第1話 春うらら夢うつつ

「おはようございます。今日からこのクラスの担任になりました『つづきてるや』です。担当科目は国語。カルタ部の顧問もやります。年齢は上ですが、この学校ではみんなの方が先輩。なのでいろいろ教えて下さい。これから宜しくお願いします」


 そう言って軽く頭を下げた青年を拍手の音が包み込む。ここは県立宇喜多高校。今日から始まる2年3組の初ショートホームルーム、その真っ最中である。


 拍手が鳴り止む頃合いで、青年は教壇に手をついた。


「今度はみんなの自己紹介をお願いします。趣味や部活、得意科目、好きな食べ物、なんでもいいから一言ずつ。じゃあ、相田あいださんから」


 そう言って青年は出席番号一番の少女に微笑んだ。指名された少女はしどろもどろに返事をしながら慌ただしく立ち上がった。


 少女の頬は紅く染まっていた。無理もない。昨年、彼女の担任は定年間近のお爺さん先生だったのだ。ギャップがエグい。


 新しい担任は大学卒業したて。新任の先生で若々しく、かと言って同年代のクソ男子どもには出せない落ち着きがあり、始業式ということもあるだろうがビシッと決めたスーツ姿は、うら若き女子高生には刺激が強すぎだ。


 加えて特筆すべきはその美貌だ。濡羽色の髪、形の良い眉、どちらかといえば垂れ目な二重眼ふたえまなこに優しさを感じさせる長いまつげ、気持ち控えめな鼻と口は見る者に謙虚さを与え、そして何より、透き通るような肌の白さ。もう、ため息が出ちゃう。


 そんなことを考えていたので、相田女史の自己紹介は必然的にこうなった。


「相田はるか16才、来月には17才。私の好きなものは…先生です!」


 その瞬間、クラス中からどっと笑いが沸き起こった。青年は一瞬あっけにとられ目をぱちくりさせていたが、周りの笑い声につられてついに吹き出した。


「相田さんって面白いね。そう言ってもらえて嬉しいよ。これからよろしく」 


 笑いすぎて滲んだ涙を、細く長い指で拭う青年の姿に、クラス中の女子生徒たちが黄色い悲鳴を上げた。美青年の笑顔と涙は時として暴力だ。2年3組の男女比率はおおよそ半々。着任したての新米教師はクラスの半数の人心を早くも手中に収めることに成功した。


(「あとは男子か。こっちはおいおい…」)


 それからも、青年はその整った顔に微笑を浮かべながら、自己紹介の一つ一つに耳を傾けていた。事前に頭に叩き込んできたので名前と席順は完全に一致している。顔と声については今日初めて知る情報だ。見ながら、聞きながら、忘れないように何度も何度も頭の中で反芻する。もちろん、そんなことしなくてもそのうち嫌でも覚えるだろう。しかし、案外真面目な性格の彼はそんな妥協を許さない。


 自己紹介は終盤に来ていた。後ろから2番目、陽のあたる窓辺に、その少年『若槻わかつききょう』はいた。


「じゃあ次…若槻くん」


 青年の促しに返事はない。それもそのはず、若槻暁はショートホームルームが始まったときから、なんなら、青年がこの教室に足を踏み入れたそのときにはもうすでに、桜満開の外をみやり、肘をついて健やかに寝息を立てていた。


 おそらく最初から寝るつもりではなかったのだろう。うららかな窓辺で桜を眺めていたらいつの間にか寝落ちてしまった、そういう感じだ。それに、目元には大きなクマがある。どうやらだいぶ寝不足のようだ。


 とはいえ、このまま黙って寝かせておくわけにはいかない。青年が咳払いするのと、後ろの席の渡辺が若槻の背中をとんとんと叩くのが同時だった。


「若槻く…」

「わっ!」


 青年の呼びかけの途中で、若槻は叫び声を上げながら立ち上がった。教室中からクスクスと忍び笑いが聞こえてくる。しかし、決して嫌な感じではない。その反応を見ても、少年が周りに好感を持たれている人物だということが容易に窺える。


 寝ぼけているのか事態をあまり把握できていない様子の若槻少年に、青年はできるだけ平静を保って言った。


「若槻くん、おはよう。早速だけど自己紹介を―」

「えっ?」


 青年を見つめ、驚いたように聞き返す少年。何か変なことでも言っただろうか。そのあまりにも真っ直ぐな視線に思わず青年は面食らった。なんとなく気まずさを感じて一瞬視線を逸らす。


「だから、自己紹―」


 少年は青年の言葉を遮った。


「もしかしてあんた…かぐや姫か?」

「え?」


 今度は青年が聞き返す番だった。今、彼はかぐや姫と言っただろうか。こちらを指差しぽかんと口を開ける少年を前に、青年の頭が猛スピードで回転を始める。そして、すぐに1つの仮説にたどり着いた。青年は、あぁと安堵の息を漏らすと、自分の背にある黒板を後ろ手で軽く叩いた。


「これかな?」


 そこには青年の名前が白のチョークで書かれている。


都築つづき輝弥てるや。たしかにかぐやとも読める。だけど―」

「間違いない…かぐや姫だ…!」


 青年の声はまたしても遮られた。どうやら青年の言葉は少年の耳に届いていないようだった。まるで、歩き疲れた砂漠でようやくオアシスを見つけた旅人のように、少年の瞳はにわかに喜びに沸いている。青年は困惑から眉間に手を添えた。


「いや、だから…かぐやでも無ければ当然姫でもない―」


 ―んだが、と言おうとして、続きの言葉はやっぱり少年に遮られた。そして、次の言葉で、青年の思考は完全に停止した。


「オレだよ、オレ! 覚えてない? オレたち昔付き合ってただろ」

「は?」


 その瞬間、教室の端々で控えめな歓声があがった。青年が笑顔を振りまいたときとはまた違った種類の歓声。その界隈ではなんとも堪らない急展開。その急展開に見悶える歓声。


 事件の発端の少年は、そんな周りの騒ぎなど気に留める様子もなく、ただひたすらニコニコしながらこちらを見ている。


 都築は心の中で白目を剥いていた。


(「終わった…」)


 未成年との淫行は立派な、いや、最低な犯罪だ。こうして、身に覚えのない犯罪事件によって、都築つづき輝弥てるや念願の教師生活は初日にしてあっけなく終わった……かに思われた。

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