第29話 年末年始

 年末年始の月見荘には、都築の他に、都築と同じ年頃の女性2人組、小学生くらいの子どもを連れた4人家族、そして吉良キララとメイドの石榴がいた。


 暁が言っていたように、暁と二人っきりになる時間なんてそうそうなかった。暁は女将のサポートに大わらわ。右に行ったり、左に行ったり、師走ならぬ生徒走…なんて考えが一瞬過ぎったものの、「師」とは師僧のことだから、ちょっと違うな、と1人でボケて、1人でツッコむ。


 都築は、温泉に入ったり、家族連れの父親に通好みな地酒を教えたり、女性2人組とキララと―監視の石榴と―人生ゲームをしたり、2人組の1人が都築に気がありそうだったのでやんわり躱したり、もう1人は暁に気がありそうだったので「彼は高校生ですよ」と教えてあげたり、なんだかんだで、年末を賑やかに楽しく過ごしていた。


(「こんなに賑やかな年末はいつぶりだろう」)


 大学で1人暮らしを始めてから、年越しはいつも1人だった。慣れればなんてことはない。いつもとテレビの内容が違ったり、お店が早くに閉まったりするくらいで、日常と何ら変わりはない。いつもどおり寝て、起きれば、翌日は新年。スマホには数少ない親しい人から連絡がくることもある。それが、都築にとって恒例の年越しの姿である。


 都築は、談話室にいた人々に「良いお年を」と声を掛けて、自室に戻ってきた。布団乾燥機で暖められた掛け布団がふっくら膨らんで、顔を埋めたらさぞ気持ちよさそうだ。


 あと1時間も経たないうちに新年が始まる。いつもならすでに寝ていることが多い時間帯だ。歯を磨こうと腰を上げたとき、都築の名前を控えめに呼ぶ声がした。


「かぐやちゃん、戻ってる?」


 部屋の外、廊下から暁の呼びかけが聞こえてきた。鍵を外し、隙間から顔を出すと、お盆を抱えた暁が立っていた。暁がニコッと笑いかけてくる。


「みんなのところにいないから持ってきたよ。はい、年越しそば」


 差し出されたお盆には、湯気立ち昇る蕎麦が1杯、2杯。


「2杯は食べられませんけど」

「それはもちろん、オレの分!」


 暁は断りもなく、部屋にずかずか上がり込んできた。蕎麦を座卓に並べ、敷いた座布団をぽんぽん叩きながら都築を促してくる。


「ほら、早く食べよ。あったかいうちに」

「…うん」


 都築は大人しく従った。指示された座布団に正座すると、「はい」と箸を渡された。暁の本日の業務は終了したらしい。石鹸の清潔感溢れる匂いが、衣擦れに合わせてふうわりと香ってくる。


「そうそう」


 暁は何かを思い出したように浴衣の袂に腕をいれ、みかんと七味を取り出した。


「七味で良かった? あと、食後のデザートも」


 都築は蕎麦をズルっと啜った。都築の地元では馴染みのない甘い出汁。蕎麦に限らず、この地域では醤油も甘い。始めこそ、舌が違和感を訴えていたが、今はもうこの甘みがないと物足りない。


 都築は蕎麦を味わった。かまぼこ、ネギ、天かすに、特産の柑橘類を使った橘皮が載っただけのシンプルな蕎麦。夕食もたらふく食べたはずなのに、するすると喉を通って胃の中に入っていく。


 暁が勝手にテレビをつけた。まるで自分の家かのように寛いでいる―いや、月見荘は暁の家なので間違いではないのだが。年末特番を、見るともなく見ながら、暁も蕎麦を黙々と啜っていた。


 都築は暁を観察する。


 箸を持つ手は意外と大きく、ゴツゴツと骨ばっていて男らしい。その無骨さとは打って変わって、箸の持ち方は洗練されていて、女将が厳しく躾けたのだろうなとその過程を想像して微笑ましく思う。豪快な食べっぷりなのに、所作が美しい。いつまで見ても見飽きない。そう思ってしまう。そして、伏せられた睫毛から覗く色素の薄い瞳。これが、たまらなく、愛おしい。


(「来年もこうして…」)


 込み上げてきた淡い希望に胸が苦しくなった。みかんの皮を剥く手が止まる。すると、白い筋まできれいに取り除かれたみかんが、目の前にスッと出された。


「きれいに剥けたから交換」


 都築のみかんは暁に分捕られてしまった。手が触れ合った一瞬で、都築の指先の感覚が鋭さを増す。


「蕎麦、美味しかったでしょ?」


 暁は得意気だ。白い筋がついたまま、みかんを半分に割り、口に放っている。都築は素直に頷いた。


「シメのラーメンを食べる人の気持ちが少し分かった。シメの蕎麦もなかなか良いな」


 それを聞いた瞬間、暁は「かぐやちゃん…」と項垂れた。何か変なことを言っただろうか。狼狽えていると、暁が可笑しそうに苦笑いしている。


「あのねぇ、そんな風情のないこと言わないでよ。年越し蕎麦は「来年もソバに居られますように」って意味もある縁起物なの。飲んだくれのためにあるわけじゃないの」

「今日は飲んでない」


 今日どころか当分飲むつもりはない。特に、暁の前では。小うさぎ亭に来たときだってノンアルコールビールで我慢している。恨みがましく暁を睨みつけながら、心の中では暁の言葉がリフレインしている。


 ―来年もソバに居られますように―


 人をからかって楽しそうに笑っていた暁が、ふとテレビに視線をやった。笑うのをやめ、真面目な顔して、都築の前に正座した。急に何だ?と思ったが、都築もすぐに意図が分かり、きちんと座り直した。暁が三つ指ついて、頭を下げる。


「今年は大変お世話になりました」

「こちらこそ、大変お世話になりました」


 テレビからカウントダウンの声が聞こえてくる。2人は見つめあい、その瞬間を待っていた。やがて、弾けんばかりの歓声が、待ちに待ったその瞬間に喜びを告げた。


「あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします」


 再び頭を下げる暁に、都築はなんと返せばいいか分からなかった。テレビの中の人々は、跳ね合い、抱き合い、早くも新年を謳歌している。


「…うん。よろしく…」


 都築には、そう言うのがやっとだった。


 ◇


 元旦の空は、見事なまでの日本晴れだった。


 いつもより少し早く起きた都築は、半纏を着込み、口から白い息を吐きながら、月見荘の周りを散策した。基本的には夜しか寄らない月見荘と小うさぎ亭。同じ景色のはずなのに、朝に見るとまた雰囲気が違って見える。


 水栓柱の下に張った薄い氷、家庭菜園の地面を押し上げる霜柱、見晴るかす連山の清々しさ。

 どれも、今まで気が付かなかった、この街の景色。


 そろそろ旅館に戻ろうと、曲がった角で、危うく人とぶつかりそうになった。女将だ。申し訳無さそうに頭を下げた女将は、都築に気がつくと、穏やかな笑みを浮かべ、新年の挨拶を交わした。


「かぐや先生、それにしても、お早いのね」

「女将こそ…」


 女将の手には見覚えのある巾着が握られていた。お盆に、暁と墓参りに行った時、持たされた花柄の巾着袋。女将は都築の視線に気が付くと、顔の横で巾着を振ってみせた。


「毎朝の習慣なんです。花を持っていって、墓を掃除して、手を合わせて、そして、話しかける」


 女将の笑顔は儚く、美しかった。


 2人は月見荘まで並んで帰った。女将が突然切り出した。


「先生、最近、暁に好きな人ができたみたいなんですけど、ご存知?」


 都築は飛び上がった。挙動不審な都築に、女将の不思議そうな視線が注がれる。都築の背中に冷や汗が伝った。できるだけ平静を装って答えたつもりだ。


「へぇ〜。さぁ、知りませんねぇ〜」

「じゃあ、クラスの子じゃないってことかしら。カルタ部の子でもなさそうね…」


 女将はどうやらカマをかけている訳ではなさそうだ。


「若槻くんが、その…好きな人がいるって言ったんですか?」


 都築の問いに、女将は楽しそうに手をブンブン振った。


「まさか。女の勘ってやつですよ。最近、あの子ずっと浮かれてて、分かりやすいったらありゃしない…でも、なんだか、良かったわぁって思ってね」


 そう言って、微笑む女将の横顔はとても優しい。自分の子どもが幸せそうなのを、心の底から喜べる親なのだ、この人は。裏を返せば、子どもの不幸は自分の不幸。暁を傷つけることは、女将をも傷つけることになる。


「例えば、」


 都築は、そこまで言って唾を飲み込んだ。ん?と見上げてくる穏やかな女将の顔を見て、やっぱり無理だと首を振った。本当に聞きたかったことは胸の内に秘め、都築は力なく笑った。


「例えば、吉良さん…キララさんと若槻くん。すごくお似合いだって、学校でも噂になってますよ」


 これは本当だった。学校でも、どこでも、2人の距離の近さは異常だった。特に、キララから暁への懐き具合が尋常じゃない。2人は付き合っているとという噂が、まことしやかに流れるのも無理はなかった。おかげで、暁を狙う女子が今までよりずっと少なくなったほどだ。


 しかし、当の2人に、全くその気が無いことは、都築が一番良く分かっている。あれはただ、キララが暁にじゃれているだけなのだ。


 だけど―


 ―月日が経って、2人がもっと大人になれば、あるいは―


 女将の弾けるような笑い声に、都築は我に返った。


「キララちゃんが暁の彼女に? だったら、すごく嬉しいわ!」


 女将の無邪気な笑顔が、都築の胸を鋭く抉った。だから、都築も笑った。本当は、笑いたくもないのに、笑えないのに、笑った。自分でもつくづく思う。なんて筋金入りの天の邪鬼なのだと。


「2人とも、みんなから愛される素質を持っていて、結構似たもの同士かもしれません。2人なら幸せになれそうだ」


 女将は、ふふっ、と笑った。そして、巾着袋を胸にそっと抱き寄せた。


「でもね、本当は、正直誰でも良いんです。暁が好きな人ならば」

「…誰でも」


 その言葉に足が止まる。女将が不思議そうに振り返った。都築はすぐに女将に追いついた。都築は地面を見ながら、恐る恐る言葉を紡いだ。


「若槻くんが好きな人なら誰でも?」

「ええ」

「若槻くんを幸せにしてくれる人ではなく?」


 女将はすぐに口を開きかけたが、少し考えるようにして、都築にニコっと笑いかけた。


「私、こう見えて結構モテるんですよ」

「はぁ…?」


 やぶから棒にどうしたのだ。急な話の転回に頭がついていかない。肯定も否定もしにくい話題に「はぁ…?」としか言えなかった。そんな都築に女将は構う様子はない。


「学生時代はもちろんすごくモテました。主人と結婚してからは、少し減りましたけど、それでもモテました。そして、主人が亡くなってから、私史上最大のモテ期がやってきたんです」

「おぉ…?」


 これは、褒めるべきなのだろうか。それとも、ツッコミ待ちなのだろうか。女将の掴みにくいテンションが都築の決断を鈍らせる。下手に口を挟めない。


「舅も姑も、まだ若いんだから再婚しろって、旅館のことは忘れていいからって、そう言ってくれたんですけどね…」


 そう言って、女将は、雪の冠を頂いた青い連山のパノラマを遠く見つめていた。まるで、手の届かないところにいる誰かを想っているかのよう。


「私、ダメなんです。あの人じゃないと。どうしてもダメなの。好きな人とじゃないと、幸せになれない。だから…一緒なんです」


 好きな人=幸せにしてくれる人。女将はそう言っている。


「それでね、あの子って私にそっくりなんです」


 そう言って、お茶目に笑う女将の目元は、たしかに暁にそっくりで。


「見た目だけじゃなく、中身も。頑固で、猪突猛進で、一途で――」


 2人は旅館に戻ってきた。女将が都築のために、戸を引いてくれる。


「だから、暁が好きな人なら誰でもいい。というより、それ以外の選択肢はないんです」


 都築は覚悟を決めた。

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