第22話 お月見2

 月を見るのは好きじゃない。幼い頃、夜道を歩けば見張るようにどこまでもついてくる月が、都築は空恐ろしかった。走っても走っても自分の息が上がるばかり。決して月からは逃れられない。


 これは、月と地球の距離があまりにも遠いために起こる目の錯覚である。同じ年頃の誰よりも早くその知識を得たのは、月がそれほど怖かったからにほかならない。


 だけど、理屈では分かっていても怖いものは怖い。

 スーパームーンも、赤く染まったように見える月も、すべてきちんと説明のつく現象なのだと頭では理解していても、まるで月に意思があるようにしか思えなくて、どうしても薄気味悪い。


 だから、月を見るのは昔から好きじゃなかった。


「露天風呂、初めてだ」


 なんとはなしに呟いた都築のそばで、風呂桶が転げる音がした。後片付けをしていた暁が取りこぼしたらしい。


「うそ…!? うちの一番おすすめなんだけど」


 呆れたように驚く暁の声が聞こえてくる。それもそうだろう。でなきゃわざわざ「月見荘」なんて名前にするはずがない。


 露天風呂のそこかしこに活けられたすすきが風情を醸し出している。この季節に合わせて、女将がせっせと準備したに違いない。揺れるすすきに、肌寒くなってきた秋の夜風に、温泉の熱さがちょうどよかった。今まで内湯だけで済ませてきたのが、今更ながらもったいないと思えてくる。


「若槻くんは入らないのか?」


 都築は、集めた風呂桶を小脇に抱えながら、岩に腰掛け、満月を眺める暁を振り返った。暁の方から誘っておきながら、自分はTシャツ姿で全く風呂に入りそうにない。暁は満月から都築に視線を落とすと、ニコッと笑いかけてきた。


「お客さんがいる間は入らないよ。みんな帰ってからゆっくり入る。この温泉独り占め。これがオレの仕事終わりの贅沢」


 それなら都築を誘わなければ良かっただろうに。そんなことを考えながら、都築は顔を洗って頭を振った。都築を誘わなければそれだけ早く仕事が終わっただろうに。


「若槻くんって意外とがんこだよね」

「あー…そうかも」


 湯面を両手で叩くと、浮かぶ月影がぐにゃりと歪んだ。月を見るのは好きじゃない。この位で丁度良い。ざまあみろだ。なんてことを思っていたら、暁のつま先が暇を持て余すように、視界の端で揺れた。


「この時期って天気が悪いから、毎年「お月見」の日ってほとんど晴れないんだ」

「そうなんだ」

「本当にラッキーなんだよ。だから、どうしてもかぐやちゃんに見せたかった。ていうか…一緒に見たかった」

「…そんなのばっかりだな」


 たしか、文化祭の時にもそんなことを言っていた。暁の困ったような笑い声が夜空に響く。


「そんなのばっかりだよ! 面白いテレビ見たら教えてあげなきゃってなるし、美味しいお菓子があれば食べさせてあげたいって思うし、きれいな景色を見たら、ここにかぐやちゃんが居ればなって思うよ」


(「そんな、どストレートに…」)


 都築は冷えた縁石の上に腕を組み、そっと顔を載せた。おかげで月は見えなくなったが、光が皓皓と背中に降り注いでいる。そう感じるほどに今宵の月光は明るい。


「かぐやちゃんはさ…そういうことない? 別に…オレにじゃなくてもさ、誰かにこれ教えたいとか、見せたいとか、一緒に何かしたいとか、さ」


 目の端で暁の足がぶんぶん揺れている。都築が体を起こすと、暁の足がビクッとして止まった。暁の腰掛ける岩には苔が生えていた。特に変わったところもない緑の苔。きっと明日にはここに苔が生えていたことも忘れてしまうだろう。月光を浴びた何の変哲もないその苔が、今は不思議と無性に愛おしくて、思わず感嘆する。


「俺は…怖いかな」

「怖い?」


 不思議そうな暁の声に、都築は苦笑いした。暁ならきっとそう言う、思っていたとおりの反応だったからだ。


「うん…怖い。相手の反応が怖い。だって、俺が感じたように、相手も感じるかは分からないだろう」


 目の前の苔に、都築が今どんな気持ちを抱いているか、暁に説明したところで理解してもらえるだろうか。自分でさえ明日には理解できないかもしれないこの感情。きっと暁にだって分からない。


 自分の気持ちを、感情を、誰かに否定されるのは恐ろしいことだ。まして、それが、好んでいる相手なら、なおのこと。


 暁の足がまた揺れ始める。何かに迷いつつ、考えをまとめるように、ゆっくり、ぷらぷらと。しばらくして、頭上から降り注いできた暁の声は、とても穏やかな響きをまとっていた。


「否定されてもしょうがないよ。だって、誰が何をどう思うかは自由だから。だから、かぐやちゃんにも自由はある。オレの気持ちを受け入れないっていう自由がある。そして、オレにも自由はある…あったって良いはずだ」


 暁の言う自由とは、気持ちを押し付ける自由だろうか。それを止める権利は誰にもない。暁はいつだって一方的に気持ちをぶつけてくる。都築は一向に応える素振りを見せていないのに。自由といえば聞こえは良いが、責任は誰も取ってくれない。いっそ禁止されたほうが良いのかもしれない。禁じてあげたほうが彼のためなのかもしれない。


 暁が、ふと何かに思い至ったように声を上げた。


「そういえばオレ、かぐやちゃんのことあんまり知らないのかもしれない。いつも自分のことばっかり喋ってる気がしてきた…!」

「自覚はあるのか」


 からかうように言うと、少し拗ねたように「だって」と返ってくる。都築はくすりと笑いながら、結局、自分が暁の気持ちを禁じたくないのだと気づき、自嘲した。


 暁の足がぺたりと冷たい音をたて、地面に降り立った。どこかへ行ってしまうのかと見上げた先に、月に見惚れる暁の横顔があった。都築の視線に気がついた暁が振り返る。目が合うと微笑んできた。


「いつか、かぐやちゃんのこと、もっと教えてよ。好きなこととか欲しい物とか!」


 じゃあ、ごゆっくり、そう言い残して暁は去っていった。


(「きれいだった」)


 都築はしばらく呆けていた。肘をつき瞳を閉じれば、暁の睫毛にそよぐ月光が、いとも簡単に脳裏に呼び起こされる。


(「俺の欲しいもの…」)


 両目を手のひらで押さえると、目の奥でちりちりと火花が散った。


(「暁の目に映った満月…あの満月が欲しい」)


「無理だろ、ははっ…」


 誰もいない露天風呂に都築の虚しい笑い声が響く。欲しいと言ったって無理だろう。そんなことは自分自身がよく分かっている。


 だって、都築はかぐや姫なのだから。


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