第31話 新学期

 新学期が始まった。久しぶりに会う学生も、冬休み程度ではそれほど変わらない。


 だけど、若槻暁の都築を見る目はかなり変わった。見る目が変わったというか、見なくなった。ホームルーム中も国語の授業中も、以前はあれほど熱い視線を向けてきたのに、今となっては窓の外を眺めているばかり。


(「これで良かったんだ」)


 あれから暁には1度も会わなかった。都築は月見荘にも行かなかったし、小うさぎ亭にも行かなかった。年末から、暁は休みの間は部活に参加できないと言っていた。家業の方が忙しいからだ。茶道部との部室の共同交互利用期間も終わり、カルタ部が月見荘で部活をすることが無くなってから、暁の参加率は目に見えて落ちていた。しかし、それでも強いのが暁の憎らしいところ。


(「にしても、相当嫌われたものだな」)


 暁の目を覚まさせる。それが真実を告げた目的だ。だから、この結果は都築の望んだ通りになったことになる。あわよくば、以前の関係に戻れたら、なんて期待するのは欲張りというものだろう。


 小うさぎ亭の弁当を味わう。暁とプライベートで会うのが気まずくて、小うさぎ亭にはまたしても行きづらくなってしまった。だから、昼の弁当は貴重な小うさぎ亭摂取源。甘くない卵焼きが、都築にささやかな喜びを感じさせる。突然、名前を呼ばれた。


「都築先生」


 声を掛けてきたのは数学教師の花山だ。2年3組の数学も教えている。教科も違い、それほど接点は無いので、声をかけられて、少し驚く。


「あの、若槻くんのことなんですけど…」


 暁の名前に胸がチクリと傷んだ。箸を置き、向き直ると、花山は言いにくそうに続けた。


「今日の授業中ずーっと、ぼーっとしてて。注意したら、ちゃんとするんですけど、またすぐに集中力切れちゃって。今までそんなこと無かったんですけど。少し、気にかけてあげてください。休み中に何かあったのかも…」


 都築は驚いた。てっきり暁は都築を嫌悪して目を背けているものだとばかり思っていたからだ。他の先生にも暁の様子を聞いてみると、同じような反応が返ってきた。


「休みボケですかね。ま、そのうち治るでしょ」

「いつも船を漕いでるけど、たしかに今日はぼーっとしてるだけだったな」

「心ここにあらずっていうか、失恋でもしたんですかね」


 都築は頭を抱えた。自分にだけそういう態度ならしょうがないが、他の先生に対して、それはまずい。内申点にも響くし、そもそもテストの点数が悪くなる。暁はそんなに頭がいい方じゃないのだから。これはさすがに部活のときに注意しなければ。


(「俺にそんな権利があるか?」)


 誰のせいで暁がこうなってしまったのか、原因は分かりきっていた。その原因の張本人に「しっかりしろ」なんて言う権利があるだろうか。


 そもそも、暁がそんなに引きずるとは思っていなかった。あれから、ゆうに1週間は経っている。

 たしかに「失恋」の一種ではあるかもしれない。

 前世で愛した女は性悪で、あの男は裏切られていた。暁はそれを知り、愛情を失ったはずだ。そして、かぐや姫への愛情とともに都築へのそれも消える。暁は何も悪くない。ただ騙されていただけで、怒りこそすれ、心を傷める必要は全くないのだ。


 どうしたら良いか判断がつかないまま、部室の前まで来てしまった。うだうだ考えても仕方ない。都築は勢いよく戸を引いた。中にいたのは5名。古松、小倉、山里、天野、そして鹿音……鹿音?!


 鹿音は都築を見るなり、スマホ片手にずいずいと都築に迫ってきた。彼女には人を萎縮させる圧がある。今日のは気のせいでもなくなんでもなく、本物の圧だ。そのまま目の前に画面を押し付けられた。


「これ、どういうことですか?」


 それは、暁から部員みんなに送られたものだった。


 ―しばらく休みます―


 しばらくとはどのくらいだろうか。1日、1週間、1ヶ月、いや1年…。


 気がつけば、都築は身を翻していた。


「ごめん、今日はみんなだけでやってて。俺は、若槻くんに会いにいく!」


 鹿音の声が背中に刺さる。


「先生、廊下は走らない!」

「すみません!」


 都築は競歩で先を急いだ。


 ♢


 月見荘に着く頃には、都築は汗だくになっていた。暁は探しても探しても見つからない。いつもならすぐに見つかるのに。なんなら向こうから見つけてくるのに。縁がこれほど儚いものとは。1度切れてしまえば、再び手繰り寄せるのはこうも難しい。都築は逸る胸を抑え、小うさぎ亭の暖簾をくぐった。


「あら、かぐや先生お久しぶりです。お忙しかったのね」


 笑顔で出迎えた女将に、都築は今にも縋り付きそうになった。


「暁…若槻くんは…!?」


 女将は一瞬、不思議そうに首を傾げたが、すぐに合点し、困ったように上を指差した。


「あの子ったら、帰ってきた瞬間、体調悪いって寝ちゃって。最近ちょっと調子も良くなかったんです。そのうえ、久しぶりの学校で知恵熱でも出たんでしょう」

「若槻くんの部屋、入っても良いですか?」


 女将は少し困惑していた。無理もない。


「良いですけど…できれば寝かせてあげてくださると―」

「分かりました!」


 都築はカウンターの中にずかずか入っていった。ここに入るのは初めてだった。当然だ。都築は小うさぎ亭の従業員ではない。この奥は、若槻家の自宅になっていた。2階に続く階段を見つけ、音をたてず、でも急ぎ足で上がっていく。


 暁の部屋はすぐに見つかった。開け放たれたドアの向こう、ベッドの上で暁は寝息を立てている。


 都築はそっとそばへ寄った。暁の額には汗が浮いていた。都築はポケットをまさぐった。出てきたハンカチを濡らしてきて、硬く絞って拭いてやった。暁の眉間のシワが少し緩む。


 暁はうなされていた。悪い夢でも見ているのだろう。それも、とびきり悪い夢。都築でさえも慟哭するあの夢。殺される側から見る夢の恐ろしさはいかばかりか。想像するだけで臓腑を抉られるような気持ちになり、胃の腑から吐き気がこみ上げてくる。


 暁の手はベッドから投げ出されていた。都築はベッドの横に跪き、そっと手を取って握りしめた。暁の指先は驚くほど冷たかった。両手で包み込み、必死に温める。


「暁。ごめん。やっぱり、どうしても愛してるんだ」


 都築の涙がシーツに染みを作った。暁の指がぴくぴくと痙攣する。都築は腕で涙を拭った。泣きたいのは暁の方だ。自分が泣いてどうする。


「大丈夫だ。おまえは何も悪くない。怒ればいい。そして、俺をぶん殴れ。少しはすっきりするさ」


 暁の骨張った手の甲を撫でる。暁の手のひらは体温を取り戻し始めていた。青ざめていた顔にも血の気が戻っている。寝息も落ち着いてきた。


 部屋の電気はついていなかった。夕焼け空はいつしか紫みを増し、白い月光が窓の外から部屋を照らしている。大きな大きな白い満月。


 暁の眉間にシワが寄り、眩しそうに顔を背けた。まぶたがゆっくりと開かれていく。色素の薄い茶色の瞳から一筋の涙が溢れた。都築はその美しさに見惚れていた。暁の手を握ったままだったことに気が付き、手を離そうとしたが遅かった。暁が握り返してきたのだ。その握り方が、力強いのに優しくて、都築の目に熱い涙が込み上げてくる。


「かぐやちゃん、オレ夢を見たよ」

「うん…」

「あの日から毎日。夢を見たんだよ」

「…」


 毎日。自分の前世が殺される夢を、毎日。体の痛みはもちろんない。では、心はどうか。それまでの夢が幸せであればあるほど、心は深く傷ついていく。ようやく傷みを感じなくなった時、それは心が壊れた時だ。


 暁がゆっくりと身体を起こした。


「かぐや姫は前世のオレを殺した。でもね、殺させたのは前世のオレだったんだ」

「何を言っている」


 暁は本当にあの夢を見たのだろうか。間違いなくかぐや姫が男を刺していた。刺した瞬間の感触などありはしない。しかし、あの夢を見た日からプツッと皮膚を裂くイメージが頭からこびりついて離れない。体を引こうとして、暁に腕を掴まれた。


「かぐやちゃん、思い出して」

「思い出したくない…!」


 思い出そうとしなくてもふとした瞬間に思い出す。思い出したくなどないのに。背中を冷や汗が伝って気持ち悪い。暁の腕を握る力が強くなる。


「だめだ、ちゃんと思い出さなきゃ!」

「嫌だっ…!」


 なんとか暁の手を振り払った。だめだ。頭がぐちゃぐちゃだ。一旦戻ろうと立ち上がりかけた時、暁の腕が伸びてきて、後ろからきつく抱きしめられた。その体温の懐かしさに思わず声が漏れる。耳元で暁の優しい声が響いた。


「大丈夫。大丈夫だから。オレがそばにいるから。目を閉じて…思い出して。あの夢のこと」

「…うん…」


 目を閉じるとすぐにあの悪夢の光景が呼び起こされた。息をするのも苦しくなる。暁が「大丈夫、大丈夫」とあやすように囁いた。少しだけ呼吸が楽になる。


「あの日、かぐや姫は何を着ていた?」

「何って」


 どうしてそんなことを聞くのだろう。十二単以外着ていたことはない。いつもの対い蝶模様の唐衣。


「オレンジ掛かった赤色の…」

「他には?」

「他に?」

「そう、他に。よく思い出して」


 かぐや姫の赤い唐衣。男の青い狩衣。光り輝く銀の砂。それらは全て血で赤黒く染まっていった。震えだした手を、暁が握りしめてくれた。


「あったはずだよ」

「…何…が」

「羽衣」

「…羽衣?」


 天の羽衣のことだろうか。暁の都築を抱く力が強まった。違う。暁も震えていた。都築は身を捩り、暁を正面から見据えた。月光を背負う暁の目に、大粒の涙が留まっている。


「オレも、さっきようやく気がついたんだ」


 暁が口を開くと同時に、表面張力が決壊し、涙が頬を伝った。


「かぐやちゃん、思い出して。あの時、かぐや姫は天の羽衣を着ていたはずだ。そして、それを着せたのは前世のオレだ。かぐや姫の罪を軽くするために」


 赤い袴と唐衣。二藍の表着。白の裳に色とりどりの打衣、袿。肩から伸びる…これは――


「あっ」


 都築はたしかに夢の中でそれを見ていた。ひらひらとした羽衣が視界の端で揺れていた。天の羽衣は身につけた者の感情を奪う。だから、翁や嫗、帝との別れも、たちまちに悲しくなくなったのだ。


 それをかぐや姫は身につけていた―


 見上げた先で、涙に濡れた暁の顔がこくりと頷く。


「天の羽衣を着せて、男は自分に刃を向けさせた。そうしないと、かぐや姫は月の裏切り者になってしまうから。そうして、自分を殺させることで、かぐや姫の謀反をなかったことにしようとしたんだ」


 ◆◆


 男と女が二人、並んでそらを眺めていた。二人の後ろには銀の道。光り輝く銀色の砂が、引き摺ってきた着物の跡を、何里にも渡って残している。


 二人はどのくらい宙を眺めていただろうか。この時間が永遠に続けばいい。その願いは、遠くから聞こえてきた喧騒によって打ち砕かれた。


 男はため息をついた。その喧騒は、次第に、確実に二人の元へと近づいてきている。


 錠の下りた塗籠に隠すことも、弓矢で射ることも、すべて無駄なのだ。


 男は女を胸に抱き寄せ、黒く美しい髪を、慈しみながら手櫛を通した。


「かぐや姫、愛している」

「…」


 男の言葉に返事は無かった。男はとても安堵した。


「天の羽衣の効果は本当だったか」


 かぐや姫の虚ろな瞳は何も映していなかった。あまりにも無機質で、まるでただの人形のようだ。男はかぐや姫に自分の得物を持たせた。


 二人で月から逃げる。そんなこと土台無理な話だった。全ては、つかの間の、夢。


 月の兵たちの行軍の音が近づいてくる。


「おまえは何も悪くない。どうか生きてくれ」


 男はかぐや姫を強く抱き寄せた。痛みは感じなかった。


 ◆◆



「俺は…かぐや姫は、ちゃんと最後まで…愛していた…?」

「そうだよ」


 かぐや姫は男を裏切っていなかった。最後まで男を愛し抜いていた。その事実に、涙が次から次へと溢れてくる。


 月から地球へ、遥かなる時を隔て、今、万年氷がゆっくりと解かされていく。暁が都築を抱き寄せた。抱きしめ返すと、それに応えるように、またきつく抱きしめ返してくれる。氷はどんどん解けてゆく。


「オレたち、どうしようもなく好き同士だったんだね」


 暁が耳元で囁いた。くすぐったくて堪らない。月が2人を祝福するように、部屋を光で満たしていく。都築は泣き笑った。


「うん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る