第2話 もう一人の婚約者候補





 竜樹さんの手を掴み、俺の顎から離させたのは、よく知っている人だった。

 知っているとは言っても、こちらが一方的にだ。向こうは俺の存在を認識していない。それぐらい雲の上の存在。

 こんな状況じゃなければ、会えたことを喜べたはずなのに。


倉敷くらしき先生?」


 思わずと言った感じで名前を呼べば、俺を見て優しく笑いかけてくれる。本物だ。本物の倉敷先生が目の前にいる。こんなに近くにいる。嬉しさで気絶してしまいそうだ。


 倉敷先生は、俺の一番好きな作家だ。

 フルネームは倉敷くらしきまなぶ三十歳。十年前に彗星の如く現れ、その容姿の良さも相まって、ミステリー界のプリンスという異名を持つ。タレント性で売れたのではなく、書いているのは本格ミステリーで、巧妙なトリックと重厚な人物描写に定評がある。かく言う俺も、小説に魅了されて好きになった。

 サイン会が開催されれば行きたかったけど、本人がメディア嫌いを公表していて、表舞台に立ったことは全くない。分かるのは小説の最後にある著者近影と、簡単なプロフィールだけだ。その情報の少なさに、ゴーストライターを疑われたほどだ。

 そんな人が、俺の目の前に立っている。夢か。本当に存在しているなんて。


 驚きすぎて固まっていると、倉敷先生が俺の手を握ってきた。


「私のことを知ってくれているなんて光栄です。はじめまして、椿君」


 触れられている。手を握られている。名前を呼ばれた。存在を認識されている。

 頭が真っ白になって、それに比例するように顔が熱くなる。きっと真っ赤だ。酸素を求める魚のように、口を開いたり閉じたりすることしか出来ない。


「とても可愛らしい方ですね」


 倉敷先生は、和装の似合う美丈夫だ。さらさらとした髪は顎にかかるぐらいの長さで、少し目にかかるぐらいの前髪から覗く涼し気な目元は、視線を向けるだけで人を虜にしてしまいそうだ。こんな近い距離で見つめられると、心臓がうるさく騒いで仕方がない。


「へ、いや、俺は」


 ここに倉敷先生がいるだけでも落ち着かないのに、どうしてそんなに熱の篭った目で見てくるのだろう。分からない。分からなくてキャパオーバーになっている。

 手を握られたままあたふたとしていれば、舌打ちとともに無理やり手を引き剥がされる。

 竜樹さんだ。俺の前に立つと、倉敷先生を睨みつけて威嚇し始めた。


「気持ち悪いことをしているんじゃねえよ」


「君に比べればマシだと思いますが」


 話している感じから、二人は初対面ではなさそうだ。険悪なのだが、どこか気安さもある。どんな知り合いなのだろう。全く共通点はなさそうなのに。


「えっと……倉敷先生はどうしてここに?」


 質問してみたが、頭の中では声高に存在を主張している考えがあった。しかし、それを簡単に受け入れるわけにはいかない。そんなまさか。ありえない。

 恐る恐る聞いた俺に、竜樹さんと言い争っていた倉敷先生は首を傾ける。その動きに合わせて、髪が揺れた。たったそれだけなのに、どこか気品があった。


「まだ伝えていなかったから、椿君を混乱させてしまったみたいだね。申し訳ない。私も、君の婚約者候補の一人なんだ。これから、よろしくね」


「……うそ」


 本人の口から言われても、まだ信じられなかった。否定してもらいたくて父を見たら、重々しく頷かれた。嘘ではないらしい。

 しかし、だからといってどうして倉敷先生が俺の婚約者候補になるんだ。竜樹さんはまだ分かるが、倉敷先生とは接点がないのに。祖父のせいか。そうに違いない。彼に迷惑をかけるなんて、今まで以上に恨みを感じた。


「あ、えっと。ごめんなさい。俺なんかが婚約者とか嫌ですよね。あの、変なことに巻き込んでしまっているみたいで……断ってもらっていいんですよ。こんなの、絶対におかしいですから」


 嫌われる前に、なんとかいい印象を持ってもらいたい。竜樹さんもそうだけど、倉敷先生のような容姿端麗で、能力もある人の婚約者に俺はふさわしくない。もっと素晴らしい人と結婚するべきである。

 祖父の遺言は、なんとか無しの方向に持っていけばいい。そう考えて必死に言葉を重ねたのだが、倉敷先生の様子がおかしい。悲しそうなのだ。もっと喜ぶと思っていたのに。

 竜樹さんも、何故か耐えきれないとばかりに吹き出した。


「ほら。あんたはお呼びじゃないってよ。諦めて、さっさと帰れ」


 馬鹿にした言い方。どうしてそんなに嬉しそうなのかと思っていると、いつの間にか倉敷先生がすぐ近くまで来ていた。


「椿君、君はとんでもない勘違いをしているよ。私は君の婚約者候補に選ばれて、とても嬉しい。どうか私を選んで欲しいと、そう思っているから、断るだなんて悲しいことを言わないで欲しい」


「は、はい」


 未だに信じられなかったけど、悲しませるわけにはいかず、とにかく頷いた。倉敷先生はパッと表情を明るくさせ、竜樹さんは大きな舌打ちをした。

 対象的な様子の二人に挟まれながら、俺は天国にいる祖父を恨んだ。本当に、とんでもない遺言をのこしてくれた。





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