第壱話

 ◆


「美しい声だ」


 突然聞こえてきた男の声に、女は後退りし、後ろの部屋へ逃げ込んだ。部屋の中に入り切らなかった十二単をかき集め、首を伸ばして外の様子を窺う。


 確かに声がしたはずなのに、そこに人影はなかった。中庭の草木も揺れていない。砂紋に乱れの一つもない。


 気のせいだったのだろうかと首を傾げ、部屋の中を振り返ったとき、目の前に男が一人立っていた。


「…!!」


 女は助けを呼ばねばと声をあげようとしたが、男に口を塞がれた。羽交い締めにされ、見動きが取れない。


 殺される。


 恐怖で暴れもがく女の耳元で男が囁いた。


「落ち着け。危害を加えるつもりはない。私はただ、おまえの歌をもっと近くで聞きたかっただけだ。その美しい声で」


 透渡殿で歌う声。その声の美しさに惹かれて、この屋敷に入ってきた。女を開放した男は、悪びれた様子もなく、そう言ってのけた。


 女は男の頭のてっぺんから足の爪の先まで無遠慮に眺め回した。ここらで見ない顔だが、身なりは整っている。どこかの貴族だろう。そう結論づける。


 女は男と距離を取りながら尋ねた。


「あなた、誰?」

「やはり良い声だ」


 嬉しそうに頷く男に、女は苛立ちを隠さなかった。


「垣間見どころか、乗り込んでくるなんて。ありえない」

「怒った声も凛として美しい。おまえ、名前は」

「…かぐや」


 男は口の中でその名を繰り返していた。そして、何かに気がついたように、ふと顔をあげた。渡りの先に鋭い視線を走らせる。


「もうバレたか…。かぐや姫、また来る。今度はおまえが気にいるものを土産に持ってこよう」


 男はそう言い残すと、部屋を出ていった。


「待ちなさい!」


 不審者をこのまま見逃すわけにはいかない。かぐや姫はすぐに追いかけた。が、時すでに遅し。男は跡形もなく消え去っていた。

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