第53話 だから、ずっとお傍に置いてください
一面の月見草を見て、サビーナは震えた。
月明かりに照らされたそれらは、浮かび上がるようにそよそよと揺らめいている。
「デニスはここまでで結構です。帰りなさい」
「いや、レイスリーフェ様が来るまでは……」
「誰がレイスリーフェに会うと言いました? 誰と密会しようと、私の勝手でしょう」
「……え?」
デニスは不思議そうな顔をセヴェリに向けている。そしてデニスの視線は次に、サビーナに向けられた。思わずサビーナはデニスの真っ直ぐな視線から目を逸らす。
「……サビーナと?」
「他言無用に願いますよ」
ちらりと目だけでデニスを盗み見ると、彼は一瞬眉間に皺を寄せ、視線をセヴェリに戻している。
「……もちろんです」
「では行ってください」
「……っは」
デニスはセヴェリに命令されるまま、この場を去っていく。
止めることも言い訳もできぬ中、サビーナは彼を見送るしかなかった。
そんな姿をジッと見つめているセヴェリに気付いて、サビーナは曖昧な笑顔を彼に向ける。
「追いかけたいなら、止めませんが」
「なにを……セヴェリ様一人を置いていけるわけがありません」
そう言うと、腕を引き寄せられて抱き締められた。丘を一人下って行くデニスが一瞬こちらを振り返るのが見える。しかし、その姿もすぐに闇に消えていった。
セヴェリはそれからすぐにサビーナを拘束から解き、にっこりと笑みを見せた。
「小腹が空きましたね。私もサンドイッチをもらってよろしいですか?」
セヴェリの言葉に、サビーナは急いでバスケットからサンドイッチを取り出す。
そして腰を下ろすと、二人で目の前に広がるの月見草を見ながらそれを口に入れた。
「月を見ながら月見草を愛でるなんて……贅沢ですね」
「あの本を読んだ時から、サビーナをここに連れてきたいと思っていたのですよ。花が終わる前にこられて良かった」
それからしばらくは、無言でサンドイッチを食べ進めながら風景を楽しむ。
お腹が満たされると、いつの間にか幸福な気分に満たされていた。先ほど宿へと戻って行ったデニスの姿も、記憶から消し去られるかのように。
「もう少し奥へ行ってみましょう」
そう言って彼は立ち上がり、差し出された手をサビーナは取った。
セヴェリに手を引かれるままに、花畑の中央へと足を進める。彼の足はだんだんと緩やかに止まり、そっとこちらを振り向いた。
その目は優しく穏やかで、口元は笑みをたたえている。そして彼は大きな月を背に言った。
「まだ仕切り直しは有効ですか」
「仕切り……直し?」
そう言われて思い出すのは、あの日の夜のこと。
サビーナが下着姿というとんでもない格好で椅子から崩れ落ち、助けようとしてくれたセヴェリと起こした接触事故のことだ。
「なんのことでしょうか。忘れました」
確かセヴェリはあの後、『あれは事故です。忘れなさい』と言っていた。ならばそう振る舞うのが妥当というものだろう。
「あなたのファーストキスのやり直しですよ。それとももう、誰かと済ませてしまいましたか……?」
若干寂しそうになった口調のセヴェリに、サビーナはフルフルと首を横に振る。それを見てセヴェリはホッとしたように息を吐き出している。
「良かった。この日が来るまでに誰かに奪われるのではないかと……気が気ではありませんでしたよ」
「セヴェリ様……?」
セヴェリの手がサビーナの頬に触れ、思わずビクリと体が跳ねるように震える。それを見たセヴェリは、少し苦笑いを見せた。
「大丈夫、無理にする気はありませんよ。それでは幸せなキスにはならないでしょう。少しお話でもしましょうか」
そっと肩を下に押されて、サビーナはそのままペタンと花畑の真ん中へと座り込んだ。セヴェリもしゃがむが、お尻は付けずに膝を立てている。
「ずっと聞きたかったんです。どうしてあなたは、私に尽くしてくれるのかを」
「どうしてって言われても……」
「あなたは私のすべてを受け入れてくれる気がする。私の黒い部分も、歪んだ部分も、すべて……」
熱い視線を向けられ、サビーナの顔は上気した。そして鼓動がトクントクンと波打ってくる。
確かにセヴェリの言う通りだ。彼のことはすべて受け入れてあげられる。
この気持ちは恐らくだが、母性に近い。
いつだったか、アデラオレンジの種を握りしめて誓った『セヴェリを生かす』という気持ち。
セヴェリという存在を否定せず、すべてを受け止め、そして包んであげたい。
サビーナは、己の胸の内から溢れ出る愛情に気付いた。
見返りなど期待しないその気持ちは本当に純粋で、自分にこんな崇高な感情があったのかと、頭の片隅で驚く。
そんな慈愛の心で満たされたサビーナは、セヴェリの緑青色の瞳を見つめながら、そっと頷いた。
「私はきっと、セヴェリ様を生かすために生まれてきたんです。セヴェリ様がセヴェリ様らしく生きられるようにと」
「サビーナ……」
セヴェリは感動したかのように言葉を詰まらせている。嬉しそうに。でも、どこかほんの少し苦しそうに。
サビーナがセヴェリにしてあげられることなど、ほとんどない。彼の思い通りに生かせてあげたいとは思っても、サビーナにはレイスリーフェの心を変えることは不可能だし、マウリッツのセヴェリへの期待を遮ることもできないのだ。
やれることは少ない。けれど、きっとなにかあるはずだ。セヴェリらしく生きることを、助ける方法が。
「だから、ずっとお傍に置いてください。私は、私だけは、なにがあってもセヴェリ様の味方でいますから」
そう伝えると、セヴェリは今にも泣きそうになりながら目を細めている。
「ありがとう……私が信用できるのは、あなた一人です……」
セヴェリの言葉をサビーナは重く受け止める。きっと、これは彼の本心だ。
サビーナが首肯すると、セヴェリはホッとしたように笑って少しずつ近づいてくる。
そして、コツンと額と額がぶつかった。
サビーナの目には、セヴェリの瞳しか映らない。
「セヴェリ様……」
サビーナはそう呟き、無意識のうちに目を閉じる。
「サビーナ……」
その瞬間、唇同士が重なった。
柔らかく、しっとりとした感触がサビーナの唇を優しく刺激する。
ほのかにレモンの香りがした。先ほど食べた、サンドイッチのジャムの味かもしれない。
一面の月見草と大きな月を背景に、二人はシルエットを作り出していた。
一瞬だけくっついて離れた影は、名残惜しそうに互いを見つめ合っている。
そのセヴェリの瞳はとても穏やかだった。そしてサビーナも、なぜかとても落ち着いていた。
彼はサビーナの隣に腰を下ろすと、花を愛でながら問いかけてくる。
「サビーナ。月見草の花言葉を覚えていますか?」
その問いに、サビーナは頷くようにゆっくり瞬いてみせた。
セヴェリはその答えに満足したかのように、地の上に乗せていたサビーナの手を、そっと握ってくれる。
「どうか朝までこのままでいさせてください……明け方になると白かった月見草がほのかにピンクに色づき、とても綺麗なのですよ」
被せられた手が温かく、そしてどこか切ない。
二人は手を繋いだまま、一面の月見草が色づくまで一言も話さずに見ていた。
無言の恋。
それが月見草の花言葉だった。
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