14:黒い蛇
二人はまたもや互いに反対方向を向いて、しゃべり続けた。
「てか、ここ二十年くらいの記憶が無いし。最近のアタシって何してた? よくあるんだよね。一年単位で記憶がすっぽ抜けるの。いや、記憶はあるんだけど、具体的になにをしていたか思い返そうとしても、あやふやで、途切れ途切れで……あれれ? みたいな期間が定期的にあるんだ」
「平常運転さ」とアグロは答えた。「ずっといつものお前だったよ」
「ならいいけど。あ、そうだ。いまナンパ師から逃げてくる途中だったの。まっさかナンパされるとは思わなかった。ナンパ師ってホントに実在したんだって」
「どんどん話が飛ぶねえ」
「いやいや、アイツらゴキブリみたいにすばしっこいのよ。なんかカサカサ動くし、止まってると思ったら、急に飛びかかってくるし。まだ追いかけてくるかも」
「モテて大変だな」
「なにその言い方。遭ってみたら意外と厄介だったんだから。進行方向をふさいでくるし。二時間もつきまとってくるから、もうへとへと。二時間ってどれくらいかわかる? テントウムシが交尾するのにかける時間なのね? そんくらい追い回されてたの。で、家がバレるから、帰るのをやめて、こっちに来ちゃった。万貨店なら姿をくらませるのにうってつけだと思ったの、そしたら意味不明に広かった。外で見たときよりも、中に入ってからのほうがずっと広く感じる。変な場所……」
「踏んだりけったりだな。ナンパ師の見た目の特徴は?」
「うーん、黄色いシャツにジーンズ……ていうか、そのナンパ師、さっき店内でも見たかも。いまにこっちへ来るわ。どうしよう」
「だいぶ熱心なのだな」
「ねえ、カレシのふりしてくんない?」
「いやだね」
即答。
「あ、そうか。ビビちゃんと結婚するんだもんね。だめかー」
「結婚」とつぶやいた。まるで口に出した時の響きをたよりに単語の意味を精査しているみたいに。
「どうだろう」
「いや、するでしょ絶対」
「まあ、あたたかい眼で見ておいてくれ」
「姪でしょ? 微妙な関係じゃない? でも大切にしてあげて。アタシみたいな女が二度と生まれないために……」
アグロの眼は笑っていなかったが、唇だけを動かして微笑んだ。
「あの子を泣かしたら承知しないんだから。あの子はいい子だし。あの子を不幸にしたら、アンタにさんざっぱら虐められた女全員でアンタを殺しに行くんだ。それで肉のひとかけらどころか影さえも残らないんだ。そのつもりで」
「覚えておくよ」
「あーあ、いろんなことをしてあげたのに、アンタから貰ったものはなんにもない」
「いい思い出ほど都合よく忘れるんだな」
フィズィはどこか遠くを見て、肩をすくめてみせた。
「うん。そろそろ帰るかな。ビビちゃんによろしく」
帰ると決めたら行動は早かった。軽やかなステップで去っていく。振り返りもしなかった。
彼女が去った方向に、不気味な男がつけていく。男はアグロの方へ厳しく一瞥をくれたが、すぐに目を逸らした。
一瞬で不審者の特徴を把握した。
長身だが、肉を削がれて骨と皮だけになったような痩身。日焼けのために黒くなった肌。腕には時計が巻き付けてあるが、さほど高価なものではないだろう。青いハンチング帽。上は黄のTシャツ一枚。左ヒザにダメージの入ったジーンズ。真っ白いスニーカー。髭は生えていない。眼に黄疸の症状が見られる。長財布が尻ポケットからはみ出ている。それ以外の目立った持ち物は見当たらない。
件のナンパ師だろうと判断する。
ずっと雑踏を眺めていたおかげで、不純な動機を抱えた不審者の足取りは、周囲より浮き上がってきて、それとなく分かるものだ。
アグロは一枚窓を振り返る。
工房の中では、完全武装のビビが何やらディスプレイを覗き込んで悪戦苦闘している。横に立ったスタッフの説明を聞き入れながら、何度も首をかしげている。
そのディスプレイを、かつてアグロは見た覚えがあった。
彼は内心で突っ込む。
「爆弾ってCADから作るのか……」
あの調子だと、あと一時間は出てこないだろう。
彼は不審者の尾行を開始した。しかし見失ってしまう。
やはりビビのところに戻ろうかと思った頃だ。
一本道を左に折れ、黒壁に囲まれた袋小路。
突き当たりに無機質な扉があり、「関係者以外立ち入り禁止」の紙が貼られている。
そこにフィズィは魂が抜けたように立っていた。一人だった。
しかしアグロは見てしまった。彼女の腕から黒い霧が立ち昇っているのを。
黒い霧はうねりながら、空中である形を保っていた。
蛇。
それが、しゅる、しゅるる、るる、と彼女の腕のなかに滑るように戻っていく。そして腕に彫られたタトゥーになった。もう蛇は動かない。
フィズィはその手を慎重に下ろし、よわく拳をつくる。
それからハッと息を呑む。
「……どこまで見た?」
アグロは平静を装って答える。
「いま来たところさ」
「あのね、あのね、喰べちゃったの。さっき言ってたナンパ師が来てね、逃げたら行き止まりで、腕をつかまれて、完全にヤバいと思ったんだけど、そしたら腕の蛇が飛び出てきて、グワッと……」
彼女の足元には青いハンチング帽が落ちていた。それをかぶっていた本体は、フィズィの腕の蛇が喰らってしまった、という。
「お腹いっぱいか、よかったな」
「アタシはお腹空いてる。そうだ、いっしょに昼ご飯にしない? ビビちゃんも連れて」
「おごるつもりはないぞ」
するとフィズィは眼を見開き、信じられないという顔をした。怪訝そうなアグロの顔を見て、彼の粗雑な口調を真似して言うのだった。
「あのさ、アンタより稼いでいるんだが?」
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