第26話 倉敷先生との時間





「本当に申し訳ありません」


「い、いえ。そんな謝らないでください」


 土下座までしそうな勢いに、俺は何度も大丈夫だと伝えた。でも倉敷先生は止まらない。


「何度も日程を確認していたはずなのに、まさか締切を一つ勘違いするとは。こんなミス、今まで無かったのに。どうしてこんな日に限って」


 今日は倉敷先生とデートの日だった。色々と計画を練ってくれていたらしいが、当日になってやらなければいけない仕事が見つかった。それは、どうしても今日やらなければ駄目だった。もしも遅れたら、倉敷先生の今後の作家人生を左右するかもしれないぐらい、大事な仕事だったのだ。

 そういうわけで、急遽予定をキャンセルして家で仕事をすることになった。さあ行こうとしていた矢先の出来事だったのもあり、倉敷先生は恐縮しきっている。こちらが申し訳なくなってくる勢いだ。


 日にちの変更も提案したのだが、すでに竜樹さんとの日程が決まっていたのと、倉敷先生本人が断ったために止めた。


「そんなに落ち込まないでください。ささ、倉敷先生は仕事に集中しましょう。俺はお茶でも淹れてきますね。上手く淹れられないかもしれませんが」


「何から何まですみません……」


 ガックリとうなだれながらも、仕事は待ってくれないからキーボードに手を置いた。カタカタと叩く音を聞いて、俺は邪魔をしないようにそっと部屋から出た。

 四苦八苦しつつ、なんとか及第点やもらえそうなお茶が入ると、冷める前にと丁寧に運ぶ。集中を削ぎたくはなかったから、音を立てずに中へと入る。あらかじめ了解を取っていたので、そうしても怒られはしない。


「……ありがとうございます」


 静かにを意識して置いたが、気配でバレた。ありがとうと言われたけど、そんな大したことはしていない。


「あの……邪魔じゃなかったらですけど、この部屋にいてもいいですか?」


「この部屋にですか?」


「えっと、俺がいたら集中できないのなら断ってください。無理にとは言いませんので」


「私は別に構いませんが、退屈にさせてしまいますよ?」


「倉敷先生が執筆をしているところを見ていたいんです。静かにしていますから、お願いします」


 こんな機会でなければ、見ることは叶わないだろう。予定をキャンセルせざるを得なかった後ろめたさがあるから、なかなか断りづらい状況だ。そこに付け入ろうとしていた。

 八割がた正解すると確信しつつ、お願いをすれば倉敷先生は息を吐く。


「見ていても何も面白みは無いと思いますが……退屈だと感じたら、いつでも止めていいですからね」


「分かりました。ありがとうございます!」


 結局向こうが折れてくれて、俺は執筆の様子を同じ部屋で見守ることになった。

 こんな頼み事をしておいてなんだが、できる限り邪魔にならないように存在感を消した。見すぎても嫌だと思って、まじまじとは見ないようにも気をつける。


 最初は俺の存在が気になっていた倉敷先生も、仕事が差し迫っていることを思い出して、すぐに執筆の方に集中しだした。

 キーボードの音が心地よい。パソコンの画面に向ける真剣な眼差しも、見ていて格好いいと思った。

 今回締切日を勘違いしていたのは、短編だったおかげで、何とか間に合わせられそうだと言っていた。ある程度手をつけていたところだったから、まだ良かった。


 倉敷先生は退屈するかもと言っていたが、全く飽きる気配がない。むしろこの時間が、ずっと続けばいい。こんなふうに穏やかに過ごせるのも、今日で最後なのかもしれないのだから。


 執筆を始めてから、二時間ほどが経った。集中するのもいいことだが、そろそろ休憩するべきだ。先ほどから、まばたきが多くなっているので、目も疲れている頃だろう。でも本人はまだ続けそうな雰囲気だ。焦っているからかもしれないが、疲れていたらパフォーマンスが下がる。特に小説に影響が出るから駄目だ。

 俺はそっと部屋から出ると、目的のものをとってきた。


「倉敷先生。甘いものでも食べませんか?」


「……椿君。もうこんな時間ですか」


 お茶のお代わりと、戸棚にあったクッキーをお盆にのせて持ち、音を立てて部屋に戻った。そうすれば、ノロノロと顔を上げた倉敷先生が俺を視界に入れた。

 最初は視界に入れていても写していなかった瞳が、段々と俺を認識していく。そして力なく笑った。


「進捗はどうですか? 俺は邪魔になっていませんでしたか?」


「ちゃんと間に合いそうです。それに椿君がいるおかげで、いつもより捗りました」


「気を遣ってもらわなくていいんですよ。俺は何もしていませんから」


 ただ見ていただけだ。今も、出来合いのクッキーを持ってきただけである。助手だったら給料泥棒だろう。謙遜ではなく本気で否定したのだが、倉敷先生は微笑んだまま俺の手を掴んだ。


「椿君の存在が、私の力になるんです。君がいてくれたら、私は素晴らしい作品を書けそうです」


 喜ばせてくれるために大げさに言ってくれていると分かっていても、その言葉は俺をとても幸せな気分にさせてくれた。


「あの、またこうしてもいいですか」


「……ええ、ぜひ」


 この約束が、いつか叶えられればいいと強く願った。




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