第27話 酔いどれ

「ちょっと飲みすぎたね」


 暁の声が聞こえて瞳を開ければ、心配そうな顔が覗きこんでいた。背中には畳の感触がある。どうやら部屋に戻ってきているらしい。篠原と店で別れた瞬間から、ここまでの記憶が都築にはないのだが。


 都築は、旅館の座布団を枕に寝かされていた。脇には飲みかけのペットボトルが置かれている。


「水、まだまだあるからね」


 暁がビニール袋からペットボトルを取り出し、振って見せる。ゆっくり身体を起こすと、頭がぐわんぐわん揺れた。篠原のペースに合わせて飲みすぎた。商社務めのキャパシティを完全に見誤っていた。


 飲みかけの水に手を伸ばすと、暁が蓋を開けてくれた。それを受け取り、一気に水を飲み干す。こういうときにつくづく思う。暁は周りをよく見ている。小うさぎ亭での経験がそうさせるのか。かゆいところに手が届く。押し付けがましくなく、さり気ないのが、またたまらなく、良い。


「んふふ」


 思わず漏れた笑いに、暁が不思議そうに微笑んだ。


「どうしたの? 笑っちゃって」

「何でもなーい♪」

「そ?」


 首を傾げる暁の笑顔が優しい。暁は都築の手から空のペットボトルを取り上げ、新しい水をそばに置いてくれた。そういうところだ。


 暁がゆっくり立ち上がった。手には浴衣とタオルを持っている。


「じゃあオレ、温泉行ってくるね」

「俺も!」


 そう。この旅館には温泉があるのだ。都築が当てたのは「温泉旅行ペア宿泊券」。温泉旅行でペアで宿泊券なのだ。


 都築は暁に両手を伸ばした。「起こして」なのか「抱っこして」なのか、自分でも分からない。とにかく頭がふわふわしている。


 暁は、胸を抑えてそっぽを向いた。なんだか少しムスッとしているようにも見える。


「かぐやちゃんは明日にしなよ…かなり酔ってるみたいだから」

「えー! 温泉入りたーい」

「ダメ」

「実は…そんなに酔ってなーい!」

「酔ってるよ!! こんなに甘えたなかぐやちゃん初めて見たよ!!」

「?! そっちこそ酔ってるな? 顔真っ赤だぞ」


 暁にそう指摘すると、顔どころが耳まで真っ赤になっていた。烏龍茶とかコーラとかしか飲んでいないはずだが…おやおや?


「酔ってるわけないじゃん! 誰のせいだよ、もう…水飲んで寝てなさい!」


 暁は捨て台詞を吐いて部屋を出ていった。一人残された都築は、寝転がり、座布団に顔を伏せた。ひんやりした座布団の感触が熱を帯びた頬に心地よい。それに、横になっている方が、やっぱり楽だ。


 思い返せば、今日一日、暁とずっと一緒だった。ドライブから始まった今日という日。途中で篠原が乱入したが、それでも―ほとんどずっと暁と一緒だったのだ。


「暁…早く帰ってこい…」


 座布団の房を弄んでいるうちに、都築は再び眠りについた。


 ♢


「かぐやちゃん、かぐやちゃん」

「ん…?」


 暁の声に目が覚める。目を擦りながら体を起こすと、肩からブランケットがずり落ちた。どうやら暁が掛けてくれたらしい。浴衣に半纏姿の暁が、2つ並んだ布団を指差していた。


「オレもう寝るね。かぐやちゃんも布団で寝な」


 ほら、と浴衣を差し出され、都築は黙ってコクリと頷いた。少しは酔いが覚めたとはいえ、頭はまだくらくらしているし、目を瞑れば即落ちしそう。ボタンを外し、ベルトを外し、靴下を引っ張って、それから、次はどうするんだっけ。


「ちょっ、脱いだら着て! ほら、水も飲む」


 都築が水を飲んでる間に、暁が浴衣を着せてくれた。さすがは旅館の息子である。腰帯の結び方まで手際よい。


「ありがとう」


 嬉しくて素直にそう伝えると、暁はポリポリ頭を掻いて背を向けた。


「どういたしまして。なんか調子狂うな…」


 ぽやぽやした頭のまま、時計を見ると0時前。0時前。思わず悲鳴を上げた。一瞬にして酔いが覚める。


「もうこんな時間?! 明日…明日、何時集合だ?」


 ボストンバッグの整理をしている暁の背中に問いかける。暁は手を止めることなく返事を寄越した。


「8時から受付。朝は6時半から食べられるって。ここを7時半に出ればちょうどかな」


 都築なんかよりよっぽどしっかりしている。予定を確認して安心したら、また眠たくなってきた。布団目掛けて膝から崩れ落ちる。


「りょーかい…もう寝る…寝よう」


 そう言って、都築が目を閉じ、枕にダイブする直前。


「かぐやちゃん。メリークリスマス」


 暁に小さな包みを手渡された。片手にちょんと載るその包みは赤と緑のクリスマスカラーで、ゴールドのリボンが花のようにアレンジされている。


 暁は隣の布団に入り、照明のリモコンに手を伸ばした。


「じゃ、おやすみ」

「待て待て。何だこれ」


 都築が聞くと、暁は枕に顔を埋め、そっぽを向いた。そのせいで顔は見えないが、耳が赤くなっているのは丸見えだった。


「今日、クリスマスイブだから、プレゼント」


 いつの間にそんなものを用意していたのだろう。暁が店員に「プレゼントで」と言っている光景を想像したら、自然と笑みがこぼれた。


「開けていいか」

「良いけど、何が良いか分かんなくて…」


 いつになく自信なさげ。こんな暁は珍しい。都築は覚束ない手で、封をしてあるシールを剥がした。包装紙を破らないように、慎重に。


 暁が寝返りを打ち、布団の隙間からこちらの様子を窺っている。それに気が付かないふりをして、緩衝材のプチプチを剥がしていったら、手の中にコロンとひんやりした何かが転がりこんできた。


「これ…」


 都築はそれをつまんでかざしてみる。暁が枕の端を握りしめた。


「自分でもクリスマスプレゼントにそれはないだろって分かってるんだよ。でも、何が良いかほんとに分かんなくて。聞いても教えてくれないだろうし」

「…なんでこれ?」


 見下ろすと、今にも泣きそうな暁と目が合う。暁は目をそらした。


「だからぁ、分かんなかったの! ほんとは何日も前から考えてたんだよ? でも、全然決められなくて。結局、今日になっちゃった」


「…もう寝よう」と暁は再び照明のリモコンに手を伸ばした。「そうだな」と都築は応えるはずだった。もしくは「ありがとう」それだけで良かったはずだった。


 だけど、口をついて出たのは全く別の言葉で。


「ユカさん」


 その名前に暁の手がピクッと止まった。都築は胸が苦しくなった。吐き出さずにはいられなかった。


「ユカさんは、クリスマスにブランド物の財布をくれた」

「…ごめんって…返品でいいよ」


 暁の手が都築の方へ伸びてくる。都築は暁からのプレゼントを手の中に隠し、身をよじった。


「返さない!」


 それはうさぎの箸置きだった。土産物屋でなんとはなしに都築が見ていた箸置き。暁が店内を物色する間、暇を持て余して、ただ見ていただけの箸置き。だから、一瞬たりとも欲しいなんて思った瞬間はない。


 だけど――

 胸の奥が熱を帯び、熱い涙が涙腺を上がってくる。


「ブランド物の財布より、こっちの方が何倍も嬉しい…」

「へ…?」

「俺は最低だ…」


 ユカさんのことは好きだった。彼女はココアが好きだった。猫舌なのに、短気だから、いつも舌を火傷していた。彼女はミステリーが好きだった。好きなくせに、いつも犯人にたどり着けない。都築の方がよっぽど勘が良かった。好きな花、好きな歌、好きな香り、彼女のことなら何でも知っていた。ユカさんのことは本当に好きだった。


 だけど、都築は知っていた。都築の心は知っていた。都築はもっと好きになれる。もっと人を好きになれる。これ以上の愛を与えられる。本来は。


 どうしてユカさんじゃだめなのだろう。考えれば考えるほど、彼女に失礼な気がして、罪悪感だけが募っていった。別れてからは、もう誰のことも好きにならないとさえ思っていた。そう思っていたのに。


 暁が身体を起こした。


「かぐやちゃん、それって、オレのこと…」


 そうやって、切なげに見つめられると、体の奥がじんじんする。堪えきれなくなった涙が溢れた。感情の行き場を求めるように、手の中のうさぎに優しくキスをした。


「かぐやちゃん…!」


 気づいたら暁の腕の中にいた。電気は消えている。暁がこちらに踏み出すとき、手か足が電源を押したらしい。暗闇の中、身じろぎしたが、きつく抱きとめられ、身動きできない。


「やめてくれ…」


 そう言ってはみたものの、説得力はないだろう。拒絶したいならもっと抵抗すれば良いだけのこと。だけど、このままこうしていたい。その気持ちのほうが勝っているから、なされるがまま抱きしめられているのだ。


 ふと背中に回された腕の力が緩んだ。暁の体温が離れていく。「行くな」の代わりに、裾を掴んだ。暁の熱い手のひらが都築の頬を撫でる。長く骨ばった指が唇の際を縁取った。思わず溢れた吐息に、暁がふっと笑う声がした。


「かぐやちゃん、愛してる」


 最初は触れるだけのキス。感触を、存在を、確かめ合うように何度か軽く唇を重ねていく。重ねる度に、胸が締め付けられ、心臓が爆発しそうになる。呼吸するとはこんなに苦しいものだったか。息をするたび身体が上下する。


 突然、押し倒された。都築は後ろ手をついてなんとか耐えた。膝を割られ、その隙間に暁が入り込んでくる。拒絶する間もなく、粗い息遣いが都築の耳を熱く湿らせた。


「オレ、男同士のやり方も調べたよ」


 腰に回された大きな手に、身体が勝手に跳ね上がりそうになる。


 都築は照明のリモコンを手探りした。暗闇が悪いのだ。暗闇のせいで理性がぶっ飛んでいるのだ。苦しそうな暁の吐息に、身体がうずき、頭が朦朧とする。酒だ。酒が悪いのだ。完全に飲みすぎた。


 こんなこと、許されない―


「若槻くん、だめだ」


 ようやく絞り出した声に、暁の力が緩むのが分かった。だめだ、だめだ。都築は暁を押し戻そうとした。そして、暁に腕を掴まれた。


「かぐやちゃんも、オレのこと好きなんだよね?」


 唇を噛み締め、頭を振る。掴まれた腕を離してもらおうと必死にもがいたが、きつく握り返されるだけ。


「かぐやちゃん…!」


 そんなに切なげに名前を呼ばれると堪らない。応えたい気持ちと理性の間で気が狂いそうだ。都築は暁の腕に爪を立てた。


「いたっ」


 その隙に腕を振りほどく。


「だめだっ!」


 都築は叫んだ。ぼたぼたと音がしそうなほどの大粒の涙が次から次に溢れてくる。1度泣き出したらもう止まらなかった。嗚咽混じりに、ぐちゃぐちゃに、息をするのも絶え絶えに、感情を吐露する。


「おまえは大切だから…だから…だめだ…だめなんだ!」

「かぐやちゃん…」


 暁が近づいてくる気配がした。泣きながらも後退ろうとすると、


「大丈夫。何もしない。約束する」


 と、穏やかな声で宥められた。体を引き寄せられ、しゃくりあげる背中を優しく擦られる。


「大丈夫、大丈夫――」


 まるで泣きじゃくる子どもをあやすように、とんとん背中を叩かれる。穏やかな声、暖かな体温、落ち着く匂い。次第に眠気が襲ってきて、呼吸が安定、暁の胸へ体が重たく沈んでいく。


 都築は久しぶりに夢を見た。それはまだ、幸せだった頃の2人―とおまけに1匹―の夢だ。



 そして、次の日の朝、都築は目が覚めるなり、暁に土下座した。いっそ記憶がなくなっていれば、どれだけ良かっただろう。だけど、昨夜の記憶はしっかり残っていた。それはもう全部。おでこが擦り切れるほど、土下座して、土下座しまくった。


 ちなみに、暁は広縁に布団を敷いて寝ていた。

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