第3話 月見荘
今宵は新月だ。うしかい座の一等星アークトゥルスが、一際輝く春の夜空を見上げ、仕事帰りの
(「なんだか前途多難だな」)
教師生活二日目。自分で望んだ仕事とはいえ、教師というのは結構大変な仕事だ。
基本的には学生よりも早く学校へ来ているし、各クラスのレベルに合わせて授業の方針を決めるのはもちろん、時には個人で所有している資料を持ち出してまで生徒の興味関心を引き出すことだってある。生徒のために何かをやろうと思えば、いくらでもできてしまって、いつまでたっても時間が足りない。
特に、宇喜多高校は普通科高校ではあるがとっても田舎の高校なので、塾なんてものに通う生徒もそれほど多くなく、学校という場所が大部分の生徒にとって学力向上に勤しむ最大の場となっていた。すると、必然的に教師の負担は大きくなる。
時間外の生徒の質問にももちろん対応するし、宿題もそれはそれはたくさん出す。その宿題の内容を考えるのも、翌日回収した宿題を採点するのも全て教師の仕事だ。
それだけでも新米教師には不慣れで手こずるというのに、都築は部活の顧問も引き受けてしまっていた。
昨年までの顧問は、百人一首を少し覚えている程度で、実際に競技かるたをやったことはなく、指導らしい指導は一切してこなかったらしい。都築は大学時代に競技かるたのサークルに所属していた。それなら、自分がやったほうがマシかと思い、引き受けたはいいものの、少ない部員の中でレベルの差が大きく、どのレベルに合わせて教えていけばよいのか、早くも頭を抱えている。
そして何より、
(「『
都築は最大の厄介事を思いだし、思わず天を仰いだ。
昼休み、暁の夢の話を聞かされた自分は一体どんな顔をしていただろう。そもそもどうしてわざわざ夢の話をしてきたのだろうか。話を聞かせて、彼はなんと返してほしかったのだろうか。一体何を求めていたのだろうか。とりあえず話を聞くだけ聞いたが…。
電灯にぶつかる蛾の羽音が夜空に響く。その様子を遠目に見ながら、都築はすんと鼻を鳴らした。
あいつはあれで満足したのかな。
「なんだかすっきりしてたし、あれで良かったんだな、きっと」
そう自問自答した都築は、肩に掛けた少し大きめのトートバッグに視線を落とした。中には仕事道具の他にタオルと着替え一式が入っている。
「俺もすっきりしよう」
誰にともなく呟くと、都築は「月見荘」と書かれた赤い暖簾をくぐり抜けた。
◇◇◇
この街は知る人ぞ知る温泉街である。知る人ぞ知るというと、通好みの隠れた穴場のような響きがするが、ただ単に温泉街というにはこじんまりとしていて、観光地というよりは保養向け。住宅地に紛れて小さな旅館がぽつぽつと散見する、地元の人間御用達の今にも世間から忘れ去られそうな寂れた温泉街である。
今更ながら、都築はこの街の出身ではない。なんならこの県の出身ですらない。着任が決まって、生まれて初めてこの地に足を踏み入れ、田舎特有の、家賃の割に無駄に広いアパートを借りてひっそりと一人暮らししている。
「月見荘」は都築が引っ越してきてすぐに、近所を散策して見つけた小さな温泉旅館だった。木造で、ゆうに築数十年は経っていそうな古びた外観だが、玄関周りを見る限り、すみずみまで手入れが行き届いていて管理する人間の気配りを感じさせる。引っ越してきたときから都築はそのうち行ってみようと心を決めていた。
靴を脱いですぐの受付。そこには人が居らず「大人300円、こども150円」と書かれた穴の空いた木箱が置かれていた。その横には呼び鈴があり「御用の方はこちらを押してください」と手書きのメモが添えられている。待合室も覗いてみるが、ここにもやはり誰もいない。
(「違ったら帰りに確認すればいいか」)
都築はおそるおそる300円を木箱にいれ、「男湯」と書かれた暖簾の先へ進んでいった。
◇
温泉には先客がいた。一人の御老体が微動だにせず打たせ湯を浴び続けている。洗い場で体を綺麗にした都築は、地蔵のようなその先客に軽く頭を下げ、隣の湯船にちゃぽんと浸かった。
「月見荘」の男湯には4つの浴槽があった。打たせ湯がある大きな浴槽。これが一番大きくてこの温泉のメインといった感じだ。その隣、都築の入っている浴槽は少し小さく温度が高め。入り口近くのサウナの正面に水風呂があって、浴場の奥には露天風呂への道が続いている。
源泉掛け流しの弱アルカリ性単純温泉。効能は筋肉痛・神経痛の緩和、疲労回復、美肌効果などなど。さして珍しくもない普通の温泉。しかもなかなかの年季っぷり。
だけど、手入れはやっぱり行き届いている。浴槽付近はもちろん排水口にシャンプーボトル、風呂桶の裏側まできっと毎日清掃されていて、清潔感が漂っている。都築は浴槽でぐっと大きく伸びをした。
(「んー気持ちいい…! これは通うな」)
壁際にもたれ目を閉じる。少し熱めのお湯が今の都築にはちょうど良かった。全身の力を抜き、頭を空っぽにして温泉と同化する。体の外側から内側にかけてじんわりと温まってきた。気持ちよさと熱さの狭間で思わず吐息が漏れる。
都築がしばし一人の世界に浸っていると、入り口の引き戸が開く音がした。目は開けずに耳だけそばだてる。浴場に入ってくる足音が一人分。新しいお客さんだろうか。
「おっ、比良坂のじいちゃん、今日も打たれてるね。湯加減はどう?」
声をかけられたらしい打たせ湯の老人は、ふごふごと何やら応えている。方言がきつくて都築には聞き取れないが、二人の会話は成立したらしい。
「良かった。ゆっくりしてってな」
この温泉の関係者なのだろうか。溌剌とした声の感じからすると20代、いや、都築よりも若そうだからひょっとすると10代…。いやいや、そんなことより何より、都築はこの声に聞き覚えがある。
木製の風呂桶がぶつかる音が浴場に反響した。都築は恐る恐る目を開ける。黄色いTシャツに首からタオルを掛けた少年が椅子と風呂桶を回収して回っている。その後ろ姿だけで都築の疑念は確信へと変わった。そして、答え合わせでもするかのように、抜群のタイミングで少年が振り返った。
「若槻!?」
「かぐやちゃん?!」
覚悟は出来ていたのに都築は結構驚いた。驚いた勢いで立ち上がる。「なんでここに?」と言い掛けたその瞬間、目の前がぐらりと揺れた。
―あれ…?―
どうにも視点が合わない。耳鳴りもする。黄色いTシャツが慌てたように駆け寄ってくるのをぼんやり確認したのを最後に、都築の意識は水飛沫を上げ、湯船の中へと沈んでいった。
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