第16話 ペット

 昔からいつも不思議に思っていた。消毒液の冷たい匂いは、なぜこうも人々の心を不安にさせるのだろう。人を救うためにあるべきこの場所は、あまりにも「死」に近い。


 ここは、医療法人社団宇喜多病院。


 都築の足取りはモスグリーンのリノリウムにめり込みそうなほどに重たく、さっきから同じ場所を行きつ戻りつしていた。


 20歩行ったら折り返し。20歩行ったら折り返し。こういうわけで、すぐ目の前の4人部屋に、都築はなかなか入れない。


 部屋の前に行くたびに、その名前を見てはいる。部屋の番号は女将に聞いた。聞いてないのにカルタ部の面々も教えてくれた。容態だって聞いている。だから、わざわざ都築が見舞う必要はない。


(「やっぱり帰ろう」)


 ようやく一つの決断を下し、何度目かの折り返しに終止符を打とうとしたその時、都築の目の前に腕っぷしの強そうな看護師が仁王立ちしていた。


「あんた、さっきから何してんだい?」


 内容によってはタダじゃおかない。白衣の天使の二の腕にごっつり浮かぶ青筋が、そう仄めかしている。


「そうそうこの部屋、この部屋でした!」


 都築は虎から追われる子兎のように、その病室へ逃げ込んだ。


 ◇


 若槻暁は窓辺のベッドに寝転んでいた。カーテンは開け放たれ、県の名木百選に選ばれている大きなクスノキからの木漏れ日が、白いベッドに優しい影を落としている。残りの3床は空いていた。ちょうどみんな出払っているようだ。


 暁はすぐに都築に気がついた。


「かぐやちゃん、来てくれたんだ!」

「うん…」


 そこから言葉を繋ぐことが出来ない。暁のいつもどおりの笑顔に思わず安堵し、同時に、白いギプスで固定された左腕に罪悪感を覚えた。心の準備はしていたものの、実際、目の辺りにしてしまうと、どうしようもなく胸が苦しくなる。


 あの日から3日が経っていた。餅まきのあの日、都築を追いかけようとした暁は2階建ての屋根から足を踏み外し、地面へ叩きつけられた。


 幸い命に別状は無かった。腕は折れたが軽い手術で済んだ。利き腕でも無かったし、後遺症もなく綺麗に治ると医師のお墨付きまである。


 けれども、都築は思わずにはいられない。


 あの時、暁の声を無視していなければ。都築が小うさぎ亭に通っていなければ。そもそもこの街に来なければ。つまりは、都築と暁が出会わなければ――


 これは、思い上がりなどではない。 

 これ以上、暁に近づくのは危険だ。

 それは、お互いを不幸にする。


「ごめんごめん。椅子なかったね」


 病室の入り口から一向に動く気配のない都築に、暁が気がついた。体を捻り、折れていない方の手で丸椅子を引き寄せている。


 都築は焦り、ベッドに駆け寄った。


「バカっ! 動くな!」


 とっさに出てしまったなかなかの暴言。それなのに、暁は嬉しそうに笑っている。


「このくらいどうってことないよ。お、それ! もしかしてお見舞い?」


 そう言って、暁は都築が手に持つフルーツ籠盛りを指差した。


「ん」


 都築は軽く頷いた。近所の八百屋で散々悩んで買ってきたものだ。


 最初は花でも持っていこうかと思ったが、却って飾る手間を掛けさせると思い直し、無難に菓子折りにするかと思ったが、近くにそれなりのデパートがなく、では、自分が貰って嬉しいものをと本でも見繕おうかと思ったが、暁は今片手しか使えないのだと思い出し、頭を抱えた。そもそも暁の好みの本を知らない。


 迷いに迷っていっそ手ぶらで行こうかと、いや手ぶらでは見舞いに行く勇気が出ないと、ならばいっそ見舞いに行くのを辞めてしまおうかと、そこまで思い詰めたところで、八百屋の店主に声をかけられ、あれよあれよと言う間にフルーツ籠盛りを持たされていた。


(「早く渡して帰ろう」)


 そんな、人知れず苦労盛りだくさんのフルーツ籠盛りを、都築は寄越された丸椅子に置こうとした。その瞬間、暁がすかさず机の上を指さした。


「そこに置いてくれる? うわぁ、ぶどう入ってる! オレ好きなんだよね、ありがとう。そういえば、かぐやちゃん風邪治ったの?」

「え、あぁ…」

「良かった! 部長からかぐやちゃんが風邪だって聞いて、何度か電話したんだけど、かぐやちゃん出なかったから。家で倒れてるんじゃないかって―」


 見舞いを渡したらすぐに帰るつもりだったのだ。だけど今や完璧に暁のペース。いつの間にか丸椅子に座らされ、都築はすっかり帰るタイミングを失ってしまっている。


 その上、腕を骨折している暁に、ただの風邪っぴきが心配されている。しかも、風邪を引いた理由はきっとしょうもない理由なのだ。本当は自分でも分かっている。


 目の前の少年が眩しくてしょうがなかった。見たくないというよりは、こんな自分を見られたくなくて、都築は俯き、両手で顔を覆った。


「俺のは、たかが夏風邪だ。おまえの方がよっぽど重症だろう。なんで俺のこと心配してんだ…」

「…かぐやちゃん、何かあった?」

(「だから俺のことは心配するなって…!」)


 声だけで分かる。暁はきっと心配そうにこちらを見ているに違いない。


(「ほとほと自分に嫌気が差す…」)


 腹の底から特大のため息が溢れる。じりじりと、ゆっくり、なんとか気持ちを切り替えて、ぎこちないと分かっていつつも、涼しい笑顔を作ってみた。


「元気そうで良かったよ。じゃ、もう帰るから」


 都築は立ち上がった。暁の顔はまともに見られなかった。そそくさと踵を返そうとした瞬間、腕を掴まれ、体がぐいっと引き寄せられた。ベッドに思わず両手をつく。目の前には、真剣な眼差しの暁がいた。吐息を肌で感じられそうな距離。腕はまだ、がっしり掴まれている。こんなに近くに彼を感じるのは、いつぶりだろう。


 暁の茶色みがかった双眸が、まっすぐ都築を捉えていた。


「無視しないで。かぐやちゃん、なんでオレのこと避けてるの?」


 とっさに、「避けてなんかない」と言いかけて都築は口をつぐんだ。暁のことを避けていないと言えば嘘になる。そして、その結果、暁は屋根から落ちた。これは、決して思い上がりなどではない。あの日から何度も感じた罪悪感が、再び奥底から湧き上がり、都築の心を昏く支配する。


「ごめん…」


 それがどうにか絞り出せた言葉だった。暁は悲しそうに目を伏せた。どうやらそれは彼が求めていた言葉ではなかったらしい。


「オレ、屋根から落ちたとき、ちょっと死ぬかと思ったんだよ」


 暁の手が都築の腕から離れていく。波が引いていくように暁の体温が、都築の腕から消えていった。


 もしかしたら名残惜しかったのかもしれない。


 都築は温もりが微かに残る右腕を、自分でも無意識の内に撫でていた。


 その瞬間、悲しげだった暁の視線がくすぐったそうに笑った。一瞬、どうして暁の機嫌が直ったのか分からなかったが、そこで初めて意識した。暁の温もりをあんなに大事そうに扱ったら、そりゃ暁だって気がつくだろう。いや、普通は気が付かない。どれだけポジティブ野郎なんだ。気恥ずかしさと苛立ちが同時に都築を襲ってくる。


 暁の声が病室に明るく響いた。


「死ぬかもって思って、まだ死ねないってなって。それはなんでかって言うと、ちゃんと伝えてなかっかたからなんだ」


 暁の言っていることは、いまいち理解出来なかった。だから、都築は首を傾げた。先を促すその意図はちゃんと暁に伝わった。いつものニコッと笑顔を浮かべ、暁は言った。


「オレ、かぐやちゃんのことが本気で好きです」


 その瞬間、都築の呼吸があやうく止まりかけた。暁は今まで見たことないくらいに顔を真っ赤にしていた。恥ずかしさからか瞳を潤ませ、それでも目をそらすことなく、ただまっすぐに都築の方を見つめていた。


「…え?」


 都築は、動揺して後退り、その弾みで丸椅子を弾き飛ばしてしまった。アワアワと椅子を懐き込み、そのままの姿勢で暁をまじまじと見返す。


「え…?」

「そんなに驚かなくても…この前も言ったじゃん」


 暁はいじけたように口を尖らせている。顔は依然赤いままである。


 この前とは、カルタ部のお疲れさま会のことだろうか。たしかにあの日、暁はそんなことを言っていた。暁から熱い視線を感じたこともある。その気持ちに応えることは出来ないと思いつつ、悪い気はしなかった自分がいたのも事実だ。


 しかし、しかしだ。


 都築は当然驚いていた。だから、純粋な質問が、つい口から溢れた。


「若槻くん、いるよね?」

「へっ?」


 返ってきたのは、意味が分からないときに出る理想的な「へっ?」。何が「へっ?」だ。白々しい。その若さでそれほど堂々とすっとぼけられるとは、色男の先が思いやられる。都築は呆れてしまった。自然と眉間にシワも寄る。


「この前見たぞ。夏祭りの日。金髪の女の子と浴衣で花火、見に行っただろ」


 自分で言っておきながら、内心苦虫を噛み潰したような気持ちになる。落ちて割れた水風船とその横にうずくまる独り身の男。あの時の光景を思い出すと、惨めで惨めで堪らない。


 そんな都築の気持ちなど知る由もない暁は、何かを閃いたように指を鳴らした。


「あー! キララのこと?」

「そうそう。キララ。キララお嬢様だよ」

「呼んだ?」


 突然聞こえた少女の声に、都築はとっさに後ろを振り返った。病室の入り口に、金髪美少女がいるではないか。それは、夏祭りの日に暁にキスをした少女であり、餅まきの日に女神のごとく地上を見下ろしていた少女である。


 近くで見て、今、初めて分かったのだが、少女の瞳は青く、まるでタンザナイトのようだった。100人中100人が美人と答える完璧美少女。


 「キョウちゃ〜ん! オミマイ来たよ〜」


 その美少女キララは一目散にベッドへ駆け寄ると、ギプスがあるのも構わず暁に抱きつき、あの日のように頬にキスした。わりとしっかり目に。


 都築は呆気に取られた。1度ならず2度までも目の前でこんな光景を魅せられる破目になろうとは。暁はやはり嫌がることなく受け入れている。恋人からのキスなのだから当然だろう。病室にリップ音を響かせている。


 キララはキスに満足したようだった。くるりと身を翻し、都築のことを不思議そうに見上げると、途端にパァッと顔を輝かせた。


「もしかして、あなたカグヤちゃん?」

「いや、だ…いやいや、なんで俺のこと―」


「知っているんだ?」と言い終わらないうちに、金色の柔らかな感触が都築の胸に飛び込んでくる。


「うわっ!」


 キララが都築を抱きしめながら、嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねた。


「やっぱりそう! テルヤだけどカグヤちゃん! キョウちゃんの crush!」


 ―crush―


 そのスラングには「意中の相手」という意味がありはしなかったか。 


「おいキララ、離れろ!」


 暁がベッドから身を乗り出し、キララを都築から引き剥がそうとしている。珍しく焦った様子なのが意外だ。


「こいつ、ハグ魔でキス魔なんだよ。こら、キララっ! めっ!」


 キララは暁に怒られて露骨にしゅんとした。


「くぅ〜ん。キララ、カグヤちゃんと仲良くなりたいだけなのに〜」

「ここは日本なの! 郷に入りては郷に従えだ」

「go…?」


 都築はようやくキララから開放された。それでも、隙あらば、都築に抱きつこうとウズウズしているのが見て取れる。暁が牽制するようにキララの裾の端を引っ張っている。さっきまで空前絶後の美少女に見えていたキララだったが、今はどちらかといえば、よく言えば愛嬌たっぷり、悪く言えばアホっぽく、綺麗というより可愛らしく見えてくる。


 それに―


 都築はじゃれつくキララとなだめる暁の姿に目を細めた。


 これじゃあまるで、恋人というよりも―


 思わず漏れた笑い声に、暁が不思議そうに瞬きした。


「なになに? かぐやちゃん」


 都築は口元を抑えて我慢したのだが、残念ながら限界を迎えて、ついには吹き出してしまった。


「昔、飼っていたペットを思い出して」


 暁とキララは目をパチクリさせて見つめ合っていた。都築はくつくつと声を押し殺して、だけど涙が出るほど笑った。笑って笑って笑い続けた。それだけ、ほっとしたのだった。

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