動をしに、要するに彼女を無視したほうが良いのだろうけれど、

 彼女と戦いたい。

 彼女に、打ち勝ちたい。

「……そうか、どうしてもあいつを倒してえんだな、俺は」

 唐突に足が固まった状態から放り出された。力が抜けかけて、少し跳ねた。『理性的』な選択をどのように取ればいいかは、昨日のうちに答えが出ている。今日明日を使って彼女以外の誰かをなるべく……合わせて最低7人ぐらいだろうか、狩ればかろうじて足る。そのためには、もちろん今日明日は彼女を無視する必要がある。あれで彼女も話が通じない相手ではない、はず。だから、土下座でもすれば少しばかり堪忍してくれる……と信じたい。

 まあ、それもどうでもよいことだ。と、はっきり認識してしまったのだ。もう自分は、今日彼女と戦う以外の運命を持たない。そのように決めてしまった。そのように決まってしまった。

 それはそれとしても、数千km上空にある、自分の探査機にも思いを馳せることは避けがたい。明後日の適時から地上からレーザーをその探査機に撃ち込み始めて、その威力を使って推進する。そのレーザーを電力で賄おうとすると、単純に電圧も電流量も家庭用では到底足りず、貯めやすくかつ大出力の出せるエネルギー源と言えばあとは化学エネルギーか原子力エネルギーか、それかぐらいだった。前者2つは法が許さないから、必然的にに頼らざるを得なかった。

 明後日のチャンスを逃せば、軌道の再計算が必要になる。このチャンスのために同乗するロケットとパージのタイミングを選択したのだから、もしかすると再計算しても天王星まで送り出せるチャンスが来るのは100年後とかになってしまうかもしれない。100年で済めばまだ早い方かもわからない。今さら身震いするような気持ちが生まれてきた。

 でも、きっと自分は彼女と戦いに行ってしまうのだ。

 デジタル時計の数字が3つ同時に変わった。1時だ。今日の月が天頂にもうすぐ差し掛かる。彼女と戦えるまであと1時間になった。ふつふつと足が動いて、もう昨日彼女と戦った場所を陣取っていようかという気持ちになった。しかし1時ではまだ早いだろう、と無粋なことが頭をよぎった。でも、ここにいても延々思考は往復する飛杼のように彼女と探査機が交互に表に出るだけだろう、ということの確信もあった。ドアを開けて夜闇の中に出た。

 空気がなめらかに向きを作っていた。部屋の中ではただ在るだけだったそれが、風になってその存在を主張し始めていた。空を見なければ月光と街灯の区別も付かない。道には人も車も無い。風だけが動き回っていて、自分の手の外に何かがあることを実感できた。歩くに従って街灯の照らす光が波打つよりほかには、自分の足音ぐらいしかうるさいものも無かった。

 遮二無二歩いて、あと2つ角を曲がれば昨日彼女と遭遇した場所に出るというところでふと我に返った。あるいは狂気に足を取られた。

 昨日の彼女の態度はどんなものだっただろうか? 無論、自分を堂々と馬鹿にしたものだった。当たり前だ、彼女が勝者で、自分が敗者だったのだ。それもこちらは必死に戦って、彼女がどれほど本気で戦っていたかはわからないが、少なくともナメた真似はされた。銃撃すればこちらが工夫する間も無く倒せた所を、貴族の義務ノブレス・オブリージュかのように無視してみせた。

 なら、それに付け込まれても文句は言うまい。何か準備しておけば一泡吹かせるチャンスぐらいはできるだろう。何を準備しておこうか。

 戦闘に必要なものを奪えれば、それが一番良い。戦闘に必要なものは、戦闘の経験とセンス、それから情報、最後に武器だ。経験とセンスは殺しでもしない限り奪えない。武器なら……いや、彼女だったら石礫や空拳のたぐいであっても上手く扱えてしまうのだろう。これも無理だ。

 となれば、情報……一番奪いたいのは視覚情報だ。フラッシュバン……は、在庫を切らしている。今作っておくにしても、エネルギーを爆発できる形に溜めておくことは恐ろしく難しい上、そもそも彼女はフラッシュバンの対処も何度と無く経験しているだろう、多分無意味だ。……でかい布。でかい布をばっと広げて彼女の方にぶつけて、こちらの位置をわからなくさせる。変なアイデアが浮かんできた。両手を広げて生成を始めてしまった。布をぶつけられて、それが巻き付いてシルエットになった彼女の姿を想像するとこれが可笑しくて、つい試したくなってしまった。2枚作るのにかかった時間はだいたい30分だった。これでちょうど良くなった。

 そこら中に電灯があるおかげで、満月が傾いてもそれを見上げずに気付くことは無かった。夜の中に出てきてから一時間弱、昼間なら太陽が少しばかり動いて嫌でもその時間経過を伝えるところ、歪んだ月はその役目を果たさないように思えた。ほんの少し歩き、彼女の姿を昨日と全く同じ位置に認めて、月のせいで一秒も待たせていないような、一週間以上立ちぼうけにさせたような気持ちがして、それで彼女の周囲に近づけないような気がした。彼女もすぐにこちらに気づいて近づいてきて、その近寄りがたい空気が自分の身を通り過ぎて後ろへ去っていった。

「準備はいいかしら」

 彼女はそれだけ言って、こちらからやや離れたところで仁王立ちした。4歩ほどの間があるだろうか。彼女の黒い目を見ると、彼女の威風堂々とした立居振舞が自分を圧倒するように思えて、余計なことが気になってくる。足裏から伝わってくるアスファルトの僅かな傾きから、彼女が道の真ん中のほんの少し小高くなったところに立っていること。道の左右の塀の灰色が光をうっすらと跳ね返して、それがリングのように意識に染みること。何より――尻ポケットに突っ込んでおいた布が、その体積をもって自身の存在をアピールしてくること。

「あんたは?」

「あら、私が何か準備する必要があると?」

「……武器の一つも準備してないってのは、流石にナメすぎだ。気分悪い」

「そうね……もし私の脳がおかしくなっているのでなければ、昨日の私は半分不意打ちのようなところからあなたを負かしたと思うのだけれど。自分からもっと不利な状況を作ることは、必ずしも賢いとは」

「これでも俺はあんた以外にゃ負けは無いんだよ、それであんたがナメた振る舞いをして俺が勝ってみろ、不完全燃焼だろ」

「……ひとが話している間に割って入るのは、良いこととは言えないわね」

 彼女は当然彼女が勝つと思っている。自分はむざむざ負けるとはかけらほども思っていない。つまり勝つと思っている。お互い平行線だ。煽りの一つでも入れなければ一生話が進まないのだ。見る間に彼女の手元が少し輝いて、おそらく武器だろうものが……握られた、はずだ。

「……何だそれ?」

「十徳ナイフ、九徳抜き。もしくはワインオープナー。ほら、刺さると痛いわよ、ほらほら」

 後悔させてやる。

 自分の武器を実体化させる。目の前に棒状の光が突然出て、それをそのまま掴んだ。見た目はホームセンターで買えるような角材をそのまま、2m級。外から内に生成させることですぐに威圧できる。

「ナメやがってよ!」

 両手で片方の端を握って、それを彼女に向かって構えた。前に2歩駆けて左から右に横薙ぎに払うと、彼女は悠々それを避け、しかしそれ以上何もしない。カウンターが来るものと思って自分も止まったので、ここで一瞬空気が止まった。その時間で小賢しい考えが浮かんだ。角材を地面に跳ねさせながらもう一度左に持ってきて、さっきと同じように踏み込みながら左から右へ薙ぐ。また彼女が避け、カウンターは来ない。薙ぐのに合わせて向きと立ち位置も少し変化する。自分と彼女を結ぶ線は、戦闘が始まる前までは道と平行だった。それが、2回の横薙ぎを経て30度ほど傾いた。壁を背にしてやりたいのだ。流石にもう一度横薙ぎでは露骨かと思い、今度は大上段に構えた。

 飛び込みながら、彼女の頭のすぐ左をかすめるように振り下ろす。狙い通り彼女は右に飛び退いて、その一瞬後には視界から消えている。右に彼女がいるはずだ。見ずに右手を角材から放し、フリーになった右腕を振り抜いた。わずかに生ぬるい空気を腕が通った。その勢いを使って体ごと回転させると、彼女のワインオープナーの螺旋が月光を反射してきらめいているのが見えた。それが視界の下端に向かって突進して、腕に小さいながらも鋭い痛みが突如できた。痛みと彼女と塀が目の前にはあった。

 角材を彼女と正対させて両手で構えた。彼女は腕を伸ばしても当たらないぐらいのところに戻っている。

 その詰めの良さが仇になるのだ。彼女のすぐ後ろにはもう塀が迫っている。右手を角材から放し、左半身を前に出すように構えを変えた。右手を彼女から隠して、尻ポケットにある布を掴んだ。

「いい加減、まともに戦う気は無えのかよ」

「挑発には乗らないわ」

 彼女はそれだけしか言わなかった。自分もこれ以上言うことは無かった。睨み合ったまま、まだ上がっていない息がゆっくりと吸われ、吐かれた。それがもう一度。そしてまたもう一度。四度呼吸をして、仕掛けた。

 右手に掴んだ布の巻物を、彼女に向かって一気にほどいた。勢いのまま靴裏とアスファルトの間にわずかにエネルギーを集中させ、認識の上ではそれと同時に開放し、その反作用を使って拳二つ分ほど浮き上がる。月からのエネルギーであっても、この程度の生成に使うことはできる。こういった小賢しい動きにはなかなか使える。

 身が跳び上がる中では空気の動きも追い越して、しかし風を切る感触も得られないうちに頂点に達し落ち始める。その間に、彼女に向かって布がはじけ、おそらく――捉えた。落ちながら、布全体を横に斬るように角材を――振る、振って、彼女にぶち当て、られなかった。

 角材がぶつかったものは布の抵抗だけだった。振り抜いて、そこで初めて布がやたら短くなっていることに気づいた。布の一辺が薄く光っていた。

「アウターを着るにはまだ早いわね。無地はいいけど、白は主張が激しすぎるわ」

そして、その切れ端が彼女にまとわりついていた。

「……随分と手先が器用なんだな、おい」

 自分の声が震えるように思えて、語気を強めてごまかした。飛び上がってから落ちるまで、半秒も無かったはずだ。その間にエネルギーを操って、

 冗談じゃない。彼女からすれば突然視界の大部分が布で覆われたわけで、それを仕掛けたのもその奥にいるのも自分だとわかりはするだろう。そして、そこまでだろう、と。

 目論見は外れた。必殺の一撃も外れた。一瞬止まった空気に、彼女の腕が動き出すのが見えた。彼女の体全体がぶわりと動いた。足が塀を蹴った音が高らかに鳴り、視界の中に占める彼女の部分が瞬きの間に倍増する。逆に自分が不可視の布をかけられたように思えて、動き方を一瞬忘れて、どう動いても彼女には対処されてしまうという気持ちになり、それを打ち払おうと思い切り角材をぶん回してしまった。

 視界から彼女が消えた。否、消えてはいない、視界の下端にその端切れが残っている。こちらが振った角材をくぐってきている。ということは、自分にはもう防ぐ手が――

 右の膝より少し上に鮮血のような痛みが劈いて、慣れ親しんだ強烈な脱力感――膝上の筋肉のすべてが突然鉛か何かにでも置き換わったかのような感覚――が、その辺りを包んだ。彼女の攻撃の勢いのまま、右足だけが後ろにふっとばされる。体が急に前に回りはじめたのを、なんとか踏みとどまらせた。

 このままでは、昨日とまったく変わらずに倒れ伏して、無様に負けを認めさせられる。

 それは嫌だ、でも、何ができる?

 何も考えずに2枚目の布を彼女に投げつけた。完全に不意打ちを食らわせたにもかかわらず完璧な対応を返してきた彼女を相手に、何の工夫も無く同じ手をもう一度当ててみたところで。なんならもう布が斬られ始めているような気すらする。打てる手なんか水面に映った月を掬おうとする手段ぐらい無かった。

 それなのに、それでも彼女には負けたくなかった。遮二無二、角材も布を打ち上げるように振り回して、まだ力の入る左足を振り抜き、全力で地面を蹴った。ほとんど彼女に斬られるために飛び込んだようなものだろうな、と思った。慣性が空気抵抗を打ち破って角材がその布とを――捉え、上半身がばらばらになって落下し始めたかのような感覚を得たのはほぼ同時のことだった。

 一瞬の猶予も無い。角材が捉えたように見えた影が予想通りに雲散霧消して、それと同時に掌と角材の間に小さな爆発を起こした。ほとんど反射的な、後先考えない悪あがきだった。軽い軽い角材と、重く力の入らない体が真反対に吹っ飛んだ。

 体は崩折れた。尻餅をついた。衝撃はそのまま後ろに上体がふっとばされ、したたかに背中を、肩を、そして後頭部をアスファルトに衝突させた。反響する鐘のような痛みが飛んで回った。

 残響音はまだ鳴り止まない。ぐわーん、ぐわーんと鳴り、そのうちにそのがよく聞こえるようになってきて、頭よりも尻の方がよっぽど痛いことに気がつくと、その鐘の音も止んだように思えた。

「……油断した、わね」

 なんだって?

 こっちは口を開くのも億劫なんだ、テレパシーぐらい使ってくれてもいいじゃないか、そう思った。思っていても仕方がないけれど、それからまたしばらくの間、あたりは無音だった。あんまりにも無音なので、そこに仁王立ちしているであろう彼女の御尊顔でも拝んで痛みを紛らわすか、と目線を天から下ろしてきて、そこで初めて、彼女も倒れていたことに気づいた。

「……先……に、当てたのは、あんただろ」

「私はプライドが高いのよ。どっちが先か後かなんて、些事でしかないわ。私は今まであなたを圧倒して勝ってきた。だから今日も圧倒するはずだったわ」

「……傲慢だな」

「ええ。私が油断したとは……いえ、言い訳は謹んでおくわ。あなたは、最後の一撃で私と対等に渡り合った。誇るべきことよ」

クソむかつく。言葉が多すぎる。それで何も言い返さずにいたら、顔に影がかかった。顔を背けた方向に彼女がいた。仰向けに倒れている自分を睥睨していた。

「巨人がよ……」

「身長は平均程度よ。それより」

そう言って彼女は何かを手から落とした。まっすぐ自分の顔に向かってきて、動く気力もないので、それが勢いよく鼻面にぶつかり、金属とプラスチックを鳴らしたような音がほんのわずかな痛みと同時に流れてきたのを感じた。

「約束通り、カートリッジよ。受け取りなさい」

「……勝ってねえよ」

「いいえ、私は負けたわ」

「勝ってねえっつってんだろ……俺にもプライドっつうもんが」

「強情ね。なら、両者負けよ。少なくとも私は負けているのだから」

「屁理屈を……うわっ」

また彼女から何かが落とされて、今度は目のすぐ横の地面にそれがぶつかった。手で探って目の前に持ってくると、それは、

「……何だ?」

「あら、ワインは嗜まれないのね」

「酒なんか……ああ、ワインオープナーか」

そうかよ。

 あほくさい。彼女に向かって投げ返した。彼女はそれをキャッチせず、額にぶつかってまた落ちて、混ぜたのに思った通りの色にならなかった絵の具みたいに飛び跳ねてどこかへ行った。

「ほら、あなたの勝ちよ」

有無を言わさぬ月光の神がそこにはいた。月を遥かに超え、夜空にはきっと天王星があった。

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ロロロモク 山船 @ikabomb

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