第39話 お可哀想なセヴェリ様……

 サビーナは現在、セヴェリの部屋にいる。

 なぜか膝枕という約束をしてしまっていて、サビーナは微妙に緊張をしていた。

 セヴェリは部屋に入ると黒縁眼鏡を外している。彼の眼鏡姿は似合っていたのに、少し残念だ。

 名残惜しく外された眼鏡を見ていたら、セヴェリがこちらを見て不思議そうに首を傾げた。


「どうかしましたか?」

「あ、いえ……眼鏡がお似合いだったので、もう少し見ていたかったなって……」

「おや、サビーナは眼鏡フェチでしたか」

「いえ、違います。リカルドさんを見てもなんとも思いませんし」

「限定で眼鏡好みとは、シェスカルのようですね」

「あー……はい。その感覚に近いかもしれません。眼鏡姿のセヴェリ様、とても素敵でしたから」


 すべて漏れなく本心だ。本来サビーナは眼鏡好きではないが、セヴェリが眼鏡を掛けるなら大賛成である。


「私限定で眼鏡が好きとは、嬉しいことを言ってくれますね」


 そう言いながらセヴェリは眼鏡を手に取り直すと、こちらに向かってきた。

 サビーナの真正面に立たれ、その眼鏡をこちらに向けてくる。


「セヴェリ様……?」

「サビーナも掛けてみてください」


 そう言うのと同時に、セヴェリに眼鏡を掛けさせられてしまった。この黒縁眼鏡は、サビーナには少し大きくてずり落ちてくる。


「お似合いですよ、サビーナも」

「いえ、絶対似合ってない自信があるんですが……」


 こういう大きな黒縁眼鏡は、爽やかな人間が掛けるから似合うのであって、爽やさの欠片もない平凡顔の女が掛けても似合うわけがない。きっとただの根暗に見えてしまっていることだろう。


「そうですね、サビーナには眼鏡などない方が可愛らしさが引き立ちます」

「あの、可愛くないですから……」


 そう言ってから気付く。そういえば、次に可愛いと言われる機会があった時には、素直にありがとうと言ってみたいと思っていたことを。もし時間を戻せたとしても、やはり言えそうにはなかったが。

 セヴェリはサビーナに掛けていた眼鏡を取ると、にっこりと微笑んだ。

 至近距離の笑顔は困る。ドギマギしてどこを見ればいいのかわからなくなってしまい、不自然に顔を逸らした。


「私が可愛いと思っているのですから、可愛いのですよ」

「うー……」


 やはり言われ慣れないため、素直に返事はできなかった。レイスリーフェやキアリカに比べて明らかに劣る自分に『可愛い』などと言われても、やはり疑念しか湧いてこない。


「本当なのですけどね。そんな風に困る姿を見ていると、つい意地悪を……おっと。あなたを可愛がってあげたくなります」


 意地悪を可愛がるに訂正し、ニッコリと微笑みを見せるセヴェリ。サビーナはタラリと額に汗を流す。


 思いっきり意地悪って聞こえたんですが……


 サビーナが苦味のある笑いを向けると、セヴェリの方が困ったように眉を下げた。


「……聞こえてしまいましたか?」

「えと……はい」

「私の悪い癖ですね。気に入った人にはつい意地悪をしたくなってしまう」

「はぁ……」


 気に入った人には、ということは、サビーナも気に入られているということか。それは嬉しいが、意地悪をされるとなるとたまったものではない。


「では、膝枕をしてもらえますか」


 セヴェリは唐突に、なんの脈絡もなくそう言った。庭園ではそういう話になっていたが、どうにも戸惑ってしまう。


「どうしました? デニスにはできて、私にはできませんか?」

「あの……こういうことは、レイスリーフェ様に……」

「私が彼女に頼めると思っているのですか」


 セヴェリの若干の苛立ちを感じて、サビーナは口を噤んだ。

 強く要望すればレイスリーフェは言うことを聞いてくれるかもしれないが、セヴェリにもプライドというものがあるだろう。言えないに決まっている。


「じゃあ……ソファで構いませんか?」

「ええ、いいですよ」


 セヴェリに確認を取ると、サビーナは長いソファの端にちょこんと腰を下ろした。その隣にセヴェリが微笑みながら座り、そしてゆっくりと頭をサビーナの太腿の上に下ろしてくる。

 金色の髪が、ふわりとサビーナの足の上で広がった。セヴェリは軽く目を閉じている。

 彼はデニスほどではないが整った顔立ちをしていて、男前の部類に入るだろう。そんな男前の高位貴族を膝枕しているなど、なんの冗談だろうか。今ある状況がどうにも理解しきれない。


「ああ、これは確かに……気持ちよく眠れそうですね」

「……眠れていないんですか?」

「そうですね……婚姻の日が決まってから、ずっと眠れていないです」


 それは、どういう意味でだろうか。婚姻が決まって嬉しくて眠れないのか、それとも……


「サビーナ」

「は、はい」


 名を呼ばれて改めて彼を見ると、閉じていた目は開けれてこちらを見据えている。そしてセヴェリは言った。


「あなたは幸せになってくださいね」


 微かに笑みを見せながら放たれたその言葉に、胸が痛んだ。

『あなたは』ということは、自分は幸せにはなれないと思っているのだ。


「……嫌です」

「え……?」


 サビーナの返答に、セヴェリは眉を寄せた。


「今、なんと?」

「嫌です、と言いました」

「なぜ……」

「セヴェリ様を差し置いて、私だけ幸せになどなれません! セヴェリ様が幸せになれないのなら、私に幸せなどは必要ありませんから!」

「それは……困りましたね……」


 セヴェリは本当に困ったように眉を下げている。


「セヴェリ様……ただのメイドがこんなことを言える立場でないのはわかっていますが……」

「なんですか?」

「レイスリーフェ様とのご結婚は、考え直された方がよろしいのではありませんか……?」


 本当に何て失礼な申し出をしているのかと、サビーナは自分でわかっていた。

 これはリックバルドのためを思って言っているのでは、もちろんない。

 セヴェリがレイスリーフェのことを愛しているのはわかるが、このまま結婚したとしてもきっと二人とも幸せになどなれない。

 彼には……セヴェリには、幸せになってほしかった。


「もう、決まったことなのですよ。今さら……今さら、どうにもなりません」

「そんなことはありません! まだご成婚前なのですから、どうにでも……」

「どうにもならないのですよ。ようやくここまできて、父が許すはずがありませんし」

「あ……マウリッツ様が……」


 セヴェリがレイスリーフェと結婚することでクラメルの軍事を傘下に置けるとあらば、この婚姻は是が非でも結ばなければいけない事項だろう。

 いちメイドであるサビーナがどうこう言ったところで、覆るはずもない。ないのだが。


「……サビーナ?」


 セヴェリの目が大きく開かれる。その彼の顔がぼやけて見えた。

 胸には爪を立てられたような痛みがチリチリと熱を持ち、喉の奥からは悔しさが漏れ出しそうになる。

 そして目からは、いつの間にか熱いものが滲んできていた。


「……ごめん、なさい……っ」

「どうしてサビーナが謝っているんですか」

「セヴェリ様は……本当は、幸せな結婚ができるはずだったのに……兄のせいで……」


 堪え切れず、瞳から一滴の丸い涙が溢れ落ちる。それは頬を伝わずに直接セヴェリの目元へと注がれ、まるで彼の方が泣いているように見えた。


「彼女の心を惹きつけておけなかった私が悪いのです。悔しいですが、レイスリーフェの私への想いというのはその程度のものだったのでしょう。互いに想い合って結婚しても、いずれは心が離れていく運命だったのかもしれません。彼女だけではなく、おそらく私の方も……」

「ならば……ならばやっぱりこの結婚はするべきではないと思います! 心が離れていく運命とわかっていながら結婚するなんて……」

「馬鹿だと思いますか? ……それでも私は、まだ一縷の望みにかけているのですよ。何事もなかったかのように過ごしていけるという望みに」


 サビーナはセヴェリから目を逸らした。

 面と向かって無理だ、などとは言えなかった。セヴェリとレイスリーフェとの間には、もう取り返しのつかないほどの大きな確執が生じている。リックバルドのことも然り、謀反のことも然りだ。

 セヴェリはレイスリーフェと謀反を諦め、別の誰かと婚姻を結ぶ方が幸せになれる。少なくとも、サビーナにはそう思えた。


「私は……お優しいセヴェリ様がつらい思いをなさるのは、我慢できません……っ」

「私は優しくなどありませんよ。腹黒で、底意地の悪い男なのです」

「そんなことは!」

「ありますよ。レイスリーフェをリックバルドの元へやって幸せになどさせたくない。私は自身のエゴと思惑のためだけに、彼女と結婚するんです」


 そう言い放ったセヴェリの目は、今までに見たことがないくらいに冷たかった。

 レイスリーフェとリックバルドを幸せにしたくない。謀反を成功させるために結婚する。そう宣言しているのだ。

 そんな悲しい結婚があるだろうか。いや、世の中にはきっともっと悲愴な婚姻を結ぶ人はいるのだろう。

 でも、セヴェリにはそんな結婚をしてほしくはない。

 皆に祝福され、互いに愛し愛される結婚をして、一生幸せに暮らしてほしい。


「……お可哀想なセヴェリ様……」

「……え?」


 サビーナは耐え切れずにひとつ、またひとつと涙を落とし始めた。セヴェリがそれを顔に受け、ゆっくりと上体を起こす。

 太腿の上にあった体温が、外気に触れることで冷たく感じた。


「なぜサビーナが泣くのです」

「セヴェリ様……私にできることはありませんか?mセヴェリ様が幸せになれるなら、私はどんなことでもいといません」


 己の兄のせいで、セヴェリの幸せが奪われたことに深い罪責を感じる。時間を巻き戻して元に戻せたならどんなにいいか。しかし今さらリックバルドとレイスリーフェを引き離したところで、レイスリーフェの気持ちがセヴェリに戻るとは思えなかった。

 だからこそサビーナは、そんな哀れなセヴェリの心に寄り添いたいと強く思う。


「優しいのは……私などより、あなたの方ですよ」


 そう言って、セヴェリの手がサビーナに伸びてきた。その手はサビーナの頬に触れ、優しく涙を拭ってくれる。


「少しだけ……」


 今度はセヴェリが、今にも泣きそうな顔をして。


「少しの間だけ、あなたを抱き締めてもいいですか」


 その問いに、サビーナはゆっくりと首肯した。

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