第8話
カツン、カツン、と廊下に靴音が響く。
「ここがスタジオだよ。担当マネージャーとは追って顔合わせするから」
そう言ってスタッフさんは僕を振り返った。
「いやぁ、それにしてもまさか君が選ばれるとは思っていなかったよ。待合室で顔真っ青にしながら膝ガクガクさせていたもんね」
「へ、へへ…」
その言葉に愛想笑いをする。そんな僕を気にする事なくスタッフさんは尚も言い募った。
「面接では凄い気迫だったって聞いたよ?『絶対に成し遂げなければいけない事があるんです』って…」
そう。今回の時間軸で僕はBright Futureの面接に通り、ライバー入りを果たした。
何度も何度も何度も履歴書を送りつけ、何回もアタックしてやっと。手間取っているうちに秋になってしまったが、ようやくここまで漕ぎ着けたのだ。
「スタジオの場所は一般に公開されていないから安心して利用してね。あ、Bright Futureの社員以外を連れてきちゃ駄目だよ」
僕はスタッフさんからの注意に頷きながら感慨深く周りを見渡した。
(ここがBright Future…蘭ちゃんがいる場所。ついに来たんだ)
蘭ちゃんと同じ組織に所属してVtuberをやるなんて、過去の自分からしたら衝撃の展開だろう。
「おっ、今日何人か収録しているじゃん」
キョロキョロと周辺を見ていた僕は、スタッフさんの声に目線を上げる。スタッフさんの視線の先にはホワイトボードが掛かっていた。
どのスタジオを誰が使っているか明示するらしきボード。そこには…
「蘭ちゃん…」
その手書きの文字を見た途端、ドクンと心臓が大きく音を立てる。
第3スタジオの枠の中。そこには【白鈴蘭】という名前が記載されていた。
(今、僕と同じ建物内にいる…?蘭ちゃんが…?)
その実感が俄に自分へ迫ってきて、僕は浅く息を繰り返した。
その時、背後でドアの軋む音がした。
「あっ、白鈴さん!」
スタッフさんのその言葉に僕は硬直する。
「こんにちは。お疲れ様です」
知っているようで知らないようなその声。
(いるのか…?蘭ちゃんが…僕の後ろに…?)
耳へ直接心臓を当てられているのかと錯覚するほどの律動が鼓膜を揺らす。
ギシギシと関節が鳴るような感覚を覚えながら僕は後ろを振り返った。
そこに居たのは艶やかな短い黒髪の女性。
『良かった、意識ははっきりしているみたいですね。暑い中でぼんやりしていたから熱中症かもしれないと思って』
僕の脳裏に、真夏の太陽の下でフレーバーウォーターを差し出す彼女の姿がフラッシュバックする。
そんな僕の脳内に気が付く事なく、彼女は何回か瞬きをするとスタッフさんへ向かい口を開いた。
「この間告知があった新しいライバーさんですか?」
そう言って微かに首を傾げる。
「そう、彼が今度入る新人だよ。ササラ君っていう名前でデビューする事になっている」
「そうなんですね」
スタッフさんからの答えに頷いた彼女はその垂れ気味の目を僕へ向けた。
「初めまして。私、2期生ライバーの白鈴蘭って言います。よろしくねササラくん」
彼女の薄紅色の唇が言葉を紡ぐ。艶やかな黒髪が人工光を反射した。
(この人が、蘭ちゃん…?)
目の前に居る人が白鈴蘭であるという実感が持てない。呆然とする僕を前に、彼女は薄く微笑んだ。
「予定外だったけど、新人さんと会えて良かった。…じゃあ私この後やる事があるので。お疲れ様です」
そう言って彼女は踵を返す。
(行ってしまう)
踏み出そうとする彼女の手首を僕は咄嗟に掴む。歩みを止められた彼女は驚いたように振り返った。
「え…?」
僕を見上げる彼女の瞳に戸惑いと僅かな恐怖心が滲むのを見て僕は慌てて手を離した。
「あっ…」
思わず漏れ出た声を飲み込みながら自分の行動を後悔する。黙り込んでしまった僕を見て彼女は困惑の表情を深くした。
「あの…?」
当惑しながらも、僕からの言葉を待つように佇む彼女。僕は焦りながら喋り出した。
「急に掴んでごめんなさい、その…」
頭の中で弁明の言葉を探す。
「よろしくお願いしますって言いたくて。あの、すみません…」
僕は彼女を知っているが、彼女は僕を知らない。彼女にとっては完全なる初対面だ。第一印象で今後の付き合いは大きく変わると言われているが、そんな局面でいきなり手首を掴むという大失態…。
(もう駄目かもしれない)
絶望的な気持ちで立ち尽くす。意気消沈していた僕は、
「…ふふ、あははは!」
正面から聞こえてきた笑い声に顔を上げた。
「ふふふ、そんな、しおれた顔…ふ、ふふ…!あはははは!」
急に笑い出した彼女に、呆気に取られる。
「…怒っていないんですか?」
僕の問いかけに彼女は更に笑みを深める。
「ふふ、怒ってないよ。突然手首を掴まれた時は少し怖かったけど、あんまりにもしおれた顔をするから面白くなっちゃった。笑ってごめんね」
その言葉に僕はぶんぶんと首を横に振る。
「いえ!笑ってくれて嬉しい、ので!ぜんっぜんそんな、ごめんなんて、その…」
「…ふふ」
僕の必死な様子を見て彼女は再度微笑んだ。
「『よろしくお願いしますって言いたくて』、だっけ」
彼女は僕の顔を覗き込む。
(あ、キャラメル…)
そこで初めて僕は彼女の瞳がキャラメルのような温かみのある橙色をしている事に気が付いた。彼女はその目をゆるりと細めると、
「ありがとう。こちらこそよろしくね」
そう言って花が綻ぶような笑みを浮かべた。
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