第8話 牛乳瓶、そして暖簾

「先生」


 部活が終わり、ついでに「月見荘」の温泉でさっぱりしてきた都築つづきは風呂上がりの待合室で声を掛けられ、顔をあげた。赤縁眼鏡のカルタ部部長、奥山鹿音かのんが皮張りのソファに座ってこちらを見上げていた。


「奥山さんも入ってたんだ?」


 都築の問いかけに、鹿音はこくりと頷いた。ラフな家着に身を包み、髪を下ろしている彼女は、少しだけいつもの威圧感が薄れて見える。かばんの整理でもしていたのだろう。周りにはお弁当箱やカルタの札が入った箱が散乱していた。


 都築の視線に気が付いたはずの鹿音は、しかし、特に気にした様子もなく整理整頓を再開した。


「もともと入ってたのに、入らなくなってしまって」

「あー、あるね」


 鹿音自身は気にしてなさそうだが、女子高生のカバンの中身をじろじろ見るのはやはり気が引ける。都築は首から下げたタオルを両手で引っ張りながら、低い電子音を響かせ、「よく冷えてまっせ」アピールをしている自販機に向かって歩を進めた。


「奥山さん何がいい?」


 自販機の前で、そう少女に声を掛ける。声に反応し、振り向いた鹿音は、しかし、


「大丈夫です」


 と秒で断り、カバンの中身を出したり入れたりの作業に舞い戻ってしまった。これには都築もさすがに苦笑いだ。


「遠慮しないで。今日だけ、特別に」


 これから彼女は家に帰らなければいけない。部室が使えなくなって、一番「月見荘」から家が遠かったのは鹿音だった。自転車で帰れる距離ではあるものの、いつもより部活が負担になっていることは間違いない。だから、せめて一杯くらいご馳走させてほしい。


「オススメは牛乳。瓶で飲むといつもより美味しい気がするんだよね。それかコーヒー牛乳」


 そう言って、あまたの女性たちを骨抜きにしてきた爽やかスマイルで押し売りすると、鹿音は少し困惑したように眉をひそめたが、ようやく渋々頷いた。


「…じゃあ、コーヒー牛乳を頂いても良いですか」

「もちろん」


 都築自身は牛乳にした。冷気が掌を伝って火照った体を冷ます。昔から牛乳が好きという訳ではなかったが、風呂上がりのこの牛乳に出会ってからすっかりハマってしまった。「小うさぎ亭」に寄らない時は、いつも決まって瓶の牛乳を飲んでから帰るようにしている。


 綺麗な顔に似合わず豪快にぺろりと飲み干した都築の横で、手に持ったコーヒー牛乳を戸惑いながら口にした鹿音は、少しだけ目を見開いた。


「美味しい…!」


 お世辞なんか微塵も言わなさそうな鹿音に言われると余計に嬉しい。都築はまるで自分が作ったコーヒー牛乳が褒められたかのようにソファにふんぞり返った。そして、ちょうど若槻わかつききょうが廊下の角から、こちらにやってくるのが見えたので、上機嫌のまま軽く手を上げた。


「若槻くん」

「お、かぐやちゃん」


 気のいい大型犬のように無邪気に駆け寄ってくる暁。尻尾が生えていたらぶんぶん振り回しているに違いない。その姿を想像したら、少しかわいい。


 …いやいや。想像するな。


 都築は頭をぶんぶん振った。カムバック平常心。わざとらしく咳払いする。


「んんっ…若槻くん…和室、借りられて助かった。本当にありがとう」


 女将にもお礼は言ったが、何度言っても言い足りない。気持ちばかりにはなるが使用料を払うと言ったにも関わらず、頑なに断られ、結局タダで貸してもらっている。


「役に立てたなら良かった。お袋もさ、久しぶりに和室を使ってもらえて嬉しいみたい」


 そう言って、暁は子供っぽく、にっと笑った。都築は無意識に胸を抑えていた。なんだかこの笑顔は心臓にくる。少したじろぐ都築の隣で、今度は鹿音が深々と頭を下げた。


「カルタ部部長の奥山鹿音と申します」

「あっ、はい。ここの、「月見荘」の一人息子若槻暁です…?」

「この度は立派なお部屋を貸して頂きありがとうございました」

「いやいやそんな、誰も使ってないんで」


 鹿音の仰々しい態度に、今度は暁がたじろぐ番だった。助けを求めるように都築をちらり見る暁に、都築は意地の悪い微笑を返す。いいぞ、鹿音。もっとやれ。


「おにぎりまで準備してもらって。請求書いただけませんか。お支払いします」


 暁はぶんぶんと首を振った。


「お金なんて全然! 全部うちが好きでやってるだけだから」

「そういうわけには」

「いいんだって。それよりもさ、美味しかった? おにぎり」

「えっ、はい。とても美味しかったです。みんな喜んでました」

「なら良かった。一つだけからあげが入ってたらしいんだけど」

「あー、私食べました」


 暁は声をあげて笑った。

 

「びっくりしたでしょ。お袋そういうところあるんだよな」


 暁は人を自分のペースに巻き込むのが上手い。空気を読まないというか、読んでいるうえで変えてしまうというか、むしろ空気そのものというか、なんというか、なんともいえない。だけど、まったく嫌な感じがしないからみんなから好かれる。都築にもそれは分かる。


 鹿音が次の一手を繰り出す前に、暁は「そういえば」と話題を変え、都築にまっすぐ視線を向けた。その視線はほんのり熱を帯びている―ような気がしたが気のせいだろうか。


「かぐやちゃんの声、すんごくきれいだった。なんか吸い込まれそうっていうか」


 都築は、部活中、暁をしばらく部屋に留め置いていたことを思い出した。試合がもうすぐ終わりそうだったので、人の出入りでみんなの集中力を途切れさせたくなかったのだ。


 そのときに都築の詠みを聞いていたのだろう。都築は自分でもそこらの人間よりは上手いと自覚していたので、暁に褒められて悪い気はしなかった。


「先生はとても上手だと思います。聞き取りやすいし、リズムも一定で、すごく、取りやすい」


 鹿音にも褒められた。良い気しかしない。なぜだか暁が嬉しそうに瞳を輝かせた。


「かぐやちゃん、やっぱり上手なんだ! 言葉の意味は分かんないのにさ、場面が浮かぶっていうか、なんか、すごい説得力だったんだよね」


 そんなことを言われたのは初めてだ。都築は胸がむず痒くなるのを感じた。

 隣に立っていた鹿音が、ふいに腕を組み、口元に手を当て、少し何かを考える素振りを見せた。何事かと様子を窺っていると、突然、鹿音は自分のカバンに入り切らなかったカルタの箱を拾い上げ、それを暁の前にずいっと差し出した。


「はい」

「えっ」

「はい。持って」

「は、はい」


 困惑する暁をそのまま放置し、鹿音はカバンからクリアファイルを取り出した。そこから2枚の紙を引き抜き、またしても暁に「はい」と差し出した。


「こっちが百人一首の覚え方の虎の巻。『うっかりハゲ』とか聞いたことあるよね。決まり字の変化もこれで分かるから。そして、こっちが入部届」

「あの」


 何が何やらな様子の暁を無視し、鹿音は都築を見上げた。


「札、若槻くんに貸し出してもいいですよね。部室に予備まだありますし」

「それは構わないけど…」


 そう言って暁の方を見ると、暁は嬉しそうな困ったような、なにやら複雑な表情を浮かべていた。困ったようなは分かるが、嬉しそうなということは、案外まんざらでもないということだろうか。意外だなと瞬く。


 鹿音がいつもの無表情で淡々と頭を下げた。


「では、お疲れ様でした。お先に失礼します。若槻くん、明後日また宜しくお願いします」


 困惑する男二人を置き去りに、この混乱を巻き起こした当の本人は、全てがきれいに収まったカバンを軽やかに肩に掛け、さくっと立ち去った。


「「お疲れ様です…」」


 都築と暁は鹿音の後ろ姿が見えなくなるまで並んで見送っていた。二人とも突然の展開に何だか圧倒されて、しばらく無言のまま突っ立っていた。結局、空気を読まない鹿音が最強なのだということが証明された。


 前を向いたままの暁がぽつりと呟く。


「明後日、またかぐやちゃんの詠みが聞けるのか」

「だったらどうした?」


 暁が振り向く気配につられ、都築も振り向いた。目が合った瞬間、少年の目元に言いしれぬ優しさが宿った。都築にはそう見えてしまった。


「早く明後日がくればいいのに」


 じゃあまた、と言い残し、暁は浴場に去っていった。もともと風呂場の掃除、点検に向かうためにここを通っただけだったのだろう。


 都築の視線は追いかけていた。振り返らない暁の後ろ姿を、そして、暁が揺らした男湯の暖簾を、そこにはもう暁はいないのに、ずっとずっと見つめていた。全部、無意識だった。


 結局、大きな古時計が、その成りどおりの貫禄ある鐘の音で、時が来たことを告げるまで、都築はその場に立ち尽くしていた。

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