第9話 入部届
職員室の窓の外、爽やかな微風が瑞々しい新緑をはらりと揺らす、そんなうららかなお昼休み。
宇喜多高校の職員室で、
その生姜焼きを口に運びながら、行儀悪くもパソコン画面を眺めていると、離れたところから自分を呼ぶ、馴染みの声が聞こえてきた。
「かぐやちゃん、かぐやちゃん」
行儀悪くも箸を咥えたまま、斜め後ろを振り返る。職員室の引き戸から馴染みの顔がひょこっと顔を出していた。毎度お馴染み
教師を呼びつけるなんざいい度胸。しかも、今は貴重な昼休みだ。間髪入れず、「お前が来い」と手招きし返す。幸い両隣の席は今空いている。暁が入ってきたところで他の教師に迷惑をかけることはない。
「かぐやちゃん、ここで話していいの?」
やってきた暁は、周りを見ながら声を潜めて言った。おいおい一体何を話すつもりなんだ。
「俺は先生で、若槻くんは生徒で、ここは職員室だ。話せない話があるだろうか、いやない」
「あはは。反語」
「そう反語」
何の中身も無い会話だが、こういう会話も嫌いじゃない。暁と話していると気が抜ける。癒やされている自分がいる。認めたくないが。
都築は生姜焼きの最後の一口に箸を伸ばし、顔も見ずに暁を促した。
「で、話って何?」
「うん、あっ…」
妙な間に思わず振り返る。暁の視線は、都築のパソコンを捉えていた。そこには、来たる6月にカルタ部が出場する県予選の案内が映し出されていた。暁が気まずそうに頭を掻いた。
「オレさ、やっぱりカルタ部には入れない」
「…そっか」
都築は相槌を打つと、自身のパソコンに視線を戻した。右上のバツ印をクリックし、県予選の案内を閉じる。一瞬にして殺風景なデスクトップが映し出された。案内文はまだ読んでいなかった。都築は自分でも何がしたかったのか分からなかった。
(「もしかして、俺は苛立っているのか?」)
暁は今までずっと帰宅部だった。それは、彼が家業の温泉旅館の手伝いをしなければならないからだというのは、本人に聞かなくても容易に想像がつく。だから、暁の答えは分かりきっていたことだ。今更、彼が部活に入る道理はない。
だけど、それなら昨日の思わせぶりな態度はなんだったのか。昨日の満更でもなさそうな表情はなんだったのか。あんな顔をされたら、あんなことを言われたら、そりゃ少しは期待してしまうだろう。
(「期待? 俺が?」)
都築は驚いた。いつの間にか暁の入部を期待していた自分がいる。なんてことだ。手持ち無沙汰が煩わしくて、コンビニ袋に弁当がらを放り込んだ。
「それをわざわざ言いにきたのか? 分かった。伝えておく」
我ながら少し素っ気なさ過ぎたかもしれない。何をそんなに動揺している。思いを断ち切るように、ビニール袋の持ち手を強く結んだ。足元のゴミ箱に乾いた音が虚しく響く。暁はまだ隣で突っ立っていた。帰りそうな素振りはない。他にも何かあるのかと顔を上げると、色素の薄い澄んだ瞳が少し寂しそうにこちらを見下ろしていた。
「奥山先輩には自分で言うよ。せっかく声を掛けてくれたんだし。かぐやちゃんと話したかったのはさ、夢のこと」
「夢?」
都築は首を捻った。進路相談だろうか。暁は照れくさそうに笑った。
「そう、夢。昨日新しい夢を見たんだ。オレとかぐやちゃんの前世の夢」
「おー…、ちょっと職員室出ようか」
都築はすっかり油断していた。暁が繰り返し見ていたという不思議な夢の話。入学式の次の日に話を聞かされて、それっきり。それ以来、暁がうたた寝をすることは無かったし、夢の話をしてくることも無かった。だから、その夢物語への興味はとうに無くなったのだとばかり思っていたのだが。
いつかの渡り廊下で都築は暁の夢の話を再び聞くことにした。それとなく日陰に誘導したにも関わらず、暁は陽のあたる外に飛び出し、どこからか小枝を拾ってきて、がりがりと地面に何やら絵を描き始めた。おそらく男と女を描いているようだが、残念ながら全く絵心がない。暁は、十二単衣のような何かを着ているらしい女の方を指差し、日陰から覗き込む都築を振り返った。
「これが前世のかぐやちゃん」
「ええぇ…」
とりあえず目と鼻と口があるだけで、これが都築の前世だと言われても少しも嬉しくない。相当不満げな顔をしていたのだろう。暁は気まずそうに頭を掻いた。
「これじゃ分かんないかもだけど、とにかくこれはかぐやちゃん。目が大きくて、まつ毛が長くて、色が白くて、きれいな黒髪で、本当にそっくりなんだって」
「はぁ…」
自分の担任のことを、恥ずかしげもなく、よくもそこまでべた褒めできるものだ。
「それでこっちが前世のオレ。顔はオレに似てるかな、どうだろう。最初はオレのひとめぼれだったみたい―」
それから、暁は昨夜の夢について話し始めた。それは、かぐや姫と前世の暁が初めて出会ったときの話――
都築は聞くともなしに聞いていた。
顔を上げるとグラウンドでは学生たちがサッカーをしていた。遠くて顔は見えないが、体の大きさからおそらく一年生だろう。春から始まった高校生活にすっかり馴染んでいるようだ。
そのまま視線を斜め上にやると、ガルバリウム鋼板でできた渡り廊下の屋根下に、ひっそりとツバメの巣ができつつあった。八割型完成といったところだろうか。順調に行けば巣立ちまで見届けられるかもしれない。
未来のツバメに思いを巡らせていると、きれいな水色が視界の端に映った。親指の第一関節くらいの小さなチョウが渡り廊下を横切っている。低空飛行でひらひらと心許なげに舞い続け、ようやく目的地を見出したチョウ。暁の持つ小枝の先端で、その可憐な羽根をたたみ、休んでいる。
「ちょっと、かぐやちゃん聞いている?」
同じように視線を這わせていたのだろう。目があった暁はなんだか可笑しそうに都築を責めた。都築はこくりと頷いた。
「聞いてるよ」
「オレさ、前世の夢が他にもあるなんて思ってなかった」
「…」
「夢見てるときってすごく幸せなんだ。かぐやちゃんのそばにいれば、もっと思い出せるかもしれない。それに、かぐやちゃんだって―」
小枝から水色のチョウが飛び立った。休息の時間は終わったようだ。二人の視線がチョウを追う。暁が何を言わんとしているのか、都築には分かった。だけど、その言葉は聞きたくなかった。都築は自ら沈黙を破った。
「そもそも、若槻くんの言ってる『かぐや』ってのは、竹取物語の『かぐや姫』のことなのか?」
都築の質問に暁は首をひねった。どうやら今まで考えたことがなかったらしい。少年は小枝に顎を乗せ、少しの間考え込んでいたが、やがて大きく頷くとおもむろに立ち上がった。都築と暁の背丈は同じくらい。二人の視線が、今日一番最短距離で交わりあう。暁は口を開いた。
「多分そうなんだと思う。他に『かぐや』なんて名前の人知らないし」
都築は鼻で笑った。
「仮に、仮にだ。俺が『かぐや姫』の生まれ変わりだとして、じゃあ若槻くんは誰なんだ?」
「誰って?」
「
竹取物語は日本最古の物語だ。何がかぐや姫の生まれ変わりだ。そんなのいるわけないだろう。皮肉も皮肉。ブラック都築が抑えられない。
(「さすがに嫌な奴すぎたかな」)
軽く自己嫌悪に陥りながら、暁を見てみると、予想に反してしかし、少年の瞳は輝いていた。
「なんで、そんな…?」
暁の頬はほんのり赤らみ上気していた。小枝を放り出し、興奮気味に都築の元へ駆け寄ってくる。
「かぐやちゃん、詳しいね!」
「ま、まぁ、一応国語の教師なんで」
「もっと教えてほしい! オレの前世のことが分かるかもしれない」
「はぁ?!」
まさかこんな反応が返ってくるとは思わなかった。拒絶の意図が伝わらなかったらしい。都築はがくりとうなだれた。
「…自分で調べてください」
「いいじゃーん。せんせいっ」
暁に初めて「先生」と呼ばれた。少し、嬉しい。
「こんなときだけ先生って呼ぶな」
「やっぱりかぐやちゃんのほうがいい?」
「先生って呼べ。ていうかじゃれるな。いや、じゃれないでください!」
じゃれつく暁を払いのけながら都築は職員室へと踵を返した。結局いつだって暁のペースにのまれてしまう。そして、それが嫌じゃない自分がいることにも気づいている。
(「このくらいなら大丈夫だ。きっと」)
都築は隣でおかしそうに笑う暁を横目に、そう自分に言い聞かせた。
◇◇◇
次の日の昼休み。
コンビニのサンドイッチを頬張る都築の目の前に、カルタ部部長の
「とってきました」
都築はその紙を覗き込み、思わずむせた。それは入部届で、なんと若槻暁の名前が書かれている。都築は口の中のサンドイッチをごくりと飲み込んだ。
「あれ? 若槻くん入部できないって言ってなかった?」
「言ってましたよ」
「ですよねー?」
それではこの入部届はなんなのだ。都築が説明を求めるように鹿音の顔を恐る恐る見上げると、鹿音はいつもと変わらぬ真顔で淡々と答えた。
「一時間ほど詰めました。しぶとかったですけど、幽霊部員でもいいからって言ったら、泣く泣く署名しましたよ」
「え、こわい」
「は?」
「いや、なんでもないです…」
都築は鹿音の顔をまじまじと見た。
(「それにしても」)
都築が穴の空くほど見つめても照れもせず、何に対してもフラットで、他人に興味も薄そうな、マイペース少女の鹿音が、こうまでして暁をカルタ部に入部させたかった理由は何なのだろうか。
「先生」
「はいっ」
鹿音に呼ばれて、都築は慌てて姿勢を正した。鹿音が小さくため息を落とす。
「あんまり見ないでください。顔面が良すぎて心臓に悪いです」
「奥山さんでも?!」
鹿音は不可解そうに片眉を上げたが、まぁいいかと言った風情ですぐにいつもの真顔に戻り、入部届の若槻暁の名前をコツコツと指で叩いた。
「彼、多分、かるたのこと好きになってくれますよ。カルタ部のことも、きっと」
その瞬間、都築は納得した。あぁ、だからなのか。だから彼女は――
「奥山さんは、カルタ部のことが好きなんだね」
鹿音は思いっきり眉根を寄せた。
「当然です」
こうして、宇喜多高校カルタ部部員は6人になった。鹿音は分かっていたのだ。部活動として成立するには、少なくとも5人は人数が必要なことを。彼女は、自分が居なくなったあとも、安心してみんなが部活を続けられるよう基盤を作っていたのである。
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