第17話 お盆の風景

 都築は畦道をぽつぽつ歩いていた。


 田んぼでは、黄金色した豊かな稲穂がぐんぐん背丈を伸ばしている。その実が詰まり、頭を重たく垂らしたら、ようやく刈り時。あと1ヶ月くらいかなと言ったのは、目の前を歩く少年だ。


 刈られた草の茎の先がサンダルの素足を引っ掻いていく。痛いような、くすぐったいような。


「もうすぐしたら、赤とんぼも飛び始めるよ」


 そう言って、前を歩く若槻暁が両腕を広々と伸ばした。右腕は白いギプスに覆われている。


「あんまり動かすな。まだ治りきってないんだろう?」


 ギプスに覆われた中身をつい想像してしまい、見ているこっちの肝が冷える。都築の心配を他所に、暁は嬉しそうに目元を細めて、ニコッと笑った。


「もうすぐ着くよ――ほら、見えてきた」


 暁がゆっくり左腕を伸ばす。指差す先に見えたのは灰や黒の直方体の滑らかな石の集まり。地元の寺が管理している墓地である。


 綺麗に磨かれた墓、花の枯れかけている墓、造花が咲き誇る墓、線香の煙がたなびく墓、苔むし忘れ去られた墓。そんな墓の海を、暁は迷いなく進んでいく。都築にはあまり馴染みのない景色だった。キョロキョロしながら暁の後を着いていく。


「ここだよ」


 そう言って暁が足を止めたのは「若槻家之墓」と彫られた花崗岩の前だった。花立てに供えられた小菊は摘みたてのように瑞々しい。暁はポケットからライターを取り出し、都築に視線を寄越した。


「かぐやちゃん、ろうそくと線香出して」

「はい」


 女将から持たされた花柄の巾着からろうそくと線香の箱を取り出した。暁はろうそくを受け取ると燭台に置き、そのまま慣れた手付きで火を付けた。


 都築はそれを黙って見ていた。こういうときの作法がさっぱりわからない。線香箱を持ったまま突っ立っていると、暁に、開けてと促された。言われるがまま、言われたとおり、指示に従う。暁は20本ほど掴み取ると、ろうそくの火に点した。


 線香の束から煙がくゆる。火を点した先から赤く燻り、やがて白い灰になって風に飛ばされていく。


「4、5本取って」

「4,5本…」


 満遍なく火の渡った線香の束を向けられ、困惑する都築に「適当でいいから」と暁が苦笑する。


「ちょっとお裾分けしてくる」


 そう言い残し、暁は余った線香片手に他の墓へと行ってしまった。

 見知らぬ墓の前に一人残された都築は墓石の左手、足元に置かれた石碑を見下ろした。それは墓誌と呼ばれるものである。この墓に眠る若槻家の人々の名前が歴々と刻まれている。右から順に彫られているのだろう。没年月日を見なくとも真新しい彫り口で分かる。都築は、一番左に刻まれた名前を口の中で呟いた。

 …

(「若槻洋汰 没年三十歳」)


 十二年前に刻まれたそれは、おそらく――


「親父。病気でさ、気づいたときには手遅れだったみたい」


 いつの間にか戻ってきていた暁が都築の視線を追っていた。


「……随分若かったんだな」


 三十という歳は都築にとってそう遠くない年齢である。暁は、寂しそうに、愛おしそうに墓誌に刻まれた父の名を見つめていた。


「さっきはって言ったけどさ、としか呼んだことなかったよ」


 十二年前なら暁は五歳だ。可愛い我が子の成長を見届けられなかった父親の無念は如何ばかりだろう。墓石の前に佇む少年の憂いを帯びた横顔は、すっかり大人びている。


 ―抱きしめてやりたい


 都築は降って湧いた自分の感情にドキリとした。そしてドキリとしたことにさらにドキリとした。こういう時に、理性のない人間は、もしくは心の豊かな人間は、何も考えずに抱きしめてあげることが出来るのだろうか。


 暁は夕日の眩しさに目を細めた。真剣なその表情に、やっぱり都築はドキリとした。暁が振り返る。


「かぐやちゃん、提灯貸して。親父連れて帰るから」


 ◇


 都築は暁の後ろを歩き、来たときと同じ道を帰っていた。暁の左手には提灯一張り。行きは畳んで都築が小脇に抱えていたものだ。浅い水色に芙蓉桔梗の迎え提灯にはどこか儚げに火が灯っている。


 暁がくるりと振り向いた。


「そういえば、かぐやちゃんの両親ってどんな人?」

「…普通の人たちだ」


 父親はどこかの企業のサラリーマンで、母親は専業主婦。都築が幼い頃はパートをしていたこともあった。これに2歳年の離れた姉がいる。ごくごく普通の一般家庭。そうとしか言いようがない。


「そっか」


 それだけ言って暁は再び前を向いた。


 思い返せば、3日前の小うさぎ亭。お盆は実家に帰るのかと問われ、帰らないと答えたときの暁と女将の顔は困惑していた。この街では盆正月は家族はもちろん親戚一同ほうぼうから集まって宴会なぞをするのが常らしい。


 ―想像するだけで気が滅入る。


 自身の家族に置き換えると自然と気持ちが暗くなった。そんな都築の無意識の拒絶を察してか、二人はそれ以上何も聞いてこなかった。気まずい静寂を打ち破るように、女将がぽんと両の掌を合わせた。


「そしたら、暁とお墓に行ってきてもらえないかしら」


 そういうわけで、片手が碌に使えない暁に同行して今に至る。とっさのことで体のいい断り文句が見つからなかったし、退院したとはいえ暁への罪悪感がずっと胸にこびりついて離れないから致し方なかった。


 人一人通るのがやっとの細い畦道を一定の距離を保って歩く暁と都築。


「この火さ」

「なに?」


 前を向いたまま話をされると、あまりよく聞こえなくて、つい聞き返す形になる。暁は提灯を軽く揺らし、声を張り上げた。


「この火。途中で消えたら、もう一度墓に迎えに行かなきゃなんだ。火が消えると、ご先祖様が迷って家まで戻ってこれないんだって」

「へぇ、大変だ」


 提灯をお墓に持っていくのでさえも、都築の地元では聞いたことがない。この前の―結局どんなものか見ることはできなかったが―餅撒きにしたってそうだ。地域地域でいろいろな風習があるものだなと妙に感心していると、


「大変っていうか――納得いかない」

「ん?」


 少し怒ったような暁の後ろ姿に、見えていないとは分かりつつ首を傾げてみる。振り向いた暁は拗ねたように唇を突き出していた。


「ご先祖様は、まぁ分かるよ。ご先祖様って呼んじゃうくらいでオレも名前まで覚えてないし。でもさ、親父は違うだろって。迷うって、家が分からないって何なんだよって」


 都築は思わず吹き出した。暁の口がさらにとんがる。


「今じゃないよ。オレがちっさいときの話!」

「そうかそうか」


 都築の茶化した相槌に、暁は「もう」とぶーたれながらも、すぐにいつもの調子に戻って柔らかく笑った。


「だからさ、親父は家に戻りたくないのかって子どもながらに悲しくなってさ。だって、オレが逆の立場なら、迎えがなくても行っちゃうもん」


 暁の頬に夕焼け色が染まる。夕日を反射した瞳には怒りはなく、寂しさが宿っている。


「毎年、ちょっと考えちゃうんだよね」


 暁は提灯を軽く揺すった。


「これは誰のためにやってるのかなって。結局、オレやお袋のためなんだろうな。そりゃそうだよ。親父は死んでるんだから良いも悪いも感じないよな。でもさ、もし霊ってのが本当にいるとしたら、親父はオレたちに会いたいって思わないのかな」


 暁の父親の気持ちを知ることは不可能だ。


「もしかしたらこれは、親父にとって迷惑なのかもしれない」


 こういう時になんと言えば良いのか、都築はちゃんと分かっている。「そんなことはない」その一言で済む話だ。だけど、そんな無難な言葉を掛けたくはなかった。


 ―オレ、かぐやちゃんのことが本気で好きです―


 病室での告白。あれから何度思い出したか分からない。暁の体温さえも体がちゃんと覚えている。返事はまだ。無難な答えは分かっている。だけど―


 都築の足が重くなる。そして、ついに歩みを止めた。


「応えられない期待を背負うのは、すごく苦しい」


 暁が息を呑む音がした。足を止め、振り返る暁を、とても見られそうにもなくて、都築はとっさに顔を伏せた。そのまま吐き出すように言う。


「俺は、若槻くんの気持ちに応えられない」


 視線の端、暁が足を踏み出すのが見えた。都築は後ずさろうとしたが、その必要はなくなった。暁は、結局、その場から動かなかった。二人の距離は変わらないままだ。


「かぐやちゃん」と呼ぶ明るい声につられ、都築は思わず顔をあげた。いつものようにニコッと笑う暁がいる。


「うん。分かってる。大丈夫、期待なんてしてないから」


 そう言って、暁はいつものように笑っていた。そう、笑っているはずなのに、暁が今にも泣くんじゃないかと都築は思った。胸がぎゅっと締め付けられる。


 暁は目にゴミでも入ったのか、目を軽く擦り、


「まだオレの話、終わってなかったんだけどさ」


 照れたように鼻を啜った。


「いつだったか、気づいちゃったんだよね。親父がもし迷惑だって思ってても、が親父に帰ってきて欲しいんだって。誰が何と思っていようが、結局、オレの気持ちは変えられないんだって。だから、オレはこれからも、毎年、盆に親父を迎えに行く。何も期待はしてない――かぐやちゃんのことも変わらず好きです」


 早く帰ろう、と踵を返す暁の足取りは力強い。


(「熱い…熱いな」)


 夕方近いとはいえ、夏の日差しはまだ強い。都築は赤く汗ばむ首筋に手を添え、暁に置いていかれないよう歩みを進めた。

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