第2話 夢の前世

 桜舞う波乱の始業式、その翌日―


「かぐやちゃん、昨日はごめん!」


 お昼休みの職員室。顔の前で手を合わせ、叱られた大型犬のようにしょぼくれる若槻わかつききょうを前に、都築つづき輝弥てるやはコンビニのおにぎりを食べる手を止めた。


「今、昼休みなんだが?」

「オレはもう食べたから、気にしないで」


 本心からそう言っているらしい暁に、自然と都築の視線が鋭くなる。


(「俺がこれからなんだわ! あと、かぐやちゃんって呼ぶな!」)


 思わず出そうになった強めの言葉を慌てて飲み込み、食べかけのシャケにぎりは机に置いて、しぶしぶ暁に向き直る。


「『ごめん』て何が?」


 そうは言ったものの、何のことか察しはついている。どうせ、昨日の爆弾発言「俺たち付き合ってただろ」についてだろう。おかげで最後の渡辺の自己紹介が全く頭に入ってこなかった。若槻の言葉に動揺した自分を思い出すと無性に腹が立ってきて、都築は膝の上に置いた指を無意識に連打していた。


 暁はそれを自身への苛立ちと受け取ったようだった。ただでさえシュンとしていたのにより一層シュンとして育ち盛りの体をぎゅっと縮こませている。


「いや、あの、昨日のあれ…」

「あぁ…」


 ほら、思ったとおり。都築はわざとらしく椅子にふんぞり返る。


「アレね。若槻くんが寝ぼけて俺のことを元カノと勘違いしたアレね」

「うっ…」


 一瞬クラスをざわつかせたあの発言も、そのあとすぐに「暁が寝ぼけていた」ということでクラス中があたりまえに納得した。一部の女子はなぜだかがっかりしていたが、都築からしてみれば当然の結果だ。かくして冤罪は防がれた。


 昨日は始業式だったので午前中で学校は終わっていた。それから暁と話すこともなかったのだが、まさか翌日にわざわざ謝りにくるとは。意外と律儀な性格らしい。


 目の前の暁は気まずそうに俯いていた。昨日はあんなに堂々としていたのに、今は心なしか顔が赤らんでいる。そのあまりにも気にしているらしい様子に、ちょっと嫌味が過ぎたかなと都築はほんの少しだけ反省し、軽く咳払いした。


「まぁ、失敗は誰にでもある。これからはあんまり夜更ししないことだな」


 男子高校生というやつはどれだけ遅くまで起きていたか、どれだけ寝ていないかでマウントを取り合う不思議な生き物だ。聞きたい深夜ラジオ、初めてできた彼女との長電話、誰にも言えないあんなことやこんなこと。なかなか寝られないのは寝てしまうのが惜しいからだろうか。それとも―


(「俺は寝るのが怖かったけどな…」)


 都築は自身の高校時代に思いを馳せた。眠りにつくのが怖かったあの日々に。


「うん! 昨日は爆睡した!」


 暁の心底嬉しそうな声に、都築は少し飛び上がり、我に返った。目が合った瞬間、茶色みがかった暁の瞳に吸い込まれそうになる。だから、とっさに目を逸らした。暁の迷いのない視線は妙に心臓に悪い。都築は無意識に胸を抑えた。


「そ、それは良かった。昨日のことはもう気にしなくていいから。戻っていいよ」


 これにてこの話は終わり。これ以上続ける必要もない。早くしないと昼休みが終わってしまう。心臓の鼓動はまだ少し浮ついている。都築は胸を軽くさすると、そのまま食べられ待ちのシャケにぎりに手を伸ばした。ようやく昼飯にありつける、そう思った矢先に、またしても頭上から声が降ってきた。


「かぐやちゃんだったんだ」


 窓の外、満開の桜が飛ぶ鳥に散らされ、はらはらと宙を舞った。暁の声はとても穏やかだった。


「オレさ、最近同じ夢を何度も見てたんだ。好きで好きでしょうがない人の隣にいる夢。夢の中でオレはすごく幸せなんだけど、目が覚めたらその人の顔も名前も全然思い出せなくて。そしたら、その人のことばっか考えちゃって夜寝られなくなってた」


 暁の声は次第に大きくなっていた。都築は周囲を見回した。


「だけど、昨日かぐやちゃんに会ってやっと分かった。夢の中でオレがどうしようもなく大好きな人、それは―」


 次の言葉は文脈で分かる。同僚の教師たちが怪訝な顔でこちらを見ていた。これはまずいっ。


 気がつけば、暁の腕を引っ張っていた。


「まてまて。ちょっとこっち来い」

「?!」


 都築は暁の腕を握ったまま職員室を飛び出した。途中、すれ違った学年主任に「何事?」という視線を向けられたが、そんなの構っていられない。廊下を走らないようにできるだけ大股で、ぐいぐい暁を引っ張っていく。なんとか人気のない渡り廊下まで連れ出したところで、都築はようやく息を切らして立ち止まった。


「かぐやちゃん、強引」


 そう言ってにこにこ笑う暁の、そこそこ太い腕を都築はぞんざいに放り出した。


「おまっ―」


 そこまで言って慌てて口を覆う。生徒に向かって危うく「おまえ」だなんて口を利くところだった。理想の教師はそんなこと言わない。『ブラック都築』は封印せねば。咳払いをしてなんとかごまかした。


「若槻くんが突然妙なことを言い出すから」


 そう言ってちらり見た暁の顔には、すでに笑みは消えている。不安げな表情をした少年と目があった。


「あのさ…本当にオレのこと覚えてない? いや、正確にはオレだけどオレじゃないっていうか…」

「はぁ……そんなこと言われてもな。だって、おま…んん、若槻くんの夢の話だろう?」

「いや、そうなんだけど、そうじゃないっていうか。夢っていうか前世の記憶っていうか…」


 暁は何やらごにょごにょ言っている。ピンと来てない様子の都築に、どう説明したものやら悩んでいるようだった。


 都築と暁の背丈は同じくらい。だけど今、悲しそうに都築を見上げる暁はなんだか一回り小さく見えた。その姿に都築の胸がチクリと傷む。別に都築は何も悪いことなどしていない。だから、胸を痛める必要は本来はない。そう、ないのだが。


「頼むからそんな目で見てくれるなよ…」

「ごめん、そうだよね…」


 そう言って、噛みしめるように繰り返し頷く少年は、無理矢理自分を納得させようとしているように見えた。また少し胸が痛む。しかし、残念ながら都築が言えることは他には何もない。これにて本当に話は終わり。決まり悪く頭を掻き、一言声を掛けてその場を去ろうと身を翻した瞬間、強い力で腕を引っ張られた。


「―っなんだ」


 よろめきながら睨みつけた先には、ただただ必死な暁少年がいた。


「それでも! かぐやちゃんには聞いてほしい!」

「何を!(腹減った!)」


 暁の大声に都築も負けじと言い返す。しかし、暁は怯まなかった。


「オレが繰り返し見てた夢。男の人と女の人が星空を眺めてるいっつも同じ夢。男の方はオレで、多分だけど、これは前世のオレなんだ―」


 話を聞きながら、都築は掴まれた腕を離してもらおうとやんわり試みていたのだが、逆にきつく掴み返された。暁の手は案外大きいし力も強い。


「そんで、かぐやちゃんを見て電流が走った。まじでビリビリってきた。オレは思い出したし、分かったよ。夢の中のオレの好きな人はかぐや姫で、その生まれ変わりがかぐやちゃんだ。オレとかぐやちゃんは前世で恋人だったんだよ!」

「正気か!?」


 本当に正気で言っているのか。こんな話を突然されたら、百人中百人がそう思うだろう。だから都築もそう言った。呆れ果てた都築の声にも構わず、暁は言いたいことを言ってスッキリしたのか、弾けんばかりの笑顔を見せた。


「正気、正気! 昨日はさ、久しぶりに夢見なかったんだ。今思うと、かぐやちゃんとこれから出会うっていうお告げだったのかも」


 都築は絶句した。この少年に自覚はないのだろうか。自分が恥ずかしげもなく、とんでもないことを言っていることを。それにこの表情はなんだ。ほんの少し前までシュンとしていたのに、今ではもう無邪気に笑っている。まるで犬。しかも気のいい大型犬。三角の犬耳にふわふわぶんぶんの尻尾まで見えてきた。


 一瞬脳内を占拠した不純な幻想。我に返った都築は暁に掴まれていた腕をようやく振り払った。


「―ま、まぁ、話は分かった。若槻くんがそう思うのは個人の自由だけど、あんまりそれ人には言わない方がいいと思うぞ」

「うん、分かった! 二人だけの秘密な」


 口元に人差し指をあてなんだか嬉しそうに目配せする暁に、都築は小さく唸り声をあげる。


「なんか違うけど…まぁ、いっか」

「ねぇ、かぐやちゃん」

「あと、それ!」


 都築はビシッと暁を指差す。


「俺の名前は『』だ。『かぐや』じゃない」

「「かぐや先生〜」」

「だからっ―」


 てるやだ、と言いかけて声のしたほうへ振り向くと、そこには2年3組の生徒である相田と上野が仲良く連れ立ち、渡り廊下を歩いていた。腕には音楽の教科書を抱えている。相田が首を傾げた。


「あれ? 暁くんもいるじゃん。次、移動教室だよ」

「「?!」」


 次の瞬間、少女たちの後ろからぞろぞろと連れ立って生徒たちがやってきた。2年3組、本日午後一発目の授業は「芸術」だ。音楽、書道、美術のどれか1つを選択し、授業はそれぞれの場所で受ける。ゆえに、教室を移動しなければならないのだが、ということは、つまり…。都築は腕時計に目をやり、軽く叫んだ。


「昼休みが終わるっ!」


 時刻は始業開始3分前。都築は都築で2年5組の国語の授業が控えている。今から職員室に戻り、授業道具をひったくり、急ぎ足で向かえばなんとか間に合う。だが…。


(「グッバイシャケにぎり…」)


「かぐやちゃん、またね!」


 手を振る暁はいつの間にかすでに遠い。今日も今日とて暁に振り回されている。都築の教師生活は始まったばかり。自分でも分かる雲行きの怪しさに、都築はがくりと肩を落とした。

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