第8話 迫られる





「おい。椿」


「な、なんですか」


 目の前にいる竜樹さんが怖い。視線が合わせられなくて顔をそらせば、舌打ちをされた。

 廊下を歩いていた時、すれ違った竜樹さんが突然俺の体を壁に押し付けてきた。

 顔の横に手を置き、向かい合うようにして閉じ込められている。隙がないから逃げられない。

 家には誰もいなかった。倉敷先生は買い物、優介君は手続きをしに役所に行っている。竜樹さんは休みみたいだ。つまり、今は助けてくれる人がいない。


「お前、なにヘラヘラと愛想を振りまいているんだよ」


「愛想って……」


 どうしてそんなにイラついているんだ。睨みつけてくる竜樹さんに、俺は視線をそらしたまま、早く解放してくれないかと、それか誰かが帰ってきてくれないだろうかと現実逃避する。


「何考えてるんだよ。話聞いてるのか?」


「いたっ」


 別のことを考えていたら、頬を掴まれて無理やり視線を合わせられる。掴む力が強くて痛い。


「は、はなっ」


「俺の言うことを聞くなら、離してやるよ」


 竜樹さんの顔が近づく。近い。呼吸を感じるぐらいの近さだ。顔をそらしたいのに、掴まれているせいでそれも出来ない。


「言うことって……何を聞けばいいんですか」


 言うことを聞けば離してくれるのなら、要求を飲んだ方が早いだろう。そう思って聞いてみた。


「そんなの決まってるだろ。さっさと俺を選べ」


「選べって……そんな」


「なんだ? 俺以外を選ぶつもりか? あの作家先生? それともクソガキか?」


「俺は誰も選ぶつもりなんて」


「選ばないと終わらないのは分かっているだろう。俺を選べば終わるんだ」


「い、いや」


「嫌? 何が嫌なんだ」


 何が嫌って、全てに決まっている。この状況の全てが嫌だ。

 言えずにいると、また舌打ちが聞こえてきた。


「くそ、イライラする」


 勝手にイラつかれても困る。そう言おうとしたが出来なかった。さらに近づいた顔。いや、これはもう近づいたのではない。触れている。どこが。唇が。

 キス、してる。それが分かった途端、一気に体に熱がともった。

 勢いよく胸を押す。火事場の馬鹿力というものなのか、竜樹さんが離れる。


 唇を拭った。感覚が消えない。初めてだったのに。


「そんなにこすったら痛くなる」


 ゴシゴシと拭っていたら、その手をとられた。一体誰のせいだと思っているのか。睨みつけるが、竜樹さんはどこ吹く風で笑う。


「もしかして初めてか?」


 にやりと笑う姿に、殴りたくなった。どうしてそんなに嬉しそうなのか。初めてだと、何か変わるのか。もう取り戻せないのに。


「最低、だ」


 どこかで、まだ初恋を引きずっていた。竜樹さんと一緒に住むようになって、一番心臓が騒ぐことが多かった。憧れの人が身近にいるのだ。それも仕方ない。

 しかし、今ので完全に消えた。好きだという気持ちが全て。こんなふうに無理やりキスする人だとは思わなかった。俺の見る目がない。


「俺は、あなたを選ばない。絶対に」


 こんなことを言っても響かないだろう。どうせ馬鹿にされるだけだ。

 そう思ったのに、竜樹さんの表情は違った。

 辛そうな顔。苦しそうな顔。俺の言葉に傷ついている。


「……俺のことを選ぶ、きっとな」


 それは懇願にも聞こえた。





 どうしてキスをされたのだろう。

 俺は無意識に唇をなぞる。


 あれから、竜樹さんとは話をしていない。元々忙しい人だから、二人きりにならないように調整するのは簡単だった。

 何か言いたげに見られても無視している。もう話すことは何も無い。

 またキスでもされたらと思うと、逃げる以外なかった。


 そんな俺の動きは、他の二人にもすぐに気づかれた。あからさまに避けているから当たり前だ。


「須藤さんと、何があったんですか?」


 特に一番年上の倉敷先生は心配したようで、面談みたいな形で尋ねてきた。

 言いたくはなかった。話をするのなら、キスされたことも言うしかない。

 無意識に唇に手を伸ばした。


「……それ」


「へ?」


「最近、よく唇を触っていますよね。前からそういうくせがあったわけではないですからね、何かきっかけがあったのでしょう?」


 目ざとく指摘されて、俺は慌てて指を離すがもう遅い。

 こちらをじっと見つめてくる倉敷先生は、何があったのかを分かっていそうだ。それなのに助け舟を出してくれることなく、俺から話すのを待っている。


「きっかけは、ありました。でも、言えません」


「そうですか……私にも言えませんか」


 倉敷先生ならいいアドバイスをくれたとしても、俺は話せなかった。うやむやに誤魔化そうとすれば、ため息を吐く声が聞こえた。


「そうですか。残念です」


 そう言って、倉敷先生は首を振った。


「大方、キスでもされましたか?」


 このまま見逃してくれるかと安心したのに、俺が隠そうとしたことをあっさりと指摘されてしまった。

 上手い返しが思いつかなくて、ただ口をパクパクと開けたり閉じたりした。


「図星のようですね」


 次に何を言われるのかと怯える俺に、倉敷先生が立ち上がって近づいてきた。


「その唇を許したんですか。もしかして、あの人のことが?」


 その顔は逆光のせいで、とてつもなく恐ろしく見えた。






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