第6話 小うさぎ亭

「はぁ〜」


 都築つづきの喉を琥珀色の液体が潤す。空になったグラスを、手に持ったまましばらく見つめ、机に置きもせず、そのまま瓶ビールを注いでいく。もう何杯飲んだろうか。考えても意味がない。そのn杯目を早くも流しこもうと軽く唇を尖らせたそのとき、目の前におでん盛り合わせがすっと差し出され、都築は手を止めた。湯気もくもくの熱々おでんである。


「かぐやちゃん、何かあった?」


 すっかり聞き慣れた声に顔を上げるとカウンター越しに、若槻わかつききょうが心配そうに覗き込んでいる。


 ここは、温泉旅館「月見荘」に併設された居酒屋「小うさぎ亭」。「月見荘」の女将、つまり暁の母親が「月見荘」とともに一人で切り盛りしているこじんまりした居酒屋だ。女将不在のときには、今夜のように息子の暁が代わりに店に立つこともある。もう長いことこのスタイルでやっているのだろう。エプロンにバンダナ姿の暁は様になっていた。


 結局のところ、都築は裸の家庭訪問以降も「月見荘」に通い、さらには「小うさぎ亭」にて夜ご飯を食べて帰るまでの常連になっていた。


 ……だって仕方がないのだ。家からすごく近いし、温泉は気持ちいいし、そして、ご飯も最高にウマいのだから。


「おっ、先生、なんか悩みでもあんのかい」


 もはや「小うさぎ亭」での顔馴染みとなった佐藤のおっちゃん―暁がいつもそう呼んでいる―が赤ら顔で都築に箸を向けた。いつものことながらだいぶ酔っているらしい。佐藤の肘が、空になったとっくりをひっくり返す。三人しかいない居酒屋に、コツンと乾いた音が、響き渡った。


「も〜、飲み過ぎだよぉ」


 そう言って、暁は転げたとっくりをカウンター越しに手際よく回収し始めた。回収しながら都築の方をちらちらと見ている。都築に何があったのか気になっているのだろう。


 普段、都築は他人に愚痴を零さない。言ったところでどうにもならないからだ。だから、今回も何かを期待したわけではなかった。だけど、珍しく零してみる気になって、小さく息を吐いた。


「悩みっていうか…不甲斐ないっていうか…」


 手に持ったまま結局減らずじまいのビールをそっとテーブルに置く。実はそれほど酒に強くはない。結露したグラスを長い指でなぞると、滑り落ちた水滴がコースターにぽつりと染みを作った。


「実は、部室が使えなくなってしまって、困ってるんです」


 都築の言葉に、暁が小首を傾げた。


「部室ってカルタ部の? かぐやちゃん、たしかカルタ部の顧問だったよね」

「なんで知ってるんだよ」

「なんでって、そりゃ担任の先生の部活くらい知ってるでしょ」

「俺の自己紹介の時寝てたのにぃ?」


 都築の糾弾に、暁は気まずそうに首筋を掻いた。


「それはごめんて。だから…ふふ、ほっぺた膨らませないで」

「なっ!」


 暁は自分の肩に顔を埋め、小刻みに震えだした。どうやら笑いをこらえているらしい。都築はむっとして軽く睨みつけた。


「別に膨らませてない」

「膨らんでたよ」

「俺はそんな怒り方しない。子どもじゃあるまいし」

「いやいや、ぷくぅってしてたし」


 そう言って暁はついに吹き出した。何がそんなにおかしいのか、目尻には涙まで浮かべている。笑いすぎだと一言言ってやろうと口を開きかけたその時、赤ら顔の佐藤が暁に箸を向けたので、都築は結局言い返せなかった。


「おいぃぃ、おじさんを除け者にするなぁ!」

「あっ、ごめんごめん〜」


 暁の軽めの謝罪を佐藤は真摯に受け入れたようだった。そして、いまいち定まらない箸先を今度はキュッと都築に向けた。


「で、先生は? 部室で悩んでるって?」

「おー、そうだった」


 ひとしきり笑った暁が真面目な表情を取り繕って都築に視線を寄越した。口元にはまだ笑みが残っている。都築は忌々しげに暁を睨み返すと、いい感じに目の座った佐藤に返事した。


「茶道部と一日交代でしか使えなくなってしまったんですよ。予選前なんで本当は一日だって無駄にしたくないんですが…」


 そう言いながら、都築は鹿音かのんの顔を思い浮かべた。


 今日の彼女は、いつもならありえないミスばかりしていた。宇喜多高校のカルタ部部員として出られる最後の県予選。三年間真面目に部活を続けてきた彼女だ。きっと並々ならぬ思いがあるだろう。だから、突然こんな理不尽なことになって、怒りが湧いたり、やけになったりしてもおかしくない。


 それなのに、それでも、彼女は都築を責めなかった。彼女は静かに現実を受け止めようとしていた。受け止められてはいなかったが、一生懸命受け止めている振りをしていた。その姿に都築の胸は痛んだ。大人である自分がこのまま指を咥えて見ているだけだなんて、そんなのはあまりにも不甲斐ない。


「近くのお寺とか、畳のありそうなところには電話しました。だけど、全部は確保できそうになくて」


 一日でも借りられるところはすでに押さえた。明日も引き続き探すつもりだ。しかし、学校から離れすぎると、それはそれで生徒の負担になる。そして、部費だって限られている。全ての条件を満たすところを探しきれるだろうか。来週にはもう満足に部室を使えなくなってしまうというのに。


 酔いはすっかり覚めていた。今の自分は理想の教師には程遠い。己のいたらなさに思わず歯噛みする。


 その時だった。


「だったら、うちを使えば?」


 天からの思わぬ言葉に、はっと顔を上げると穏やかな笑顔の暁と目が合った。暖色の電球が照らす暁は不思議といつもより大人びて見える。


 ぽかんと口を開けたまましばらく見つめていると、暁が気恥ずかしそうに目を逸らした。


うち、一応旅館だから広めの畳の部屋あるんだ。今はお客さんも減って、ほとんど使ってないけど。だから、お袋に聞いてみるよ」


 おそらく宴会用の部屋があるのだろう。カルタ部は総勢五人。自分を入れても六人。広さはきっと十分だ。それに、ここなら学校からも近い―


 都築は思わず立ち上がった。


「是非、お願いしたい!」


 暁はなんだか嬉しそうにはにかんだ。佐藤はいつの間にか机に突っ伏していた。大きないびきが小さな居酒屋にけたたましく鳴り響いていた。

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