第12話 大豪邸

「あっついな」


 都築つづきは、首筋に伝う汗をハンカチで拭いながら独りごちた。ようやく梅雨が終わったかと思えば、今度は蝉の声の雨あられが降り注ぐ。鋭い日差しの蒸し暑い夏がやってきたのである。頭上には、目の覚めるような青空に白い入道雲がもくもくとせり立っていた。世間はすでに夏休み。都築は学校で雑務を終えて、自宅へ帰る途中だった。


 この時期の日中はとても長い。時計を見ればそれなりに夕刻と言っていい時間だったが、まだまだギラギラ太陽が沈む気配はない。


 少し歩いただけで、次から次に汗が吹き出してくる。これでは、拭いても拭いても切りがない。都築は背中に貼り付いたシャツを引っ張りながら、今夜の予定を立てていた。


(「まずは『月見荘』だろ。そして、喉からからのまま『小うさぎ亭』だな」)


 結局いつものコースである。琥珀色に輝く泡泡の飲み物を想像しただけで喉がキュウと鳴った。夏といえば、キンキンに冷えたビール一択。そうと決まれば善は急げ。慣れた道を意気揚々と歩いて行く。しばらく進んで、都築はふと足を止めた。


 丁字路の正面、目の前に立派な大黒柱が聳え立っていた。少し前に基礎や土台を造っていたので、ゆくゆくここに家が建つのだなと思ってはいたのだが――


「昨日は平らだったのに」


 都築は完成間近の大豪邸にあっけにとられていた。


 ◇◇◇


「あそこは、吉良きらさんのお宅ですよ」


 カウンター越し、女将がさつま揚げの載った小皿を手渡しながら言った。


「お知り合いですか。すごい豪邸ですよね」


 都築が愛想よく驚くと、カウンターの端っこでいつもどおり酔いどれていた佐藤が大きく首を上下させた。


「ほらー、なんだっけあれ、あのー、なんとかって会社のー、ほらさ社長さんだからね」


 全然分からない。女将が苦笑しつつ、助け船をだした。


「スペースナイトホーク、ね」


 どこかで聞いたことのある名前に、思わずさつま揚げを箸から落とす。


「あの宇宙旅行の、ですか?」


 スペースナイトホークと言えば、自社のスペースシャトルで宇宙旅行を提供している会社で、この前もどこぞのセレブが宇宙からネット配信をして話題になっていた。一代でこの会社を築き上げた社長は世界の長者番付にものっている。しかし、金髪碧眼のその社長は日本人では無かったはずだ。吉良なんて名前ではもちろん無かったし、そもそも―


「そんな社長がなんでこんな」


 そこまで言って、都築はしまったと目を伏せた。頭上から女将の笑い声が聞こえる。


「かぐや先生。今、そんなすごい社長がなんでこんな田舎なんかにって思ったでしょう」

「いやいや、そんなぁ」


 都築はとびきりの笑顔を返しておいた。なんでこんな田舎なんかに、と思ったことは口が裂けても言えやしない。女将はわざとらしく首を傾けた。まるで都築の心の内を覗きこもうとしているよう。もしかしてバレただろうかとあわあわする都築を、女将はしばらく堪能し、おかしそうに微笑んで、他の客が注文したエイヒレの炙り加減にようやく視線を戻した。


「奥さんがね、実はここの出身なの。高校生くらいまでだったかしら。それから家族で都会に引っ越しちゃいましたけど」

「吉良さんとこの、みっちゃんな! 美人さんだったよなー。それにしても、すんごい玉の輿だわぁ」


 佐藤が大きなため息とともに徳利を傾けた。中身は空だ。女将がすかさず新しい徳利を手渡した。


「てことは、奥さんの故郷に移り住むってことなんですね」


 都築は納得した。さては、奥さんが地元に帰りたいとでも言ったのだろう。

 しかし、女将は否定の吐息を漏らして首を振った。


「ここに来るのは娘さんだけ。あと、お手伝いさんが何人かって言ってたかしら。キララちゃんが―あ、娘さんね―小さい頃に家族旅行でここに来たことがあって、その時にすごくこの街を気に入ったみたい。それから、ここに住みたいってずっと言ってたらしいの。だけど、お父さんのお仕事もあるから、それは無理でしょう? それで、高校生になってやっと一人暮らしの許可が降りて、ただ今、絶賛おうちを建築中」

「「へぇ〜」」


 はからずも佐藤と声が重なる。一人暮らしの娘のために家を建てるなんて、しかもあんな大豪邸を建てるなんて、金持ちの考えることは凡人の理解を超

えている。


(「いつの時代も金持ちはやることが違うな」)


 都築はさつま揚げをかじりながらしみじみ思った。空になったグラスにビールを注ごうと、すっかり結露したビール瓶に手を伸ばしたとき、店の奥から少年の間延びした声が聞こえてきた。


「お袋、そろそろ時間だろ」


 バンダナを巻き、エプロンを身に着けた若槻わかつききょうが姿を現す。女将が壁時計を見上げ、瞬いた。


「あら、もうこんな時間。会合に遅れちゃうわね」

「えぇ〜、女将もう上がり〜? だし巻き頼んどけば良かった〜」


 暁が店番をする時は、作り置きのおでんとお酒しか出さない。


「ごめんなさいね。また今度」


 客席からあがる不満の声に、女将はにっこり微笑むと、暁に「あとよろしくね」と声をかけ、そそくさと奥へ引っ込んで行った。


「かぐやちゃん来てたんだ!」


 暁は都築を見るなり声を弾ませた。都築は軽く手を挙げる。すかさず、佐藤が都築の席へにじり寄ってきた。


「佐藤のおっちゃんもきてますよー」

「はいはい。いつもありがとう」

「どういたしまして。厚揚げと昆布1つずつ」

「はいよ。かぐやちゃんは?」

「じゃあ、大根と卵をもらおうかな」

「はーい」


 暁はニコッと笑っておでんを取り分け始めた。他の客からも注文が入る。焦ることなく伝票を取り、ときには客と冗談の一つも交わしながら、注文をどんどんさばいていく。慣れたものだ。


 学校や部活で見るのとはまた違った暁の横顔を肴に、都築のビールは進んでいく。


「そぉいえばよぉ」


 だいぶ酔いの回ってきたらしい佐藤の大きな声に、暁が「ん?」と振り向いた。


「吉良さんとこ、娘っ子が引っ越してくるんだってな。さっき女将に聞いたぞぉ」

「あぁ、キララね」


 都築の大根を四つ割にする手が滑った。まさかの呼び捨て。二人は親しい間柄なのだろうか。気にならないといえば嘘になる。だって、大富豪の娘と田舎の少年にそんな接点ないだろう、普通、ねぇ。


 そこのところ聞いてくれないかなと佐藤を見やると、赤ら顔のおっちゃんはうとうとと舟を漕いでいた。こうなってしまってはもう駄目だ。肝心な時に役に立たない。都築は残りのビールを飲み干した。こうなれば自分で聞くしかない。


「そのキララって子とは知り合いなのか?」


 空いた皿を片付けながら、暁がちらりとこちらを見た。


「キララ? うん、昔、家族旅行でうちに泊まったことがあって。オレが小2のときかな、たしか。あいつが一個下で、年が近いから結構仲良くなって。今でも交流が続いてるね」

「おぉ…」


 思いの外仲良しだった。それ以上特に聞くこともなく、所在なさげに視線を彷徨わせる。佐藤は机に突っ伏して寝息を立て始めていた。3人連れが会計を済ませ出ていく。店内が一気に静かになった。


 暁は小さく息を吐いた。一段落して気が抜けたらしい。都築の方を見て、そして、ふっと微笑んだ。


 その瞬間、都築は世界の彩度が鮮やかになった気がした。少年の柔らかな笑みから視線が逸らせない。まるで、目に見えない糸で手繰り寄せられているような感覚。

 

 もはや、都築は暁を睨むしかなかった。


「なんだ」

「あ、いや、なんでも」


 暁は気恥しそうに視線を逸し、首筋をぽりぽり掻いていた。そして何かを思い出したように、


「あっ」


 と突然声を上げた。その瞳の奥には明らかなワクワクが見て取れる。


「かぐやちゃん、『餅まき』って見たことある?」

「もちまき?」


 眉を上げ初耳であることをほのめかすと、暁は何やら嬉しそうに口角を上げた。


「知らない? ここらへんでは、家が建つと屋根から餅を撒くんだよ」

「あー」


 言われてみれば、そういう地域があると聞いたことがある気もする。上棟式を終えた後、集まった近所の人に、屋根から餅や小銭を撒くのだ。おそらく、元々は、災いを祓うとか、そういった類の神事だったのだろう。


「キララの家が建ったら、餅投げてくれって頼まれてるんだ。かぐやちゃんも見に来てよ。たくさん人が来たほうが良いからさ」

「餅を投げるのを見て楽しいか?」


 投げる方は楽しいのかもしれないが、投げられる方は餌を待つ池の鯉の気分じゃなかろうか。都築のつれない返事に暁が心外とばかりに腕を組んだ。


「楽しいに決まってるよ。だって餅が飛んでくるんだよ。たまにお金も入ってるし。老若男女大興奮の一大イベントだよ」

「ふーん…で、いつなんだ?」


 そんなに言うなら行ってみてもいい。人生何事も経験だ。スマホのスケジュールを開きメモの準備をする。視線で暁を促すと、嬉しそうにニコッと笑い返された。


「分かんない! 旗が立ったらそれが合図」

「は?」


 都築は暁をまじまじと見つめた。冗談かと思ったが、暁の表情を見るに、本人はいたって真面目らしい。都築は目を瞬かせた。


「え、本当に分からない感じ…?」

「うん。ある日突然、家のてっぺんに5色の吹き流しが立つから、そしたらそれが餅まきの合図。だから、毎日見てなきゃだめだよ」

「…アナログなんですね」

「アナログなんです」



 夜は更けた。それでもまだ、空気は気怠い熱を帯びている。小うさぎ亭からの帰り道、都築は再び吉良家の大豪邸(仮)を見上げていた。


 柱越しの星空から、流れ星がキラリと転がり落ちてきたので、都築は上機嫌で帰路についた。

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