第7話 緩急
「それではごゆっくり」
いつもの癖なのだろう。和室にカルタ部の面々を案内した女将はそう言って襖をそっと閉じた。
その瞬間、緊張の糸が切れたように一年生の小倉ミオがへたりこんだ。
「緊張した〜。女将さんなんて初めて見たよ〜」
「なんでよ、
おかしそうに言ったのは同じく一年の天野リサだ。彼女はこの近所に住んでいて、「月見荘」はもちろん、
「ここって若槻くん
唯一の二年で男子部員、
部屋の広さは三十五畳。学校の和室よりも断然広い。最近は使っていないと聞いていたが、埃一つなく、空気も淀んでいない。
普段から手入れを欠かしていない証拠だ。
床の間には花菖蒲が生けられ、開きかけの蕾がつんと上向いていた。その凛々しさとは対照的に、掛け軸にはなんだか緩いアマガエルが飛び跳ねており、女将のお茶目な遊び心を感じさせた。
部屋を一通り眺めた
(「まずは競技かるたの説明をするべきだったか…?」)
競技かるたといえば、「かるた」と雅な名はつくものの、「畳の上の格闘技」とも称されるほど、実は激しい競技である。
詠みとともに、弾けるように伸ばされた手と手が
万一ぶつかりあうようなことがあれば、突き指、骨折は普通にするし、ジャージの膝部分が擦り切れるのはもちろん、畳もいつの間にか擦り減っていく。勢いよく飛んでいった取り札が障子に突き刺さることもままあった。
もはやスポーツと言っても過言ではない競技かるたのことを、女将はきっと知らなかったに違いない。知っていたら、果たして部屋を貸してくれただろうか。
ここは、「競技かるた」をするには少し上品すぎる。
都築は内心焦りながら、隣で静かに佇む少女をそっと見下ろした。赤縁眼鏡の隙間から垣間見えるその瞳には珍しく感情が宿っている。カルタ部部長、
その瞬間、都築の遠慮はすっかり吹き飛んだ。女将には悪いが、生徒の笑顔には変えがたい。気合いを込めて手を叩く。乾いた音がみんなの視線を一斉に集めた。
「よし! 思う存分練習しよう」
「「はい!」」
◇◇◇
「
都築の朗々とした声が和室に響く。
百人一首十二番目のこの歌の作者、
だから、現代と地続きのありし日の過去に、二人が交わした愛が本当にあったのか、あったとすればどんな風に愛し合っていたのか、なんてことは、極論、当の本人たちにしか分からないのである。
この歌は場に無い札、つまり、
「をとめの姿 しばしとどめむ」
緩んでいた空気が再び一気に張り詰める。都築の口から発される以外の音は、今、この場に存在しない。鹿音たちは体中の全神経を耳に集め、次の句の第一音を拾うことに集中している。都築は絶妙のタイミングで息継ぎをした。
「何し負はば―」
「
全員がほとんど同じタイミングで動いていたことに、都築は思わず口元を緩めた。一年生も決まり字の変化にきちんと対応できている。カルタ部顧問を始めてまだまだ日は浅いが、指導の効果は着実に現れ始めている。
勢いよく飛んでいった札たちをそれぞれが並べ直すのを待っていると、遠慮がちに襖が開き、
「これ、お袋から」
と、三角おにぎりの載った大皿を近くの長机にそっと置いた。そして、音を立てぬようゆっくり立ち上がり、そのまま出口に向かおうとする。都築は暁に向かって無言で指を差した。そしてその場に座るように手振りで指示した。
試合は終盤にきていた。部員たちは既に札を並べ直し終わり、次の句が詠まれるのを神経を研ぎ澄ませて待っている。
競技かるたには絶対に音をたててはいけない瞬間がある。
暁がいくら静かに動いているつもりでも、今の彼女たちは少しの音も聞き漏らさない。すり足の足音はもちろん、衣擦れの音でさえも聞き漏らさない。雑音はどちらが札を取るかに影響を与える。だからこの試合が終わるまで、若槻にはここでじっとしておいてもらう。
そんな意図など知る由もなく、困惑の表情を浮かべながらもおとなしくその場に正座した暁に、都築は人差し指を自分の唇の前にたて、「静かにしておけ」と目配せした。そして、軽く息を吸い、「何し負はば」の下の句を詠みあげる。と、同時にみんなの緊張感がピークへと向かっていく。都築は次の読み札をめくった。
「月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ―」
その瞬間、限界まで膨れ上がった緊張のバルーンが一気に弾け飛んだ。緊張と緩和、競技カルタはこの繰り返し。頭も使うし、体力も使うし、何より精神が疲弊していく。それは詠み手だって同じだ。一定のリズムと間を保ち、何十枚もの札を詠み続けるのはかなりの集中力を要する。
だから、都築は気づかなかった。自分を見つめる暁の視線に。熱を帯びた頬と速駆ける心臓の鼓動に。都築は気付けなかったのだ。
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