第2話 もう一人の婚約者候補
竜樹さんの手を掴み、俺の顎から離させたのは、よく知っている人だった。
知っているとは言っても、こちらが一方的にだ。向こうは俺の存在を認識していない。それぐらい雲の上の存在。
こんな状況じゃなければ、会えたことを喜べたはずなのに。
「
思わずと言った感じで名前を呼べば、俺を見て優しく笑いかけてくれる。本物だ。本物の倉敷先生が目の前にいる。こんなに近くにいる。嬉しさで気絶してしまいそうだ。
倉敷先生は、俺の一番好きな作家だ。
フルネームは
サイン会が開催されれば行きたかったけど、本人がメディア嫌いを公表していて、表舞台に立ったことは全くない。分かるのは小説の最後にある著者近影と、簡単なプロフィールだけだ。その情報の少なさに、ゴーストライターを疑われたほどだ。
そんな人が、俺の目の前に立っている。夢か。本当に存在しているなんて。
驚きすぎて固まっていると、倉敷先生が俺の手を握ってきた。
「私のことを知ってくれているなんて光栄です。はじめまして、椿君」
触れられている。手を握られている。名前を呼ばれた。存在を認識されている。
頭が真っ白になって、それに比例するように顔が熱くなる。きっと真っ赤だ。酸素を求める魚のように、口を開いたり閉じたりすることしか出来ない。
「とても可愛らしい方ですね」
倉敷先生は、和装の似合う美丈夫だ。さらさらとした髪は顎にかかるぐらいの長さで、少し目にかかるぐらいの前髪から覗く涼し気な目元は、視線を向けるだけで人を虜にしてしまいそうだ。こんな近い距離で見つめられると、心臓がうるさく騒いで仕方がない。
「へ、いや、俺は」
ここに倉敷先生がいるだけでも落ち着かないのに、どうしてそんなに熱の篭った目で見てくるのだろう。分からない。分からなくてキャパオーバーになっている。
手を握られたままあたふたとしていれば、舌打ちとともに無理やり手を引き剥がされる。
竜樹さんだ。俺の前に立つと、倉敷先生を睨みつけて威嚇し始めた。
「気持ち悪いことをしているんじゃねえよ」
「君に比べればマシだと思いますが」
話している感じから、二人は初対面ではなさそうだ。険悪なのだが、どこか気安さもある。どんな知り合いなのだろう。全く共通点はなさそうなのに。
「えっと……倉敷先生はどうしてここに?」
質問してみたが、頭の中では声高に存在を主張している考えがあった。しかし、それを簡単に受け入れるわけにはいかない。そんなまさか。ありえない。
恐る恐る聞いた俺に、竜樹さんと言い争っていた倉敷先生は首を傾ける。その動きに合わせて、髪が揺れた。たったそれだけなのに、どこか気品があった。
「まだ伝えていなかったから、椿君を混乱させてしまったみたいだね。申し訳ない。私も、君の婚約者候補の一人なんだ。これから、よろしくね」
「……うそ」
本人の口から言われても、まだ信じられなかった。否定してもらいたくて父を見たら、重々しく頷かれた。嘘ではないらしい。
しかし、だからといってどうして倉敷先生が俺の婚約者候補になるんだ。竜樹さんはまだ分かるが、倉敷先生とは接点がないのに。祖父のせいか。そうに違いない。彼に迷惑をかけるなんて、今まで以上に恨みを感じた。
「あ、えっと。ごめんなさい。俺なんかが婚約者とか嫌ですよね。あの、変なことに巻き込んでしまっているみたいで……断ってもらっていいんですよ。こんなの、絶対におかしいですから」
嫌われる前に、なんとかいい印象を持ってもらいたい。竜樹さんもそうだけど、倉敷先生のような容姿端麗で、能力もある人の婚約者に俺はふさわしくない。もっと素晴らしい人と結婚するべきである。
祖父の遺言は、なんとか無しの方向に持っていけばいい。そう考えて必死に言葉を重ねたのだが、倉敷先生の様子がおかしい。悲しそうなのだ。もっと喜ぶと思っていたのに。
竜樹さんも、何故か耐えきれないとばかりに吹き出した。
「ほら。あんたはお呼びじゃないってよ。諦めて、さっさと帰れ」
馬鹿にした言い方。どうしてそんなに嬉しそうなのかと思っていると、いつの間にか倉敷先生がすぐ近くまで来ていた。
「椿君、君はとんでもない勘違いをしているよ。私は君の婚約者候補に選ばれて、とても嬉しい。どうか私を選んで欲しいと、そう思っているから、断るだなんて悲しいことを言わないで欲しい」
「は、はい」
未だに信じられなかったけど、悲しませるわけにはいかず、とにかく頷いた。倉敷先生はパッと表情を明るくさせ、竜樹さんは大きな舌打ちをした。
対象的な様子の二人に挟まれながら、俺は天国にいる祖父を恨んだ。本当に、とんでもない遺言をのこしてくれた。
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