第7話 バチバチと




「たっだいまぁ」


「……た、ただいま」


 まだ新しい家に慣れていない。

 挨拶もぎこちないものになってしまった。


「おかえりなさい。椿君、満重君」


 出迎えてくれた倉敷先生は、エプロン姿だった。真っ黒のそれは、とてもよく似合っている。四人で住むことになり、家事の分担がされた。その中で、小説家である倉敷先生がほとんどの家事を担うと自分から言い出した。しかしいくら在宅の仕事とはいえ、全く暇というわけではない。さすがにそれは負担がかかると、話し合いは難航した。

 竜樹さんは仕事で家事をする時間がなく、当番制には出来なかった。そうなると、俺と優介君が手伝うという形をとるしかない。倉敷先生だけに大変な思いはさせたくないから、出来ることはなんでもするつもりだ。

 倉敷先生は気分転換になると言うが、優しすぎる。それで全部任せられたらどうするつもりなのか。もっと人に頼るべきである。


「今、ちょうど夕飯の支度をしているところです。待っていてくださいね」


「俺も手伝います」


「俺もぉ」


「ありがとうございます。それでは手を洗ってから、お願いしますね」


 在宅できる仕事とはいえ、逆にそっちの方が休みとの境界線がない。さらに家事も加わってしまえば、執筆活動に影響が出るかもしれない。それは俺が困る。倉敷先生の新作を楽しみにしている読者の一人として。

 急いで手を洗うと、すぐにキッチンへと向かう。


「今日は何を作るんですか?」


「今日はトンカツにしようと思うんだ」


「わ。豪勢ですね」


「今日は、朝から大変だったよね。だからいっぱい食べてもらいたくて。キャベツの千切りは出来るかな?」


「はい。任せてください」


「俺はぁ?」


「それじゃあ、食器を用意してくれるかな?」


「はぁい」


 朝よりも穏やかだ。ご飯を作っているからだろうか。

 いや、たぶん竜樹さんがいないからだ。竜樹さんは我が強い。そのせいで衝突してしまう。

 基本的に穏やかな倉敷先生と、ゆるゆるとした優介君は喧嘩に発展しない。平和だ。


「あの。竜樹さんはいつ頃帰ってくるんですか?」


「そうですね。会社の方が忙しいでしょうから、遅くなると思いますよ」


「そうですか」


 無駄なトラブルは心臓に悪いから、遅くなると聞いて安心した。


「……須藤さんのことが苦手ですか?」


 安堵の息を吐いていると、倉敷先生が急に聞いてきた。キャベツを切る手を止める。


「どうしてですか?」


「須藤さんの前では、椿君がどこか怖がっている気がします。昔からの知り合いなのに、どうしてそんなに怖がっているのです?」


 その質問に、すぐに答えられなかった。竜樹さんを怖がっているのは事実だ。何故かと聞かれると、きっかけがあったわけではない。

 ただ、昔からなんでも出来る竜樹さんに気後れしていたのかもしれなかった。いつも雲の上の存在で、自信満々で、それだけの能力がある竜樹さんを羨んでいるのかもしれない。

 そして何も持ち合わせていない自分に嫌気が差して、そんなくだらない理由で遠ざけようとしている。


「……たぶん、憧れの存在すぎて、眩しすぎて、直視できないんです」


「憧れ?」


「はい。なんでも出来て格好よくて大人で、もしかしたら……」


 初恋の人だったかもしれない。その言葉は口にしなかった。さすがにそのぐらいの分別はある。というよりも昔の話だから恥ずかしい。


「ねぇねぇ、俺お腹減ったぁ」


 突然後ろから手が伸びてきた。首に巻きついてきたのは優介君だった。

 そこまで勢いはなかったけど、俺よりも身長が高いので前のめりになってしまった。包丁を持っていなくて良かった。危ない危ない。


「満重君、危ないですよ」


「そっかぁ。ごめんねぇ、大丈夫だったぁ?」


「大丈夫。でも優介君が怪我をしたら危ないから、料理中に抱きつくのは止めような」


「はぁい」


 優介君は素直に言うことを聞いてくれて、謝りながら背中から離れる。準備が終わった手持ち無沙汰だったのだろう。まるで子供みたいだと、俺はくすりと笑った。


「あと少ししたら出来るから、それまでいい子で待ってて」


 手を拭いて、頭を撫でる。そうすれば目を細めた。


「分かったぁ。いい子で待ってるよぉ」


 なんだろう。やはり弟みたいだ。それか犬だ。よしよしと撫でていれば、隣から手が伸びてきた。


「食事の時間が遅くなってしまいますから」


「あっ、すみません」


 撫でる手を止めるように、手首を掴まれる。確かに撫でている場合ではなかった。手伝いもまともに出来ないなんて、駄目だ。

 注意されて落ち込むと、また優介君が俺の背中に抱きついてくる。


「嫉妬してるのぉ?」


「いえ。私は子供扱いされたくはありませんから。婚約者として」


「なにそれむかつくぅ」


 竜樹さんがいてもいなくても同じだった。頬を膨らませた優介君が俺に擦り寄ると、倉敷先生の雰囲気が冷たくなった。

 この二人だけでも、穏やかな時間とまではいかないみたいだ。全くどうすればいいんだと、俺は前から後ろから挟まれながら現実逃避をした。

 これで竜樹さんまで帰ってきたら、一体どれだけ険悪な空気になるだろうか。俺を巻き込まないでほしいが、きっと無理な話なのだろう。




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