第11話 雨音
この地域の梅雨はかなり長い。ニュースで梅雨入りが発表されてから、もう随分経つ気がしている。都築は自宅の窓から外を眺めていた。目の前には雨夜だけが広がっていて、耳を澄ませば雨粒が落ちる湿らかな音と田んぼに潜むカエルの鳴き声が心地よいハーモニーを奏でている。
凝り固まった眉間をほぐし、瞳を閉じて、しばらく自然のBGMに耳を傾ける。気が済むまでそうしたあとで、都築は小さく息を吐き、机上の赤ペンを握り直した。学校で終えられなかった期末テストの採点を家に持ち帰っていたのだ。
国語の採点はなかなか神経を使う。白黒もしくは01の答えばかりでないので配点が難しい。そうやって悩みながら進めていくと、途中で採点基準がぶれていないかと心配になってくる。だから、行きつ戻りつ、慎重に時間をかけてやらざるを得ない。
採点途中の一枚をようやく仕上げ、次のテスト用紙に取りかかる。めくった瞬間、目に入ったおおらかな筆圧の濃い文字に、都築の心臓は大きく波打った。もう、何度も見てきたあいつの文字だ。
テスト用紙の右手をなぞる。安っぽい紙のざらりとした感触とともにその名前は現れた。
「
その名を口にした瞬間、あの日の記憶が蘇る。
―かぐやちゃんはオレのだ―
真っ赤な顔してうつむく少年の、突拍子もないその言葉を一笑に付せない自分がいる。
暁からの好意は薄々感じてはいた。
しかし、そうだとしてもそれは、ライクであってラブではなかったはずだ。そうでなくてはならないはずだった。なぜなら二人は男同士だし、教師と生徒だし、それに――
スマホの振動音が都築の思考に割って入る。薄明かりの画面、映しだされた名前のタイミングの良さに息を呑む。そっと耳に当てた。
「あっ、でた! かぐやちゃん今いい?」
テスト期間で部活はなかったし、あいつは職員室にも来なかった。ずっと雨が降っていたから月見荘に行く足も遠のいていた。だから、あの日以来、二人の間に会話は無かった。
「…どうした?」
声が少し上擦っていたかもしれない。都築は思わず頭を抱えた。動揺を悟られただろうか。だとしたら大失態だ。張り詰めた空気が雨音とカエルの声をよく響かせる。暁の返事を待つ時間がいやに長く感じた。息を吸う音が聞こえてきて、耳をくすぐった。
「部活の再開って金曜からで、
暁は副部長になっていた。二年生が二人しかいないので必然的にそうなる。部員への連絡係を率先して引き受けていた。
「うん。合ってる」
「オッケー。みんなに伝えとく」
暁の声はいたっていつもどおりだ。都築はなんだかほっとして、白い天井を仰ぎ見た。
「それとさ、かぐやちゃん」
「まだ何か?」
都築は軽く伸びをした。スマホを持ち替え、右手に赤ペンを握る。ほっとしたら焦ってきた。採点はまだまだ終わらない。ペン先と紙が小気味よい摩擦音をたてる。そこに暁の電話越しの声が重なった。
「最近、お袋が弁当の販売を始めたんだよ」
「ほう」
「この前、近くで橋の工事してたろ。
「まぁ、女将さんの料理ウマいからな」
暁が嬉しそうに頷いた。
「だからお袋やる気になっちゃって。これからも弁当販売続けることにしたんだ」
「おー、いいね」
「それで、かぐやちゃんは甘い卵焼きとしょっぱい卵焼きどっちが好きか聞いとけって。かぐやちゃんも買いに来るだろうからってさ」
都築はくすりと笑った。
「なんだよそれ。まぁ、買いに行くけども」
「で、どっち?」
「んー…しょっぱいほうかな。甘いのは馴染みがないかも」
「ふーん…分かった。言っとく。あとさ」
「まだあるのか?」
都築は苦笑しながら、赤ペンを置いた。随分とおしゃべりなやつ。まるで「久しぶり」を埋めるかのよう。
「オレの前世、多分、
「え?」
都築は思わず聞き返した。別に、聞こえなかったわけではない。ただ、聞き間違えたかと思っただけだ。暁がじれったそうに唸る。
「石作皇子だよ。この前、かぐやちゃん言ってただろ。かぐやちゃんがかぐや姫なら、じゃあオレは誰なんだって」
確かに言った。暁が見る夢の中の美女。その女が都築の前世であり、しかも、竹取物語のかぐや姫だと言うのなら、じゃあ一体おまえは誰なのだ、と。
暁は答えを導き出したらしい。そして、それが―
「石作皇子…?」
「そう!」
都築はどうしたものかとこめかみを掻いた。
「…その心は?」
「昨日の夢に『鉢』が出てきた」
「鉢……『仏のお石の鉢』か」
竹取物語の中で、絶世の美女かぐや姫はその美しさゆえに五人の公達から求婚される。結婚に気乗りしないかぐや姫は五人の男たちに、世にも珍しい宝を持ってくるように要求する。持ってくることができた者と結婚しよう。そう約束して。
その公達の一人、石作皇子に持ってこさせようとしたのが『仏のお石の鉢』だった。
「鉢ってお椀みたいなやつでしょ? 夢の中で前世のオレがかぐや姫にプレゼントしてた。きれいな布に包んでさ、紫の花と一緒に」
石作皇子は、手に入れた鉢を「錦の袋に入れて、造り花の枝につけて」、かぐや姫の家に持ってくるのだ。あながち間違えてはいない。
「竹取物語を読んだのか?」
都築の問いかけに暁は照れたように笑った。
「うん。図書室で借りた。でも難しくて
都築は眉間にシワを寄せた。
「受験生に手間を掛けさせるな。大会も控えてるのに」
「そうなんだけど…全力を出せって」
「はぁ?」
「鹿音先輩が、欲しいものは全力で取りに行けって。できることは何でもしろって。だから、先輩にも遠慮しなくて良いって言ってくれて」
「はぁ…」
よくは分からないが、鹿音は暁を応援しているらしい。
「それでさ、夢の中でかぐや姫驚いてたよ。すごくきれいな器でさ。なんか光ってんの。でも、『いらない』って突き返されて、受け取ってもらうのに苦労してたな。前世のオレ、最初は嫌われてたみたい」
電話の向こうで暁が可笑しそうに笑う。昨夜見た夢の光景を思い出しているのだろう。都築は手にした赤ペンで机を軽くこずいた。
「勉強不足だな」
「えぇ!?」
少年の声のうるささに、思わず耳からスマホを突き離す。自然とため息もこぼれてしまう。
「石作皇子が持ってきた鉢はそこらの寺からとってきた黒く煤けた鉢だ。だから光らない」
夢の中の鉢が光っていたのなら、それは石作皇子が持ってきた鉢ではあり得ない。
暁はあからさまに残念そうな声をあげていた。少年の前世探しは振り出しに戻ってしまった。フカフカのクッションに勢いよく顔を埋める、そんな音が電話越しに聞こえてきた。
「じゃあオレは一体誰なんだよー」
暁の情けない声に、都築の口元が緩んだ。
「石作皇子は、偽物を渡したことがバレてからも懲りずに言い寄るような恥知らずの男だぞ。そんな奴じゃなくて良かったじゃないか」
「うーん…それだけかぐや姫のことが好きだったんじゃない? どうしても諦められなかったんだよ、きっと」
石作皇子を庇うなんておもしろい奴だ、と都築は思った。あんなのただのしょうもない男なのに。暁はまだ何やらぶつぶつ喋っていた。
「もういいかな。切るよ」
都築は問答無用で電話を切った。採点の終わったテスト用紙に視線を落とす。暁はそれほど勉強が得意というわけではない。担任として、それは中間テストのときに把握していた。
名前の横。さきほど自分が書き込んだ数字を見やる。
90点
頑張ったんだな、と都築は目を細めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。